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■ ■ ■
アパートのドアの前に着く。
少し前までここにいた。奈良栄先輩と、そして夏希も。
心が騒ぐ。怖いことが起きた場所だよ、と。怖い場所なんだよ、と。
先輩は、もうここにはいない。
そうわかっているのに、頭の隅で先輩の姿がチラつく。実は部屋に隠れているんじゃないかと、考えてしまう。
持っている鍵を、鍵穴に差し込めずにいた。恐怖で手が震えるのだ。
すると、福岡くんは横に立ち、私の手から鍵を取った。無理矢理でもなく、ただそれが普通のことのように。
そして、躊躇うことなくドアの鍵を開ける。ガチャリと鍵の開いた音がすると、体が強張る。顔を引き締めて、彼は先に入っていった。
真っ暗な部屋。
普段ならなにも思わない、帰宅時に見る光景。なのに、いまは違う。その暗さが不気味に見えた。
「だ、誰も、いない、よね?」
もし先輩がいたら、どうなるかなんて想像できる。頭の中でその予想を描いた瞬間、背中がぞっとした。
「くん、待って、先輩がいたら危ないから……ッ!」
前を歩く彼の腕を掴もうとした。
先輩が夏希だけではなく、福岡くんにまで手を出したら。男の子には容赦なく、怪我だけでは済まさないかもしれない。それだけは阻止しなければ。
しかし、腕を掴む前に、彼は部屋の照明のスイッチをつけた。
「お父さん、大丈夫ですよ。俺、これでも男なんで」
部屋が明るくなり、彼の顔がはっきりと見える。
どうして私の為にここまでしてくれるのだろう。危ない目にも遭うかもしれないのに、彼は前へ進んでいくのだろう。
「明るいところでみると、怪我、結構酷いですね」
私の顔を見て、目を見張る。私は首を横に振った。
「私の怪我なんて大したことない。私を助けに来てくれた夏希は、熱湯をかぶってしまったから……ピアノを弾く大事な両手をダメに、してしまったから……」
床に転がる電気ケトル。
私の視線に気づいた福岡くんは、その矛先を見ると、納得したかのように床を濡らす水を見下ろした。
彼は静かに部屋を見渡した。
荒れたままの部屋。テーブルは倒されて横になったまま。食器棚の中にある食器は乱れたまま。そして、床に転がるフルートに目をやると、優しい手つきでそっと手にとった。
「……酷いことをする」
その声は低く、怒りがこもっていた。
「管自体が曲がっているので、ダメかもしれませんが、一回修理に出してみましょう」
「いいよ。お金の無駄だもん」
私でもわかる。直らないって。キィも歪んで、深い傷もついて、なによりも横笛らしからぬ湾曲した体。
「でも、これは大切な楽器でしょ?」
そう言われて、いつの間にか落としていた視線を上げる。彼と目が合うと、「ね?」と言われた。
うん、そうなの。もうこの世にいないお父さんからのプレゼント。同じモデルの楽器は沢山ある。でも、お父さんから買って貰った楽器は別物。
私は、初めて貰った楽器を中学三年の時に壊してしまった。お父さんの悲しそうな顔を見て、もう二度と壊さないって誓った。
そう誓ったのに、お父さんとの約束を破ってしまった。どちらも同じような姿にしてしまった。
「……うん……もう、お父さんから買って貰った楽器はそれだけなの……ッ」
お父さん、ごめんなさい。
「もう、この世には、ないの」
お父さん、許して。
「お父さん、ごめんなさい……ッ」
込み上げてくる感情。泣き腫らした目が痛いのに、真っ赤な目から飽きずに涙が溢れる。
突然、頭の上に温かいものが置かれた。
「きっと、お父さんも許してますよ」
福岡くんは頭をポンポンと撫でた。大きな手で、父のように優しく。
彼は楽器ケースに入らないフルートをタオルで包み、袋に詰める。大切なものを扱ってくれる姿を見て、「ありがとう」と伝えた。
「眞野さんは、座っててください」
そう言うと、くんは床に転がる電気ケトルをキッチンカウンターに置く。
私は気持ちが落ち着くまで、彼の言葉に甘えてベッドに腰かけた。
「ねぇ、福岡くん」
「はい」
彼は手を止めないまま返事をする。
「ずっと言えなかったこと……前に会った時、酷いこと言ってごめんね。一方的に、その……」
「ああ。全然気にしてないんで」
あまりの爽やかさに、ポツンと取り残されている気分。でも、悪い気がしない。
「あと、今回のこと、頼っちゃってごめんね。前に連絡先消してって言ってたのに、私は消してないし、年下の君に、こんなどうにもならないことを言っちゃうし……そ巻き込んじゃったら、ダメだよね」
消え入りそうな声。しっかりしなきゃと思ってるのに、行動は伴わない。
絡める指を見下ろす。フルートを支える手。フルートだこができてる。硬くなっているそこを指でなぞる。
「ダメですよ」
優しい声色に顔を上げた。
「そんなふうに思っちゃあ」
「でも」
「それに、いろんな人がいる中で俺を選んで連絡してくれたんでしょ? 俺なら大丈夫だって」
「それは……」
ぎゅっと手を握る。
福岡くんならなんとかしてくれると思った。もしなんとかならなくても、良いとも思っていた。
「約束通り、俺が助けますよ」
幼さが残る顔が、にっこりと笑う。
その笑顔が心を擽る。温かくて、自身にも優しくなれるような朗らかさが心地良い。
「年齢なんか関係ないです。辛い時は頼ればいい。甘えたっていい。そうやって支え合って生きてくもんじゃないですか」
彼は床をタオルで拭いた。
先輩がいた時は熱かった湯が、福岡くんがいるいまはただの水。怖いものはない。安心できる人の傍にいられたら、そんな怖い思いをしなくても済むのだろうか。
「こんなおばさんが君を頼っても、嫌じゃないの?」
「はは。嫌じゃないですよ。本当に嫌なら連絡先なんて教えないし、ここまで来ない。なんなら、ぎゅーって抱き締めましょうか?」
冗談混じりに言って、両手を広げる。
わかってる。本気じゃない。
でも——体は勝手に動いていた。
「うん」
私は福岡くんの胸元に飛び込んだ。
人の体温が肌に伝わる。温かい。久しぶりに感じる人肌が気持ち良い。
ああ、バカだな。
年下にセクハラまがいなことをしてる。でも、抱きしめてほしい。抱きしめたい。苦しくなるくらい。悩みがどうにでもなれと思えるくらいに。私を壊して——
突き離されるだろうか。拒絶、されるだろうか。目をぎゅっと瞑る。拒否されるのを待っていた。
「……」
待つ。
「…………」
ひたすら待つ。
「………………?」
来ない。なにも来ない。
不思議に思い、顔を上げてみると、そこには頬を朱色に染め上げている福岡くんがいた。
すると、私も段々照れてくるもので。私まで固まっていると、福岡くんは広げていた手で、遠慮気味に私の頭を撫でた。
「いまだけですからね」
そう言って、そっと抱き締めた。
腫れ物に触るように、優しく。
お互いの視線が交わらないまま、暫く体温を確かめ合うように離れなかった。
「怖かったですね」
「……うん」
「俺がいますから、安心してください」
「……うん」
それが一時だったとしてもよかった。
恋人じゃないのに抱き合うなんておかしな話。
福岡くんは本当に私のことを変に気遣ってないんだろうなと、やっとそこで思うことができるようになった。
「ハッ!」
わざとらしく声を上げたと思ったら。急に体を離され、福岡くんはまじまじと私と視線を合わせる。
「いまから早く片付けて、家に行きましょう! 時間がないですし」
そう言って、早い動きで床を拭いていく。
それがもう照れ隠しだとバレバレで。なんだか、私も恥ずかしくなった。私は逃げるように離れ、食器棚の中にある食器を整えていった。
「…………家?」
さらっと福岡くん、言いましたけど、家って言いました?
「福岡くん、家って言った?」
「はい、言いましたよ」
「……………………」
年頃の男の子の家に行くことになるなんて。
流石にまずくない?
いやいやいやいや、まずいでしょ。あのお母さんもいるんだよね。気まずいですよね。向こうも。
体がブルリと震えた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
世間ではクリスマスイブです。
そんな日に読んでいただけて誠にありがとうございます。
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