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八月に入った。
さすがにそろそろコンサートの練習をしなければ、取り返しがつかなくなる。
残業を終えた後、一ヶ月ぶりの学校へ行くため、会社のデスクで楽譜の確認をしていた。音やリズム、フレーズの表現をどう演奏すべきか読んでいく。今更、演奏を間違えることは言語道断だ。
そこに奈良栄先輩が缶コーヒーを飲みながらやって来た。
「眞野さーん。いまからデートしよ?」
「すみません。今日は用事があるので……」
断られると思っていなかったからか、面食らった顔をする。そして肩を竦めた。
「しょうがないな。じゃあ、明日は?」
「明日も。しばらくの間、無理だと思います。折角誘ってくれたのに、ごめんなさい」
「えー? 明日も? つまんないなァ」
つまらない?
先輩の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
確かに先輩からの誘いを断ってしまい、悪いと思っている。だけど、こちらはみんなが私の演奏を待ってくれている。その気持ちには応えたい。
笑顔を作りながら、楽譜をカバンに片付けた。
「すみません。今度埋め合わせをしますから」
ハードケースを肩に掛け、カバンを持つ。
先輩に会釈して、歩き出した時、彼は急に歩み寄ってきた。
私の目前で腕が伸びる。壁ドンという奴なのだが、なんだろう。息が詰まるような感覚が、じわじわと感じる。
「用事って」
彼はそう言いながら、顔を近づけてきた。
嫌な気分がする。周りに助けを求めようと見渡すが、こんな時に限って姿が見えない。みんな、もう帰ったの?
「そんなに大事?」
彼の吐息が顔にかかる。
それは彼に初めて抱いた不愉快な感情。しかし、それを表に出すことは、今後の会社での生活に支障をきたすような気がして憚られた。
「えっと、その、演奏会があって」
「演奏会?」
「私、フルートを吹いてるんです。そう、そうだ! 先輩も是非聴きに来てください」
ニッコリと微笑んでみせた。だが、彼の反応は——
「ふるーと? なにそれ。知らないんだけど」
溜息混じりに言う。
なんだろう。心がチクチクと痛む。
「あ、そう、なんですか」
「ごめんねー。俺、そーゆうジャンル、興味ないからさ」
そう言って、体が少し離れる。
いましかない!
そう思って、腕を潜り抜けた。
「演奏会が近いから、もう練習しなきゃ……ごめんなさい、先輩!」
気を悪くしないように笑顔を作る。でも、彼の反応を見るのが怖くなって、腰から折って、深々とお辞儀をした。
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