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■ ■ ■
愉快そうに先輩は笑っていた。
「……」
グシャグシャになった楽器を前に、私は茫然とする。見たことのない姿。傷をたくさんつけられ、あらぬ方向へ曲がる細いキィ。
痛々しいどころじゃなかった。紙屑と同然の姿に、私は涙すら出なかった。
先輩がテレビを見ていると、十三時から始まる地域に密着した番組が始まった。
私のスマートフォンが鳴る。着信だ。
「夏希……」
名前を見ると、少し動く気になれた。
「……」
黒電話のマークをタッチする。
『あ! やっと出た! しほり、いまどこ⁉︎ 本番はもう明後日よ? 練習、早く来なさいよ!』
怒っている。
でも、私はなにも言えずにいた。その異変に気づいたのか、夏希は自ら言葉を止める。間を置くと、それは心配する声色になっていた。
『……しほり? どうしたの?』
「……」
『なんか、あった?』
「なつ、き」
そう名前を呼ぶと、押し殺していた感情がぽたぽたと溢れ落ちてくる。
「たす、けて」
精一杯だった。そう言うのが、精一杯だった。
『……いま、アパート?』
「うん……」
『待ってな。いまから行く。すぐに行くから』
落ち着いた声で私に応えてくれた。
先輩は私の電話に気づいてはいたが、特に気にすることなく、すぐにテレビに視線を戻した。
先輩に命令されて、コーヒーを作ろうと再び電気ケトルでお湯を沸かしている時だった。
夏希は十分も経たずに来てくれた。急いで来てくれたのがよくわかるくらい、息を切らせて。
彼女が来ても、先輩は少しも気にする様子を見せなかった。
カチッと湯が出来上がった音がする。でも私はコーヒーを作らず、夏希に事情を話した。全て話した。いままで言えなかったことを全て。
最後に、私は楽器を見せた。震える手で楽器を出した。楽器ケースに入らなくなってしまった、無残なフルートを見せる時が、いままで生きてきた中で最も辛く、苦しかった。
ごめんなさいと、心の中で何度も謝りながら、楽器に触れた。
それを見た夏希は全てを悟ったような表情をしていた。そして、へらへらした様子でテレビを見る奈良栄先輩の背中をキッと睨みつける。
「アンタ、何様のつもりよ」
低い声が背中に突き刺さる。しかし、先輩は振り向きもしない。まるで夏希の存在を知らないかのように。
「大切な楽器をこんなふうにして、責任とってくれるんでしょうね!」
「ぁあ? うっせーなぁ。こっちは楽しくテレビ見てんだよ。邪魔すんなブス。おい、コーヒーはまだかよ」
一瞥しただけで、すぐにテレビの画面に戻す。
頭に血が上った夏希はどかどかと歩み寄った。
「アンタに出すコーヒーなんかあるわけないでしょ! 演奏会が中止なったら、その費用と壊した楽器代、弁償してもらいますから」
無視をする先輩の背中に金額を押し付けた。
「百万、飛んで五百円。これにキャンセルで払い戻しのチケット代が加わったら凄い値段よね。弁償、してくれますよね?」
金額を聞いた先輩の顔色が変わる。なんでその金額を払わないといけないんだと、苛立った眼差しで夏希を見た。彼女は怯むが、歯を食いしばって耐える。
「お前さあ、急にやって来てでしゃばってんじゃねーよ」
舌打ちをしながら、ゆらりと立ち上がる。
「先輩、お願いします…… 夏希は傷つけないで」
私は二人の間に割って入る。だが、簡単に私の体を押し除けた。
「しほちゃんさー、お願いばっかりだよねー」
「私の友達だから……手を出してほしくなくて……」
「でもさぁ、向こうから来たよね? 来たよね?」
その笑顔が怖かった。
「だから多少殴られても仕方がないよね」
「根っからの暴力男じゃん」
「ああ?」夏希の言葉に先輩はテーブルを蹴飛ばす。
ぶつかる大きな音が耳を貫き、私は怖くて身を縮こませた。
「しほり! 絶対にこんな奴と付き合うなよ! どうせ付き合うなら、福岡がいいんじゃない⁉︎ こんな奴に大切なダチは絶対に任せらんないよ!」
夏希の唇が微かに震えている。手も、足も。怖いはずなのに、彼女は尚も威勢を崩さなかった。
私の為にはっきりと言ってくれる。双眸からあたたかいものがぽろぽろと零れ落ちた。
「そーゆうことはさぁ、本人が決めることなの」
「暴力でしほりに脅迫させない。絶対に!」
「はあ? 俺はさぁ、力で屈服させるタイプじゃないよ? 別に。言葉でコミュニケーションをとってんの」
「ドメスティック・バイオレンスって知ってる?」
「暴力で人を支配する奴でしょ? そういやぁ、最近ニュースで見ないよねー」
「言っとくけどね、殴る蹴るがドメスティック・バイオレンスじゃないの。大声で怒鳴ったり、大切なものを壊したりするのも、〝暴力〟て言うのよ!」
頬を打たれた。
フルートを壊された。
いまだって、夏希に酷いことを言った。
この先輩は病気だ、きっと。私には先輩を受け止めることはできない。
「夏希……」
逃げよう。この場からすぐに二人で逃げよう!
そう口に出そうとした瞬間、先輩は激怒した顔で夏希に近寄った。
「黙っとけよッ! クソがッ‼︎」
「夏希!」
先輩は逃げ出そうとする彼女の体を押し倒す。電気ケトルを置いている白いキッチンカウンターに体が当たり、大きく揺れた。ずるりと端にずれる。
先輩が彼女に上乗りになろうと身を乗り出した時、彼の腕がなにかに当たる——お湯が入ったケトルだ。それは私の目の前で、ぐらりと傾いた。
安物を買った私が悪いのか。
蓋が開き、湯が外へ飛び出す。
「夏希いいい!」
叫ぶことしかできなかった。
名前を呼ぶことしか、咄嗟に出なかった。
逃げてと、言えなかった。
「きゃあああああ!」
夏希の悲鳴が部屋に満ちる。
熱湯は夏希の顔面へ降りかかった。顔を覆った、大切な両手に湯が濡らす。一瞬で皮膚が赤く変色した。
先輩はただ呆然としていた。口をあんぐりと開けて、なにが起こったのか、わかっていない様子だ。
急いで私は冷凍庫を開ける。こんな時に限って氷がない。
「冷やさなきゃ……冷さなきゃ!」
急いで風呂場に入って、シャワーから水を出す。身を縮める夏希を引っ張り、両腕に水をかけた。
「俺は……俺じゃない、俺じゃないんだ! 俺は悪くないッ」
かなり動揺した様子で、腰が抜けたようだった。膝から崩し、口は責任転嫁しようと動く。
全身を震わせて、床を這うようにカバンを掴むと、私達には目もくれずにドアへ向かう。
足が空回り、転けても、「俺は悪くない」と繰り返しながら、私達の横をすり抜けていった。
「夏希、夏希っ。ごめん、こんなことになるなんてッ……こんな、大きな怪我をさせて、ごめんなさいッ」
涙しながら謝った。
「し、ほ、り……」
「夏希! 夏希! い、いま救急車を呼ぶから、水を当てて冷やしてッ」
立てそうにない夏希にはこうするしかなかった。他に良い方法があったかもしれない。でも、なにも思いつかなかった。
震える指でスマートフォンの画面をタッチし、救急車を呼ぶ。
なんと説明したのか覚えていないくらい、必死に場所と症状を叫んだ。早く来て、早く助けて。繰り返し、そう訴えた。
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