2-1
曲の最後の音をピアノと一緒に切る。
一呼吸置いてから、ピアノを弾いた夏希が口を開いた。
「もう来ないのかと思った」
フルートを持つ腕を下ろし、改めて私を見上げた。
「なんで?」
「返事がなかなかなかったしさ。ちょいと心配した」
「あーごめん。仕事が忙しくて」
「ホントにそれだけ?」
心配そうな眼差しで私を見つめる。
そうだよ、とすぐに口から出たらよかったのだが、何故か思いとどまってしまった。
嘘ついてもわかるんだからと言いたげな顔に、心が痛んだ。確かに仕事も忙しいけど、本当は男の先輩と遊びに行ってた、なんて言いたくない。
先輩と上手くいけば付き合えるかもしれない。そうしたら、結婚するかも。お母さんの小言を聞かずに済む。私も将来に不安を感じずに済む。だから、出来るだけ先輩との時間を取っておきたい。
それが——本音?
本当に?
「夏希」
「やっぱり他になにかあるんだよね。福岡くんのことでしょ?」
「ぁ……」
久しぶりに聞く名前。
その瞬間、心をギュッと鷲掴みするような痛みが走った。同時に、予兆なく、目から涙が溢れた。
「あれ、あれ?」
わからなかった。涙が出る理由。
もう一人の私が囁く。
最低だね。あんなに学校を騒がせた張本人なのに、自分勝手に忘れようとするし、新しい男を作ろうとしてる——と。
「ご、ごめん」
いままで、頭の隅に追いやっていた。勝手になかったことにしようとしていた。
夏希はずっと、あの職員室の出来事を心配していてくれたんだ。
なのに、私は自分のことしか考えてなくて、夏希はこんな私を気にしていてくれていたのに。都合良すぎるよ、自分。
「ごめん」
私、最低だ。
「ごめ、ごめん」
涙が溢れてきた。
「ごめん、夏希」
私を心配してくれてたのに、その気持ちを蔑ろにしていた。
「しほり?」
「ごめんね、。夏希な私、私」
学校にあんなに迷惑かけたのに、なんの罪悪感も持ってなくて。私、最低だ。
「どうして泣くの?」
オロオロする彼女の隣で、私はただ泣いた。
「しほり、とりあえず落ち着きな。ジュース、買ってくるから。あ、まだ楽器吹くんなら水がいいよね?」
そう言って、私をパイプ椅子に座らせ、楽器も隣の椅子に置いてくれた。
一人の音楽室。私の泣き声が、広い音楽室に満ちる。
何故、泣いてるんだろう?
何故、こんなに苦しいんだろ?
夏希の気持ちを蔑ろにしてしまった罪悪感から。
本当にそれだけなのだろうか——違う。
「うぁ、ぅぅ……ぅー……」
涙が心の鎖を溶かす。
三十代にもなって、子供みたいに大泣きをしてしまうなんて。
両手で涙を拭う。拭っても拭っても、新しく涙は流れ落ちた。
胸元を掴む。
ああ、目を背けていたけど、本当はずっと苦しかったんだ。福岡くんのお母さんに言われたことも、あと——
「誰か」
口はひとりでに動く。
「誰か、助けて——」
本当は、先輩と付き合いたいわけじゃないことも。結婚なんてしたくない。
お母さんの為に、お付き合いをした方がいいの。
自分の為に、結婚した方がいいの。
——そうやって、ずっと、自分を騙してた。言い聞かせてた。
「もうやだ……わかんないよ」
身を縮こませる。
先輩に壁ドンされた時に抱いた違和感。
「眞野さん」
グシャグシャになった顔を上げる。懐かしい声に、恥ずかしい顔だと、見せられない顔だとわかっていても、顔を上げずにはいられなかった。
「……福岡、くん?」
福岡くんはドアを開けたまま動かなかった。笑顔を見せず、口を閉じて、静かに私を見ていた。
私はすぐに腕で涙を拭う。変わらないかもしれない。情けない。こんな姿を高校生に見せるなんて。
「えっと……」
どう声をかけたらいいのだろう。考えてみたけど、言葉は続かなかった。
福岡くんは、ゆっくりとした足取りで、私の隣に座った。椅子に置かれた楽器を一瞥すると、口元が僅かに朗らかになる。
「お久しぶりです」
一ヶ月ぶりに聞く声。ハッキリとした先輩とは全く異なる、優しい声。
「ずっと謝りたかったんです」
伏し目がちに、彼は話を続けた。
「母から事情を聞きました。本当に迷惑をかけて、すみませんでした」
彼は頭を下げる。
私は慌てて「顔を上げて」と促した。すると、自然と視線が交わる。茶色の瞳は、真っ直ぐに私の瞳を捕らえた。
「謝らないで。福岡くんはなにも悪くないんだから。むしろ、私の方こそ上手くお母さんに言えなくてごめんね」
「いえ、眞野さんが責任を感じないでください」
「……お母さんに怒られたでしょ? 大変、だったよね」
「もう終わったことですから」
「そっか……」
過去のことになったんだ。ほっとしたと同時に、それでよかったのかと疑問がじわじわと奥底を燻る。
私は自分から福岡くんの目から離した。
「もしかして、他になにかあったんですか?」
「え?」
心臓が、一瞬止まったのかと思った。
「まだあるんですよね?」
言葉に詰まる。
どうしてわかるの?
どうしよう。
なんて返そう。
私、福岡くんのお母さんのこと、忘れてましたって言えない。他の男の人で頭がいっぱいでしただなんて、絶対に言えない!
「……別に、大丈夫だよ」
そう答えるのが、精一杯だった。
なにも話せない。
すると、彼は前を見据えた。口を開く様子なく、ただ前を——ピアノを眺める。
「……」
「……」
喋らなくなっちゃった……。
私は福岡くんをチラチラと一瞥する。
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