この音に出会えたから
私は音に恋をした。
青い空に真っ白な入道雲が覗く。
あちこちから油蝉とツクツクボウシの大合唱が聞こえる、夏のある日。
制服の中が汗でぐっしょりだ。額から汗が流れる。
中学三年生の私は吹奏楽部に所属していた。
その日も普段と変わらずフルートと呼ぶ楽器を持って、音楽室から教室に移動する。フルートパートが使用する教室は、三階にある一年B組。
『コンクールの自由曲、上手くいかないな……』
中学生最後の吹奏楽コンクール。みんなが金賞を獲る為に必死になって練習する。だから私も負けないように、誰よりも早く学校へ来た。
学校は夏休み。朝早く来すぎたのか、校舎にいる生徒は私一人のようだ。
『コッペリア……オクターブ上がったDのピッチ、昨日の合奏で合わなかったなぁ……ふぁああ』
ちゃんと寝る時間は確保している。でも、毎日の長時間の練習に、汗が流れる夏の暑さ。体はかなり疲れていた。欠伸が止まらない。
『ふぁあああ。主旋律と低音パートが合わないの、なんでなんだろ』
『もう面倒臭い』みんなの前では決して言えない弱音。
それが悪かったのか。飲み込むべきだったのか。くらっとしたのを、よく覚えている。
足が階段に触れなくて、後ろに引っ張られるように、視界は天井を映した。
『わ、わあああ!』
些細な不注意によって、私は階段から落ちた。
『いったぁ……』
体を強く打ってしまったが、大きな怪我はない。
でも——横笛であるフルートは、金属にも関わらず、くの字に曲がっていた。
『え?……なんで? ……ど、しよう、どうしよ』
全身の血がひいていくようだった。楽器は命よりも大切なもの。見たことのない楽器の姿に、徐々に心臓を握り潰されるような心地。体は全く痛くないのに、心は叫ぶように悲鳴をあげていた。
直る?
こんな状態でも、楽器は直るの?
わからなかった。
直らないかもしれない。
そう頭に過ぎった瞬間、事の大きさを自覚した。命よりも大切な楽器を曲げてしまった。
どうしよう……!
『お父さんに買ってもらったのに』
もう家に帰ることのない父に買ってもらった、大切な楽器に触れる。その瞬間、重く、黒ずんだ不安が溢れた。
どうしようどうしようどうしよう‼︎
『あ、あ、あ、あ』
友達になんて言おう。
パートリーダーになんて言おう。
先生になんて言おう。
私のせいで楽器を壊してしまいました。すみません——謝ったとしても、許してもらえるわけがない。
絶対に責められる。
——楽器を壊すくらいなら早く部活に来なくてもいいのに。
『あ』
追い詰められる。
——もう学校に楽器がないのに、コンクールはどうするの。
『あ』
無価値。
——しょうがないね、もう最後のコンクール、出なくていいよ。
『——無理』
そう口から出た瞬間、張り詰めていた糸が、プツンと音を立てて切れる。
『もう、無理』
自分の意思で、口に出してしまった。
もう、どうでもいい。フルートにかけていた熱意も、部員に負けたくない気持ちも消えた。完全に心が折れてしまった。
頭を抱えて、左右に大きく振る。
『無理無理無理無理ッ!』
お父さん、ごめん。
『もう……やだ……』
それをきっかけに吹奏楽を辞める——つもりだったのだが、友達の夏希に『あと少しで引退だから』と言われて、無理矢理、部員の席だけを置いた。それを顧問は嫌な顔をせずに受け入れてくれた。
吹奏楽コンクールは私が不在のまま終わった。結果は聞いていない。でも、全国には行かなかったのだろう。
暫くして、私の家に夏希が来た。一枚のCDを片手に。
特に部活の話はせず、夏希は『これ、凄いから聴いてみな。マジでヤバイから』と言って、そのまま家にあがることなく帰った。
三年生引退のお別れ会の準備で忙しいのだろう。送られる側だけで曲を演奏をすると言うのだから、暇ではないはずだ。
自室に戻ってから、押し付けられたCDを紺色のCDプレイヤーに入れる。
『show……? 誰これ』
ケースを眺めた。知らない名前、知らない男の顔。なかなか渋い顔をしたダンディな男だった。裏面に書かれている曲目を見ずに、私はそれを放り投げた。
机に顔を伏せていると、流れてきたのはフルートとピアノのアンサンブルだった。流れるようなピアノをバックに、フルートは——エネルギッシュなのに、繊細で、そして優雅な音色。
『え⁉︎』
思わず顔を上げた。
『これ、フルートの音……?』
聴いたことがなかった。
輪郭は柔らかいのに、芯がある音色。
冷静になればそう答えるだろう。でも、いまはそう言いたいのではない。
楽器全体が響いてる。無駄が全くない。少しも空気の雑音がなかった。スピーカーから流れる音は部屋に響いた。生の音でもないのに、その音の存在感は、いままで聴いた音よりも強烈だった。
女の歌声かと思ったら、男のような勇ましく吹く。
これほどまで吹き分ける音色を聴いたのは初めてだった。そして、どんな音域でも、どんなフレーズでも、音の響き方が全く変わらない。これがプロの音——
『本当に、これ吹いてるの日本人⁉︎』
私はすかさずケースを手に取った。
いままで聴いてきた日本人のフルート奏者は、国民性が反映されるのか、真面目で固いものが多い。だが、一度世界に目を向けてみると、同じ楽器なのに、音の響きは異なる。伸びのある深く艶やかな響きに、幅広い表現力。世界に比べると、日本人の音色は響きが足りないのだ。それなのに、彼は——
『音がちゃんと鳴ってる』
私が知っているフルート奏者の中でも、彼のレベルはずば抜けていた。
『日本人なのに、日本人っぽくない音色』
驚きを隠せないとは、このことを言うのだろう。同じ日本人なのに、こうも違うとは。気づけば、私は夢中になっていた。
そして、なによりも彼のタンギングは超絶技巧。人の舌だと思えぬ技に、度肝を抜かれた。
『なにこれ……信じられない速さなのに、音の頭からちゃんと響かせてる……!』
彼の技術力と表現力に釘付けになった。
その時聴いた曲は『カルメン幻想曲』。
私は、その音に恋をした。