2-1
二十日、奈良栄先輩の返事をしていないにも関わらず、彼は十時前に来た。
もういい加減にしてほしい。そう言えたら、幾分か楽になるのだろうか。自分が情けない。もっと勇気があれば。
テレビを見ながら部屋の中でくつろぐ先輩を見て、視線を落とした。
告白してきた件だって、特に意識している様子はない。酔った勢いでだったら、正直告白なんてしてくんなと心底思う。
暑いのでアイスコーヒーを用意しようと準備していたら、先輩は「ホットで!」と言ってくるものだから、ここは喫茶店じゃない! と叫びたくなる。ぐっと堪えて、黙って安い電気ケトルでお湯を沸かす。
テレビの画面が切り替わり、天気予報になった。
「あのさぁ」
「はい」
「二十二日、どうだったっけ? 暇なんだっけ?」
先輩は陽気に言う。
その瞬間、溢れそうになる怒りの感情を飲み込んだ。何回言っても頭に入らない。演奏会があると言っても、なんにも伝わってない。
でも。
言えない。
私にとって演奏会が大切だと言っても、それに興味のない先輩にはわからない。
これが価値観の違いというものなのだろう。
悔しい気持ちを落ち着かせる為に、息を長く吐き出した。
「その日は演奏会なんです」
精一杯笑ってみせた。
「へー」
生返事をしながら、彼はチャンネルを変えていく。
「……」
「そんなに演奏会が大事?」
「はい?」
予想していなかった言葉に苛つく。
「あのさー。俺、その日以外はもう時間が取れないんだよね。海外に出張なんだ。すぐ帰ってくるけど、忙しくなるし」
再放送のドラマが画面に流れると、リモコンを置いた。そして私の方を見て、困ったように笑う。
「いま、返事聞いていい? 俺達、付き合わない?」
やめて。
いやなの。
「あの、それ、は、いまじゃなきゃ、ダメですか?」
血潮が逆流するような思いもあるが、同時に激しい苛立ちが襲う。そしてあらゆるものを体が拒否していた。だが、私は耐えるしかなかった。
もし拒否してしまったら、職場が嫌な雰囲気になるのは目に見えている。気まずくなって、仕事がやりづらくなるのは避けたい。
だからといって、付き合いたいわけでもない。好きじゃないことに気づいたから。
「きっとしほちゃんならオッケーしてくれると思うんだ」
そんなことを言うのは卑怯だ。断りづらくしている。
意識が強い人ならまだしも、私のようにノーと答えるのが難しい人間にとっては、脅迫以外の何者でもない。流されてばかりで、意見を言えないままでいた自分が悪いのだが。
彼みたいに自分に自信があるわけでもない。
フルートみたいに、自分のことにこだわりがあるわけでもない。
母親みたいに、将来を悲観しているわけでもない。
なんて答えよう。
そう押し黙っていると、先輩は立ち上がり、私の前に来る。
座っている時はあんなに小さかったのに、前に立つと大きい——抵抗したって無駄だと本能で感じる。自分より体が大きい人が、怖い。気のせいのはずなのに、目に見える大きさよりも更に大きく見える。
「ねえ、しほちゃん」
ねっとりした声に聞こえ、不気味で。
「口を開いたら演奏会ばっかりだよね。大事なのはわかるけどさ、俺のことも大事にしてほしいな」
近づいてくる。手が、近づいてくる。
——怖い。
「いやっ!」
思わず頬に触れようとする手を叩いてしまった。
「あ……」
まずい。
先輩を叩いてしまった。「ごめんなさい」と言い切る前に、先輩の目を見て背筋が凍り、口が止まる。
「テメエ!」
急に低い声が大きく出してきて、体が震える。恐怖心が体を駆り立てる。逃げろ、と。
玄関に向かって走り出した。だが、彼の長い腕が私の腕に届き、がっしりと掴んで離さない。そして、そのままベッドに叩きつけるように、体を投げ飛ばした。
「きゃああ!」
壁に頭を打ち付ける。
ベッドに横たわり、目を開けた先にはハードケースに入れられた楽器。もしこれに先輩が手をつけたら……壊されてしまうかもしれない。私はハードケースを抱きしめた。
「大事そうに持ちやがって……お前が本来大事そうに抱かなきゃいけないものは、俺だろ?」
鼻で笑う。
髪が乱れようが構わない。この部屋から逃げなきゃと本能は訴える。ドアに視線を向けた瞬間、今度は頬を打たれた。
「痛ッ」
耳がキーンと鳴る。
遠慮のない力で叩かれた頬が熱く、ひりひりする肌に手を添える。冷たい手が心地良いと感じる間も無く、彼は抱いていた楽器ケースを奪い取った。
「いやっ! やめてえ‼︎」
伸ばした手を払われる。
「こんなモンがあるからいけないんだろ?」
彼は乱暴に楽器ケースを開ける。
心臓が鳴る。心臓が鳴る。
「やめて! お願い! それがないと演奏会に」
私の言葉に覆いかぶさる、先輩の声は悪意に満ちていた。
「やっぱりこれがなきゃあ、いいんだよな?」
「壊さないで! 本当に本当にお願いだから! 本当にやめて! 命よりも大切なものなの!! それを壊されたら——」
立ち直れない。
「こんな金属の塊が命よりも大切なわけねーだろ」
嘲笑う。私を冷たく嘲笑う。
そんな言い方をしてほしくない。あなたに楽器のなにがわかるの!
私は必死に手を伸ばした。
でも楽器に届く前に、彼は開けた楽器ケースをひっくり返した。ぐらりと楽器は傾く。冷たい床へ、まっさかさまに落ちていった。
あと少しと伸ばした指先に触れないまま、音を立てて転がる。その音に耳が悲鳴を上げた。心が悲鳴を上げた。
「なにを」
楽器の繊細なキィは曲がる。
「なにを……ッ」
銀の管に抉ったような大きな傷がつく。
「なにをしてるですかッ!」
悔しい。
なにもできなかった。
見てることしかできなかった。
悔しくて、悔しくて、初めて人を傷つけたいと思った。
考えるよりも先に体が動く。この人を引っ叩いてやろうと、右手を振りかざした。だが、
「〝会社の先輩〟に暴力? 上司にちくっちゃおうかな〜」
一瞬、そう言われて迷ってしまった。だから簡単に私の腕を掴まれ、そして食器棚の方へ投げつけられる。体の衝撃で収めた皿やコップが揺れて、音が鳴った。
体が、痛い。
心も、痛い。
「ちょっとしか傷ついてねえし」
つまらなさそうに先輩は身を屈めて、楽器を見る。「ただ落としただけじゃあなー」と呟いたと思ったら、バットでも持つかのように楽器を握った。
ダメだ。完全に壊される。へし折られる。
助けなきゃ。骨が折れてもなんとかなるけど、楽器はどうにもならない。
必死に先輩の体にしがみついた。
「お願いです、もうやめてください! それ以上傷つけられると直せなくなる……許して、お願い、もう、許して! 楽器はなにも悪くないの! なんにも悪くないから‼︎」
「さあ、一発いきましょうか!」
先輩は、ただ楽しそうに笑った。
バットを振り下ろすように、楽器をベッドフレームに勢いよく振り下ろした。
「いやあああああああああああああああ‼︎‼︎」
金属の横笛は、いとも簡単にくの字に曲がった。
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