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前からあった残業が、いまは毎日のようにあり、そして休日出勤も当たり前になってきていた。
福岡くんのお母さんと初めて会ったあの日から、丁度三週間が経った。忙しい仕事に身を委ねたおかげか、もう一年も前のような出来事に思える。むしろ、もうなかったことにしたい。
夏希から、『そろそろ練習再開する?』と連絡が来たが、私はまだ返信できずにいた。
仕事で忙しい。確かにそれもある。でも、私は学校に行ったら福岡くんに会ってしまうかもしれない。偶然でも会うのはまずいと、考えていた。もし、また会って話すようなことがあったら、お母さんにどう説明すればいい? 私にはもう無理だ。なにも言えない。
「眞野さん」
会社のパソコンをぼーっと眺めていると、声が聞こえた。だが、なにを言っているのかわからなくて、私じゃないと思い込んだ。
「眞野さん?」
肩を揺すられた。我に返り、顔を上げると、すぐ隣には奈良栄先輩が立っていた。モテモテのイケメンで、尚且つ仕事を嫌な顔せず手伝ってくれる先輩。
「あ、奈良栄先輩。すみません、なんでしょうか?」
急いで笑顔を作ると、先輩はデスクに小包装されたチョコレートを置く。
「疲れてるね。手伝おうか?」
「チョコ食べて」そう勧められて、手に取ってみると、それはアーモンドチョコだった。口に入れると甘いチョコレートが広がり、噛んだ瞬間にカリッと良い音が鳴る。
「少しだけ、手伝ってもらってもいいですか?」
「いいよ。あまり無理しないでね」
甘いマスクに微笑まれて、コロッと堕ちない女なんているのだろうか。人の優しさに触れて、頬が熱い。
奈良栄先輩は、本当に優しい人だなぁ。仕事を覚えるのも、こなすのも早い。人柄が良いから、人望もあるし、あんな人と結婚できたら、自慢の夫だね、きっと。
パソコンと睨めっこしながら、そんなことを考える。未来予想図は豊かになり、止まらない。
じゃあ、もし奈良栄先輩じゃない人と結婚したら?
あのストーカーのように〝付き纏い〟の人だったら、最悪だ。
そう考えると、一瞬、心を摘まれたような痛みが走った。
「?」
何故だろう。なにが痛むのか。まあ、いいか。
それにしても、あの〝付き纏い〟はなんだったのだろう。
特に被害があったわけではない。風呂場を覗かれたこともないし、変な郵便物が入っていたこともない。鍵もちゃんと締めてるから、部屋に入られた痕跡もない。福岡くんに気づかされるまでは、怖い思いを一度もしたことがない。
「……福岡くん」
誰にも聞こえない声量で、久方ぶりの名を呟く。
元気かな。
お母さんとの関係、あれから悪くなってないかな。
心配はしているが、連絡することはできない。
「結局、連絡先は消せなかったな」
自分から消してとお願いしたくせに、私は消せなくて。何度も『消去しますか?』の文字を見た。
何度も『はい』を押そうと、指を寄せた。何度も何度も。でも、同じ数、それをやめてしまった。『いいえ』を押していた。
何故?
そう訊かれると、答えられない。自分でもわからない。考えても考えても、答えは得られなかった。
「〝福岡くん〟て、誰?」
「ひゃっ」
耳元に息がかかる。驚いて見上げると、そこには奈良栄先輩がいた。爽やかな笑顔。
「えっと、わからないところがありました?」
任せた仕事に質問だろうか。そう思っていたのだが、
「いや? 終わったからさ、仕事」
なんですと⁉︎
先輩の仕事の早さに目眩がした。
「で、〝福岡くん〟て誰? 彼氏?」
悪戯っ子のように笑う。
私は「先輩、顔が近いです」と両手で遠ざけてから、一呼吸置いた。
「彼氏じゃないですよ」
「じゃあ、なに?」
「なにかと言われたら……うーん、後輩、でしょうか?」
「そうなんだ! よかったァ」
安堵したような表情を浮かべるので、私は首を傾げる。
「どう、してですか?」
「どうしてでしょーか?」
少年のような笑顔を向けられて、なんだか私は先輩にとって特別なんじゃないかと、頭が勘違いを起こす。これは、勘違い。そう、勘違い。
「今日、仕事が終わったら時間ある?」
「えっと、はい。大丈夫です」
「じゃあ、また後でね」
これはデートというのでしょうか。
状況の変化に頭が追いつかず、しばらくの間茫然とした。すると、隣のデスクにいる同僚から肘打ちされる。
「先輩とご飯?」
「さ、さあ」
「眞野さんに気があるんじゃない? 奈良栄先輩」
「まさかっ……んなわけないよ」
「独身同士、いいと思うよ? 結婚すればいいじゃん。応援してる! 結婚式、呼んでね!」
「いやいやいや、話が急すぎるし」
そう否定したものの、実際は確かにそうかもしれない。私は三十三歳。先輩は私の三つ上。先輩も親から結婚の話を切り出されていてもおかしくない。母の言葉が蘇る。
『いまは一人で生きていけるでしょうけど、歳を食えば独りだなんて不安ばかりなの、わかってる? 安定の生活を手に入れないと、後から辛い思いをするのはアンタよ⁉』
まるで呪いの言葉のようだ。どれだけ振り払っても、母の言葉がべったりとくっついてくる。現実を見ろ、呪いはそう言っているかのように思えた。
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