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それから二日後。
夏希から連絡が来た。
残業の予定だったが、上司に体調が悪いと嘘をつき、定時で帰らせてもらった。
そこまでした理由。向かった先は——賀翔高校。
「援助交際かなんかなの⁉︎」
知らない女性の罵声が職員室から漏れていた。
生徒達の間を縫うように、そこへ辿り着くと、私に気づいた男性の先生が手招きをした。ただ事ならぬ雰囲気。先生達に謝罪しながら、その声がする方へ向かった。
職員室の隅にある来客室には、私より年上の女性と、夏希、物腰の柔らかそうな男性が対面して座っていた。スーツを着こなした彼は、深いシワを刻んだ顔は少し疲れているようだったが、私に気づくとニッコリと微笑んで椅子を用意してくれた。
「あなたなの⁉︎ 湊を誑かしている女って?」
椅子に腰を落ち着かせた直後に、年配の女は私をギロリと睨みつける。
夏希の連絡によると、彼女は福岡くんの母親。息子の帰宅時間が遅いとクレームに来たようだ。
私は慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません。帰宅を遅くさせた原因は私です」
「しほッ……眞野さんのせいではありません」
夏希はかなり動揺した様子で、私を振り返っていた。
「お前みたいなあばずれが、高校生に手を出す? 馬鹿じゃないの! 人間腐りすぎでしょ⁉︎」
「少し話をしただけです。もちろんそれ以外のことはなにもありませんし、そんな悪い関係で」
「黙りなさいよ‼︎」
興奮している様子で福岡くんの母親は立ち上がった。体がビクッと震え、言葉が途切れる。感情的になっている母親に抱く恐怖。怒りで我を忘れているような人に、どんなことを言われるのだろうと。
「湊はねぇ! いま、大切な時期なの! 人生の分かれ道に差しかかってるのよ⁉︎ この意味がわかる?」
「は——」
「全然わかってない! 湊を連れ回すような糞女が理解できるはずがない! あばずれ! ビッチ! 人間の底辺!」
返事すらまともにさせてもらえない。
そこまで言わなくても。
そう反抗したくなるが、握り拳を作り、口を真一文字に結び、堪える。涙がじわりと滲む。会社でもここまで言われたことがなかった。この人は怖いと全身でビリビリと感じていた。
そこに様子を静かに伺っていた男性が、割って入った。
「恐れ入りますが、そこまでおっしゃらなくても」
「教頭は黙ってなさいよ!」
強い気迫に、教頭と呼ばれた男性は押し黙る。
「ちょっと! 眞野さん! 聞いてるの⁉︎」
突然名前を呼ばれて、顔を上げた。いつの間にか視線は下を向いていた。
「は、はい」
「責任とってくれるんでしょうねえ?」
「責任、ですか?」
「お前のせいで失った時間! その責任をどうとってくれるの⁉︎」
どう、て?
過ぎた時間は戻せない。その責任をどうとればいいのか——わからない。
言葉を紡げないでいると、突然、顔面に鞄が飛んできた。
「さっさと土下座しなさいよ!」
母親が投げた鞄の金具部分がちょうど目元辺りに擦り、血が少し垂れた。
「お母様! これ以上は警察を呼びますよ!」
夏希は叫んだ。
教頭がハンカチで血を拭ってくれる。
「……ぅ……ぅぅ……」
涙が溢れないように。
我慢すればするほど、声が漏れる。
私がなにをしたっていうの?
ただ話しただけ。
ただ、福岡くんと他愛もない話をしただけ。
こんな三十過ぎた女が、高校生と話すことが罪だというの?
そうか、そりゃそうよね。
そんな歳の差のある奴が話しかけたら、犯罪よね。
■ ■ ■
警察という言葉を聞いた母親はすぐに帰った。
残された私達は、どっと疲れ、表情は曇ったまま。他クラスの先生達が、そんな私達の為にコーヒーを入れてくれた。
そして、若い女性の先生が絆創膏を貼ってくれる。こんな私の為に腰を低くし、責める言葉も態度もなく、ただ怪我を心配してくれた。学校の方が辛いのに。人の優しさに触れて、込み上げてくるものがあった。何度も唇を固く閉じ、それを抑え込む。
彼女が去っても尚、重たい空気が残っていた。
教頭が重たい口を開く。
「お忙しいところ、急にお呼び立てしてしまい、申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる。
「いえ、そんなことは……」
言葉はそれ以上続かなかった。
私の様子を見た夏希が、代わりに口を開く。
「眞野さんと福岡くんは、あのお母様が懸念されるような関係ではありません。それはあたしが保証しますし、責任をとります」
「夏希……」
「日野和先生、わかってますよ」
教頭はそう微笑んだ。
「しかし」
そう言葉を続ける。
「暫くの間、音楽室の貸し出しはやめましょう。演奏会があるとお伺いしてますが、福岡さんの件が落ち着いてからの方がいいかもしれません」
その声色は柔らかい。だからこそ、余計に学校に迷惑をかけてしまったことが申し訳なく思った。
「多大なるご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした……」
テーブルに額を当てるくらい、深々と頭を下げた。迷惑をかけた先生方と目を合わせる方が辛かった。申し訳なかった。居た堪れなかった。
そんな私の肩をそっと触れる手。温かい手に顔を上げると、教頭がシワを深くしながら、私に微笑んでいた。
「いいえ。眞野さんが思い詰める必要はありませんよ。なにか縁があって福岡くんとお話しをしたのでしょう? 日野和先生から、それが原因で福岡くんの帰宅時間が遅くなったわけではないと報告を受けています。あなたを咎めるつもりはありませんよ」
「でも……」
「しほり、教頭先生もそう仰ってるし、ね。暫く練習はやめよう。落ち着いたら、こっちから連絡するよ」
「……わかった」
長居すると、またあの母親に追及されるような気がして、私はカバンを持って立ち上がった。
「後日、改めてお伺いさせていただきます」
「いえいえ。詫びはもう必要ありませんから、またあなたのフルートの音を聴かせてくださいね」
それを聞いて、初めて気づいた。
私の音を聴いてくれる人がいたんだ。夏希以外にも、わざわざ私が奏でる音楽に耳を傾けてくれる人が。
そうか。そうじゃないと、一般人の私に音楽室を貸してくれないよね。
もう込み上げてくるものを抑えきれなかった。
目頭に溜まる涙を指で拭いながら、「ありがとうございます」と頭を下げた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
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