3-1
どうやって集中治療室前に来たのか覚えていない。
気づいたら長椅子に座っていた。
涙が乾いて、顔がパサパサしているのがよくわかる。でも、顔を洗うこともできなかった。私はそこから一歩も歩けなかった。
夏希に大きな怪我をさせてしまった。
演奏会もできない。
大切なフルートも壊れてしまった。
いまの私は無気力で、息をすることも辛かった。
目の前が真っ暗で、もう消えてしまいたい。そんなことを考えたらダメだってわかってる。でも、なにもできなくて、なにも打開策が思い浮かばなくて、押し潰されそうだった。ただの空気に、いまにでもプチンッと。
「しほりちゃん。まだここにいたの?」
声が聴こえて、そちらの方へ顔を向けると、二人の男女が歩いてきた。夏希の両親だ。
おばさんが心配そうに私の顔を覗き込みながら隣に座る。一方、おじさんは壁に背中を預けていた。
「もう夏希の治療は終わったんだから、ここにいなくてもいいのよ」
おばさんの言葉を聴いて、やっと思い出す。
あぁ、そうか。
もう治療は終わったんだっけ。
よく覚えてない。
反応がない私の手を取る。
「いろいろ説明するのは辛かったでしょう」
辛かった? うん、辛かった。
「夏希の火傷もそこまで酷くなかったみたいだし、心配しないで。いまからはあなたの心の治療をしなくちゃね」
そんなことない。だって、集中治療室に入ったじゃない。
「夏希から伝言を預かってるわ」
「……私に?」
声を出した私を見て、おばさんは嬉しそうに微笑んだ。
「そうよ。『演奏会を中止にしないで』て、言ってたわ」
「無理ですよ……そんなのできっこない!」
「どうして?」
「だって、大切な友達を傷つけたんですよ? 楽器も壊されちゃったし、私になにができるんですか……? 私はなにもできない。私には、もうこれ以上なにもできないんですよッ‼︎」
気持ちを叫んだら、おばさんはギュッと手を握り締めた。その力強さに、口の両端を吊り上げる彼女を見遣る。
「私の大事な娘を傷つけたのは、あなたじゃない」
その眼差しがあまりにも母のように優しく、荒んだ心に温もりが広がる。
「夏希は諦めてないの」
「どうして?」
「演奏会、ずっと頑張ってきたんでしょう? 何年も続けてきて、今年で初めて満員になったんだって、前にね、嬉しそうに言っていたの」
「それは……そう、ですけど。私、プロでもなんでもないし……」
「もし、ここで諦めたら勿体無いって思ってるんじゃないかしら」
そこまで価値があるのだろうか。私の演奏に。
「あなたの演奏をみんなが待ってるのよ?」
私の手を目の前に持ち上げた。
「だって、その一人がここにいるんですもの。この細い指が奏でるフルートの演奏を楽しみにしてるんだから」
心臓がドクンと鳴る。
さあ、元気を出してと言わんばかりに、私を鼓舞する。それは真っ暗闇に一筋の光がさしたような気持ちだった。
「後ろにいるお父さんもね、あなたの演奏を楽しみにしてるの」
「え?」
視線を向けると、照れているのか、プイッと目を背けられた。
「確かにしほりちゃんはプロじゃないかもしれない。でも、聴いてる方なんて、そんな細かいことを気にしてないわ」
「う、嘘ですよ、そんなの」
「プロでもアマチュアでも、上手な人は上手じゃない。大切なのは、プロかどうかじゃなくて、聴いてる人に心を打つような曲を奏でることができるかということ。だから、あなたはずっと頑張ってきたんじゃない」
すると、黙っていたおじさんが口を開く。
「君の演奏を聴いてると、心を揺さぶられる。映画を見ているような気分になる……純粋に面白いんだよ」
すんなりと言葉を飲み込む。地母神のようなおばさんも、厳つい顔をして、恥ずかしそうにするおじさんの思いも一緒に。
私は頑張らなければならない。諦めようとする自分に負けてはならない。いま、踏ん張らなくては。苦しいいまだからこそ、ここから逃げちゃダメだ。
彼女の手を握り返した。
「……ありがとうございます」
こんな現実でも、もう少し抵抗してみよう。
「少し元気が出ました。諦めずに頑張ってみます」
「夏希には私達が付いてるから。一緒に応援してるわね」
応えたい。
応援してくれる人が、例え二人しかいなかったとしても。私はその二人の為に応えたい。
■ ■ ■
夏希の両親は、娘が眠っている病室に戻った。
私は病院の外にあるベンチに座り、代わりのピアノ伴奏者がいないか探した。電話もかけたし、メールも打った。でも反応がなかったり、無理だと断られて、見つからなかった。
元々音楽関係の知り合いが多い方ではないので、残念な結果が出るのは早かった。もし私がプロだったら、少し違った結果になっていたかもしれない。
無意識に視線が下がる。溜息が漏れる。
「いかんいかん。弱気になっちゃう」
両頬を叩いて気合を入れる。
そして、下を向きたがるなら、一層の事上を向いてやれと夜空を仰いだ。
薄い雲が紺の空を覆う。雲の合間で光る星達。しかし、その光は目を凝らして漸く見えるもので、か弱くも見えた。
「やっぱり私には無理なのかな」
青い光。赤い光。
点滅する光は、広い空を横断するように飛んでいく。雲の中に入っては消え、抜けては光る。
最近、こんな夜空を見た気がする。
「……福岡くん」
彼と見たんだ。七夕の日、彼が待っていてくれて、一緒に夜空を眺めながら帰った。でも、
「連絡先を消してって、自分で言っちゃったもんな」
あんなこと、言わなければよかった。
ぼーっと、夜空を眺める。肌を撫でる、ほんのり冷たい風。
いま、連絡をしたら都合のいい女だと腹を立たせるだろうか。
それとも、既に関わる価値のない人間に成り下がっただろうか。
電話をかけるのが怖かった。
なかなか勇気が出ない。
いや、疲れたのかもしれない。いろんなことが起きたから。涙も流れないし。
カバンから、自動販売機で買ったペットボトルを取り出し、一口飲む。
味がしない。一体なにを買ったのだろうとラベルを見る。外灯の光に照らされて見える文字は、正午の紅茶。甘いミルクティーのはずなのに、甘さを感じず、水を飲んでいるようだった。
喉を潤してから、福岡くんの連絡先を画面に出す。
「怖いなぁ」
でも、なにかをしないと変わらない。このまま演奏会を中止にできないから。
人の繋がりが打開策に繋がればいい。そう思って、目をギュッと瞑り、深呼吸を繰り返す。
ただでさえない勇気を振り絞った。
電話の呼び出し音が続く。
出ないかな。やっぱり。
そろそろ諦めよう。そう思って、スマートフォンを耳から離した時だった。
『………… 眞野さん?』
慌ててスマートフォンを耳に当てた。
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