3-1
次の日。
駅を出ると、雨が降っていた。
空はどんよりとして暗く、当分の間、雨が止みそうにない。
雨が降って、少しは夏の暑さも和らぐかと思えば、湿気も加わって更に蒸していた。これではサウナと変わらない。
どんなことがあっても練習は続けなければならない。だから、私は学校に来た。天気予報でも予測されていなかった雨のせいで、全身濡らしながらも。
来客用のロッカーにヒールを入れて、ハンカチで濡れた体を拭く。
視界の片隅に、最も気まずい人が映った。
「わっ、福岡くんだ……」
肩を上下に震わせるが、彼は私に全く気付いていない。隣の少女と話に夢中になっているようだった。
「彼女……?」
悩むような顔を、黒いショートボブの彼女に見せている。その眼差しは真剣で、とても重要な話をしているように見えた。——それは、私には一度も見せたことのない顔だった。
「ハハッ」
彼女がいるなら、私のことなんて構わなければいいのに。人が良すぎるよ、福岡くん。
私なんて、所詮はモブなんだよね。
「主人公のヒロインになんて、元から無理なんだよなぁ」
ポタッと、濡れた服から水が落ちた。
■ ■ ■
それは長い溜息だった。
「しほり」
名前を呼ばれたけど、私は楽器に息を吹き込む。
「アンタさぁ、集中力ないけど」
尚も吹き込む。
「ねえ! 聞いてる⁉︎」
とうとう夏希は声を荒らげた。
「……なに」
聞こえてる。
「『なに』じゃなくてさぁ!」
「なんでそんなに怒ってるの?」
夏希に反して、私は酷く冷めていた。
そして、手に持つ楽器も冷たい。一曲通したはずなのに、フルートの管は氷のように冷たかった。普段なら曲を吹けば、温かい息が通り、管そのものが金属特有の冷たさがなくなる。
なのに、どうしてだろう。
そんな私に苛立ちが隠せないのか、夏希は立ち上がった。
「そりゃあ怒るでしょ! 本番まであと一ヶ月くらいしかないんだよ⁉︎」
「……ごめん」
もうそんな時期なんだね。
そう呟いた瞬間、夏希はキッと私を睨みつけた。いまにでも手が出てきそうな剣幕だ。
「コンサート、中途半端な状態じゃあ出られないよ」
「うん」
「いまのまま変わらないなら、中止にした方がマシ」
「中止?」
「それぐらいしほりの演奏が下手くそってことだよ?」
「そんな言い方しなくても……」
ムッとする。
「するよ! じゃあ、しほりはなんとも思わなかったの? いまの演奏、どう思ったか言ってみなよ!」
窓を見れば、外は雨がザーザーと降っていた。夏希の問いに答えろと、追い立てるようだった。
私は黙った。
雨の音はしない。ただ、時計の針が動く音が耳に入る。
カチカチ
カチカチ
そこに、もう一つの音が加わる。スマートフォンのバイブ音だった。マナーモードにしているので受信音はない。
ブーブーブーブー
四回鳴って、止まる。電話ではない。メールだ。
チラチラとスマートフォンが入っているカバンに視線を送っていると、夏希が「気になるんなら見れば」と投げやりに言った。
私はカバンの中からスマートフォンを取り出すと、そこには奈良栄先輩からのメールだとわかった。それを見ていた夏希は鼻で笑う。
「新しい彼氏?」
そう切り出したと思えば、納得したように笑い出した。
「あー、そーゆうことかぁ」
「……」
「新しい恋に夢中で練習に集中できない、と」
「それはッ——」
しかし、彼女の言葉の方が早い。
「ふむふむふむ。そうですかそうですかぁ」
そう言って、私の肩を叩いた。加減のない力に、夏希は本気で怒っていると感じる。
「音楽、なめんなよ」
低い声。
射殺さんばかりに鋭い眼差し。
全身が震えた。
「別に恋愛すんなって言ってるわけじゃない」
「……」
「やる時はやれって言ってんの!」
「夏希、聞いて……」
もう、夏希に全部話そう。隠すなんてできない。いま、苦しんでいることを話そう。
だって、福岡くんは言ってくれた。助けてほしいくらい苦しんでる時は言って、て。
「なにを? 惚気を聞けって?」
夏希は鼻で笑う。
「違う。お願い、話を聞いて」
私は首を横に振った。そして、離れて行こうとする彼女の腕に向かって、手を伸ばした。
「ねえ、夏希」
指先が触れた瞬間、思い切り振り払われた——痛い。痛い、痛いよ。
「え……」
「甘ったれんじゃないよ!」
全身に電撃が走ったようだった。ビリビリと痺れ、目の前が真っ暗闇になった。
夏希も、言うの?
甘えるなって、言うの?
辛い気持ちを吐き出すことは甘えなの?
「今年は初めての満員なの! わかるでしょ? 満員を目指して何年も頑張ってきた。いままでの努力を無駄にしたくない! わざわざチケットを買ってくれたみんなに、私達の演奏を聴いて感動してほしい。満足して帰って欲しいの!」
わかってるよ。私も同じ気持ちだもん。
「なんで集中してないの?」
「ごめん。気をつけるから」
「いまさらぁ⁉︎ 遅いよ! 何回も言ってるのに!」
「気持ち、入れ替えるから。だから」
一緒に音楽しよう?
甘えないから、夏希に甘えないから。
だから、一緒に音楽したいよ。
「夏希」
もう一度手を伸ばす。すると、明らかに彼女はその手を叩き払った。
「あ」
夏希はしまったと言わんばかりに口を開けた。そして、私の目から背けた。
「ごめん、しほり。今日の練習は、これで終わりにしよ? あたし、頭、冷やしてくるから。また明日から頑張ろう」
私に背中を向けたままそう言うと、逃げるように音楽室から出て行った。
右手が痛い。ジンジンする。二回も叩かれた。二回も、叩かせてしまった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
もし少しでも気に入っていただけたら、下にある評価(★★★★★)やコメント(誤字脱字だけでもOK)等で応援してくださると、非常に嬉しいです!
是非、宜しくお願いします!