5-2
■ ■ ■
私が作った朝食を、福岡くんは残さず食べてくれた。あまりにも美味しそうに食べてくれるので訊いてみたら、家の事情を少し教えてくれた。
彼の父はトランペット奏者で、その友人がshow先生という関係。
学校に来た母はオペラ歌手で、学校に来たあの日はたまたま日本にいたらしい。
両親共に海外を拠点に活動しており、あまり家にいないようだ。日頃の食事は、出来物やカップ麺を買ったりして、手作りの料理を口にすることは滅多にないとのこと。
だから、私が作った手抜きの朝食でもかなり喜んでくれた。
音楽一家である福岡くんの実力を知るのが恐ろしい。そしてそれは的中した。
レッスン室で借りた楽器の音鳴らしをする。
「明日が本番……なんとしてでも成功させなくちゃ」
私は顔を一気に引き締める。
福岡くんが書いてくれた、手書きの新しい楽譜を譜面台に置き、曲を合わせてみた。
「!」
初めて聴く彼の音は、show先生の音によく似ていた。しかし、先生よりも音は柔軟性があり、優しい。
音を聴いて次に思うことは——彼は越えられない壁だということ。
そう思うのはshow先生の他にはいなかった。
「……」
自分より上手い人は沢山いる。でも、練習したら追いつけるという確信があった。なのに、彼らだけはどれだけ練習しても追いつけない絶望感があった。
曲を吹き終えると、呆然としながらも、ゆっくりと口を開いた。
「福岡くん、上手いね」
それしか言葉が出ない。
「もう一回、合わせてみましょうか」
彼は楽譜を指差しながら、注意する箇所を説明し始める。
その間も、カチカチと一定間隔でメトロノームは刻み続ける。
私はフルートを少し下に傾け、メトロノームに合わせて合図を送った。
旋律を奏でる私を、彼のフルートが伴奏で支える。
低い音域であっても、音をきちんと当てて響かせる。まるでチューバのような音色で安定していた。
楽譜を追い、お互いに目を合わせ、縦の拍子を合わせる。ピアノがフルートに替わっただけ。なのに、感覚のズレがある。合ったと思っても、リズムや休符によって僅かにズレていた。
そして、最大のズレは——
「眞野さん、ストップ」
演奏を中止し、彼は心配そうに私を見遣る。その双眸からなにが言いたいのか、痛いほどわかってしまっていた。
「ごめん。ピッチが高いよね」
さっき音程を合わせたばかりなのに。
そう言いながら、頭部管を一ミリより短く抜いた。全体的に音程が高いので、低くなるように頭部管を抜く方が早い。
「なかなか音程が合いませんね。音色も不安定だし」
「はい、すみません」
正直言葉として訊くと落ち込む。
彼の注意は優しい。相手を責めるような言い方は決してしない。それでも、自覚している分かなり凹む。
駄々をこねる子供のように「なんでピッチが合わないの!」と叫びたい。自然と俯いてしまう。
すると、彼はは急に歩き出した。窓を全開に開けると、寂しそうに鳴く油蝉の声が聞こえた。
「気分を変える為に、少し休憩をしましょうか」
窓から新鮮な空気が入ってくる。心地よい風が肌を撫でた。
「でも」
焦燥に駆り立てられ、眉を寄せた。
本番は明日だ。悠長なことは言ってられない。
言葉を続ける前に、福岡くんは私の顔を見て困ったような表情を浮かべた。
「唇が乾いてます。水を持ってきますね」
そう言われて唇に指を当ててみると、確かに乾いている。カサカサとしていた。
違和感のある喉も手を添えてみる。やはり乾いている。明らかに体は水分不足だと訴えていた。
「うん、ありがとう」
彼がレッスン室にある小さな冷蔵庫から水のペットボトルを二本取り出す。
私は静かに窓を眺めていた。爽やかな秋風が吹く。演奏で火照った肌を擽る涼しい風が気持ち良い。
楽譜に指で触れる。
折角徹夜してまで書いてくれた楽譜。ファーストとセカンドの二人分。編集すること自体大変だろうし、書くだけでも疲れたはずだ。それを無駄にしたくない。
譜面上にある、その音符達に命を吹き込み、音にすることが演奏者の役割。
それなのに私と言ったら音は擦れ、ひっくり返り、そしてたまに落ちる。最低だ。
なにが悪いのだろう。なにを直したらよくなるのだろう。show先生や福岡くんのように良い音色にする為には、どうするべきなのだろうか。
昨日吹いた時はよかったのに。
そう頭で考えた瞬間だった——
「あ」
風が勢いよく窓から入ってきて、指をすり抜け、楽譜がひらひらと飛んでいく。
「やべ……!」
ペットボトルを持ってきてくれた彼が声を漏らした。
私は突然のことすぎて声すら出ない。我に返り、すぐに手で楽譜を押さえるが、譜面台には一番下にあった『カルメン幻想曲』しか残らなかった。
譜面台から飛び出した楽譜が風に舞う姿を眺める。ひらりひらりと舞う楽譜。そこに風の通り道を見た。
「風が」
まるでスローモーションを見ているかのように、踊るように楽譜はゆっくりと舞っていく。
そして——
ホォォォォ
音が鳴った。
それはフルートからだった。
リッププレートの小さな穴に自然の風が入ったのだ。決して良い音色ではない。音の立ち上がりはボヤけ、風の音も混ざった音色。でも、それは心をくすぐった。
「風の音を鳴らした」
奇跡だ。風がフルートを鳴らすなんて。
風が徐々に弱くなる。
手で押さえていた為、たまたま飛ばなかった楽譜に視線を戻す。『カルメン幻想曲』は私を音楽の道に戻した曲であり、演奏会で最後に演奏する曲。
そして、風は止んだ。
私は徐にフルートを構える。
深呼吸を三回繰り返し、そして——
「眞野さん……!」
音とはどうやって出すのか。
力任せに息を吹き込む?
——違う。
息は最低限で良い。息のスピードは速く。角度を少し変えて、管に入る息と、出る息の調整をする。
風で音が鳴る。
力なんていらないんだ。
少しの風で音が出るくらないなんだもの。力みなんて必要ない。
赴くままに吹く風のように体の力を抜いて自由になれ。力に縛られるな。想いに縛られるな。
鳥のように軽やかに、自由に!
私を縛るものなんて、どこにもない!
気づいたら、曲を吹き終わっていた。心が軽い。
「眞野さん」
改めて名前を呼ばれて思い出す。そういえば、その前から呼ばれていたんだった。
「あ、ごめん! 急に吹きたくなっちゃって。えっと、水、ありがとう」
空笑いをしながら水を受け取ろうとするが、彼はペットボトルを離そうとしない。首を傾げていると、彼は嬉しそうに笑った。
「凄くよかったです」
「へ?」
「音も、曲も。自由気ままな『カルメン』っぽくて、思わず聴き惚れちゃいました」
「そ、そう?」
やり過ぎた感はあるが。
「『カルメンファンタジー』少し書き替えましょう」
「え! いまから⁉︎」
驚く私を他所に、福岡くんは譜面台にある楽譜と、落ちた楽譜を拾い上げて、ソファに座った。本当に書き替えるようだ。
彼の表情は生き生きしているように見えた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
少しでも気に入っていただけたら、下にある評価(★★★★★)やコメントなどで応援してもらえると非常に嬉しいです!
是非是非宜しくお願いします!




