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風のフルーティスト  作者: 蒼乃悠生
第三章 いろんな感情に振り回されたけど
19/42

1-2



  ■ ■ ■



 本当に彼は来た。

 二十三時過ぎ、奈良栄(ならさか)先輩はケーキの箱を持って。

「調子はどう? 眞野(まの)さん、ケーキ好きでしょ? 駅前にできた新しいケーキ屋さんで買ったんだ。美味しいと思うんだよね〜」

 怒涛の片付けと掃除で、なんとか人を入れられる程度に部屋は片付いた。

 しかしこの時間帯ということもあって、正直な話、すぐに帰ってほしい。悪い人ではないのはよくわかる。でも、疲れる。考えてから来てほしい。

 ケーキを一口入れながら、先輩にケーキが好きだと言った覚えはないのにと考えていた。

「…………」

 欠伸が出そうになるのを堪える。眠たい。眠たいのだ。先輩、察してくれないだろうか。

「……はい、美味しいです」

「あれ? 眞野(まの)さん、元気ない? ちゃんと食べて、よく寝ないと元気は出ないよ?」

 わかってます。わかってますとも。

 私は半分くらいケーキを食べたところで、フォークを置いた。

「先輩」

「なになに?」

 そう言って体を近づけてくる。そして酒のような臭いが風に乗ってやってきた。

「……お酒、飲みました?」

「うん! 部長と飲んでましたぁ!」

 顔をほんのりと朱色に染め、陽気に答える。

 彼は彼なりに私のことを心配してくれているのだろうが、いまの私には負担だった。ケーキを食べる暇があるのなら、『カルメン幻想曲』のイメージを固める為に、音楽を流しながら楽譜を読みたいところ。

 先輩に気付かれないように溜息をつくと、不意に肩辺りになにかが触れた。突然過ぎて、一瞬だけ息が止まる。

「ひゃっ!」

「しーほーちゃんっ」

 奈良栄(ならさか)先輩のごつごつとした、大きな手が肩に乗っている。そしてご機嫌そうに、下の名前で呼んだ。

 私は愛想笑いを浮かべながら、先輩の手を下ろす。すると今度は手を握られた。ぞくりと背中に寒気を感じた。

「あの、先輩……」

「俺なりにぃ、しほちゃんのことぉ、心配してんの! わかる? わかる?」

「先輩、手……」

 離してください。

 そうはっきりと言える自分だったら、どれほど良かっただろう。

 彼は私の意図する気持ちに反して、嬉しそうな顔をした。

「しほちゃんの手、小さいねぇ。可愛い」

 本来なら喜ぶ台詞なのかもしれない。顔は整っていて、声も良くて、仕事もできて、人望もあって……。良いところを挙げたらキリがないくらいの男性に、こんなに接近してもらえるなんて嬉しいことなのかもしれない。

 なのに、私は違った——触らないで。そう反射的に思った。だから、気づく。

 私、先輩のことが好きじゃないんだ。

 周りの期待というか、周りが望む希望というか、そんなものに踊らされて、舞い上がっていただけなんだ。

 だって、こんなにも——怖い。

 手が震える。

 汗を握る。

 いくら手を離そうとしても、男の力は強かった。本気を出せば、少しくらいはと期待していたのに、全く駄目だった。だから余計に力に支配される恐怖が襲った。

「先……あの! 演奏会なんですけど、興味ないってこの前おっしゃってましたよね? 案外聴いてみたらハマるかもしれませんよ? だから、一回——」

 ポスターを渡そうと鞄を手繰り寄せた瞬間、私の体はいとも簡単にぐいっと引き寄せられ、先輩の腕の中へすっぽりと包まれた。

 鼻を擽る酒の匂いと、服に染み付いたタバコの匂い。そして、男らしい汗の匂い。

 頭の中が真っ白になった。

「しほちゃんって、彼氏いないんでしょ?」

「……あ、の、はい」

 嘘でも彼氏がいると答えれば良かった。

「俺が彼氏って、嫌?」

 告白されるなんて思わなかった。

「先輩、かなり酔ってますね」

 逃げようと思って、胸を押してもびくともしない。逃げられない。

 どうしよう。

 触らないで。

 お願い。

 ……福岡(ふくおか)、くん……。

「返事はいますぐじゃなくてもいいから、考えてみてよ」

 笑いかけられる。でも、その仮面の下はどんなふうになってるの?

「先輩は会社みんなに慕われてますから、そんな人を独り占めするわけにはいけませんし」

 やんわりと断ったつもりだった。

 ぐいっと顔が近くなる。

「いいよ。君になら」

 やめて。

「俺の全部、あげちゃう」

 いや!

 頭の中で一瞬鮮やかに映る人影——福岡くんなら、絶対にこんなことしない。

 胸元を何回も叩いた。なにをやっても変わらなかった。その内、鬱陶しくなったのか、両腕を掴まれた。これはもう諦めるしかないのか。

 その時だった——音が鳴った。私のスマートフォンからだ。

 先輩は時が止まったかのようにピタリと止まり、ゆっくりと睨みつけるようにスマートフォンへ視線を向ける。

 それを見た私は、理由はないが、助かったと思った。すかさず腕をすり抜ける。

「あ、友達からだ。ちょっと電話に出てきますね」

 自分でもわかるくらい声が震えていた。

 私は画面を隠すようにタッチしながら、ドアから外に出た。

 ドアの前で立ったまま電話のフリをしていると、先輩が出てきて、軽く会釈して帰っていった。その背中を見送ってから、全身の力が抜けるように、その場に座り込んだ。

「ナイス、夏希(なつき)のメール……」

 実は夏希(なつき)からメールを受信した時、あたかも着信があったと見せかけるように、演技をした。ただ、長い間見られたらすぐにバレてしまう。

 なので、いかに着信があったかのように演技をすることと、理解される暇を与えないスピード勝負だ。あと、先輩が酔っ払っていたからこそ騙せたのだろう。

「助かった……本当に、ありがとう…… 夏希(なつき)

 スマートフォンを握り締める。

 夏希(なつき)なら演奏会のことでよく連絡を取り合うことが多い。困った時に、それを上手く利用しようと考えていたが、成功したようで助かった。いや、実は失敗していて、腹を立てて帰られただけなのかもしれないが。

 暫くの間、ぬるい夜風に当たっていると、受信音が鳴る。奈良栄(ならさか)先輩だった。

『遅くにごめんな』

 という謝罪の言葉の次には、

『二十日、日曜日は暇? 空いてたら、その日の返事を聞かせてよ』

 それを読んだ瞬間、ガクッと項垂れる。本番は二十二日。無理に決まってるじゃないか。

 ホールのリハーサルは当日の午前に。演奏会の流れを確認するのは、その前日。本番の二日前は、演奏の最後のチェックをする日だと決めている。だから、とてもじゃないけど、先輩に付き合う時間など一秒もないのだ。

 こんな時に告白してくるか? 普通。

 演奏会は大事なのに、邪魔しないで!

 そう叫んでやりたかった。

 でも、そう叫べない自分にも腹が立って、頭を両手で抱えるしかできなかった。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました!

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