夜闇の中に君と沈む
金混じりの茶髪に、ヘーゼルの瞳で、甘ったるい匂いに良く合う、甘ったるい容姿。
端的に言えば、女性が好みそうな顔立ち。
中性的で線が細く、その上、立ち振る舞いが紳士的で、女に甘く、強か。
下がり気味な目元の端に、ぽつりとアクセントのように置かれたホクロは、妖精のホクロのようだ。
妖精から送られたホクロは、異性を魅了する魔力があるとか、ないとか。
まあ、それっぽいだけで、それではないだろう。
「悪魔に加護を与える妖精ってのも、変よね」
「何がだい?マイプレシャス」
「いいえ。ただの独り言よ」
見上げていた男の顔が、小さく傾き、私は首を振る。
人好きのする笑みを向けられており、その視線から逃れるように、男の腹部に顔を埋めた。
肺いっぱいに甘ったるい匂いを吸い込む。
香水よりももっと自然な匂いは、スイーツを前にした時のそれと良く似ている。
目細めながら、顔を埋めたまま、ねぇ、と声を掛けた。
「アスモデウス。貴方、悪魔よね。七つの大罪、色欲を司る悪魔」
深く息を吐き出し、首を傾けて男――アスモデウスを見上げる。
見た目こそ、人のそれと何ら変わらないが、本質は人ならざるモノだ。
私の言葉に、軽く小首を傾げたアスモデウスが、ヘーゼルの瞳に怪しい光を宿す。
ゆらゆらと揺れるそれは、不安定に光り、私の姿を映している。
「そうだね、マイプレシャス。君が望むなら、僕はどんな男でも、いや、女の子だろうと君の手中に……」
「胎内回帰」
光が消えた。
パチリ、音を立てて長い睫毛で影を作りながら瞬きをするアスモデウス。
その動きは、悪魔には思えない。
「胎内回帰」
聞こえているだろうが、再度一字一句違えずに告げる。
瞬きの回数が増え、オウム返しをしてくる辺り、人間の生活に馴染んでいるのだろう。
それでも、と考えながら、腹部に頭を押し付けたまま、仰向けになる。
ベッドのスプリングが動きに合わせ軋む。
迷ったような指先で、私の頬を撫で、横髪を払うアスモデウス。
「色欲を司る君は、女も男も魅了することが出来る。最近では、視線を合わせただけで妊娠させることが出来るのではと思う」
「女の子がサラっと言うことじゃないよ。後、流石にそこまでは出来ないかな」
困ったように、形の良い眉を下げたアスモデウスは、頬を撫でた指先で、私の腹部を撫でる。
丸く円を描くような撫で方は、私自身が腹痛を感じた時に良くするものだ。
「こうして、魔力を流せば出来るけど。直接注いだ方が、確実さ」
ヘーゼルの瞳が鋭く光るのを、私は見逃さなかった。
問答無用で腕を払い除ける。
こうして、とは言ったものの、アスモデウスのことだ、事実撫でていただけだろう。
不穏な空気を打ち払うように、一度深呼吸を挟み、それが出来るなら、と続ける。
アスモデウスの手が、頬に戻っていた。
「それが出来るなら、私を胎内に戻すことも出来るんじゃないかしら」
「いやぁ、流石にそれは」
「あら、やったこと、あるの?」
綺麗に整えられた指先で頬を突っつかれる。
「やったことはないけど」と言うが、試していないことは、ゼロではないのだ。
未知数は不可能では、ないのだ。
「僕は嫌だなぁ」
体を折り曲げて私に覆い被さるアスモデウス。
まるで大型犬がじゃれ付いているようで、うふふ、と含み笑いが漏れ出た。
鎖骨目掛けて鼻をすり寄せて来るので、腕を上げて腹部に回していた腕を、その頭に移す。
抱え込めば、嫌だなぁ、という言葉だけが繰り返される。
「別にこの際、母さんの胎内に戻せなんて言わないわ。アスモデウス、君で良い」
頭を抱え込んでいるにも関わらず、私と視線を合わせようと顔を上げるアスモデウス。
さらりと動きに合わせて流れる髪は、どんな手入れをしているのか、と思う程、キューティクルがしっかりしている。
髪も、甘ったるい匂いがした。
「僕、かい?」
「ええ。アスモデウス、君の胎内に」
片手で頭を抱えたまま、もう片方の手でアスモデウスの腹部を突っつく。
色欲を司る悪魔だが、その見た目は男。
しかし、人間ではなく悪魔なのだから、性別という概念がそもそも無さそうだ。
故に、胎内に人一人くらいならば、余裕を持って収められるのでは、というのが私の考えである。
流石に子供が出来ることを色欲に部類させるのは、下品というか下劣というか、好ましく思わないだろうが、やることは同じだ。
やることをやれば出来る、そういう意味合いで、色欲の悪魔ならば、アスモデウスならば、と私は言っている。
当の本人も、私の言わんとしていることが理解出来たようで、それは、また、とか何とか呟いた。
そんなことは考えたこともなかった、と言うような反応だ。
「夢も浪漫もあるでしょう?君の大好きな私が、ずっと君の腹の中にいるの」
今度は私がアスモデウスの腹部を、円を描くように撫でる。
私の言葉に、頬を朱に染めるアスモデウスは、割と乗り気に見えた。
うっとりと弓形に細められるヘーゼルの瞳に、歪んだ私が映り込んでいる。
「ああ……マイプレシャス。君は時々、悪魔顔負けのことを考えるね」
「それは何だか嫌ね。私は人間だもの」
頬を撫で、顎を撫で、鎖骨にまで指を這わせるアスモデウス。
流石と言うか何と言うか、手付きが厭らしく、色っぽい。
テクニシャン、何て単語が浮かんだが、唾液と共に飲み下す。
「ねぇ、マイプレシャス?」
「何、アスモデウス?」
せい、とアスモデウスの体を後方へ押す。
抵抗もなくベッドの上に転がることになったアスモデウスは、それでも私を見ている。
私は私で、位置を調整するように身動ぎ、アスモデウスの横に寝転ぶ。
「君は、良く僕のお腹に顔を埋めていたけれど、普段からそういうことを考えていたのかい?」
横を向くアスモデウスに、私も横を向き、今度は腹部ではなく胸部に顔を埋める。
そんなこと、ではなく、そういうこと、と言う辺りが、アスモデウスらしい。
しかし、私は生憎、可愛らしい女にはなれないので、悪魔の癖に人並みの体温で、心臓の音なんかさせやがって、と思う。
「胎内回帰願望は、昔からね。胎内記憶って言うのかしら、アレがあったからなのか、酷く恋しいと思って生きているわ」
胎内記憶――その名の通り、母体の中にいた頃の記憶を指す。
そうして胎内記憶というのは、薄れていくものだ。
普通の記憶ですら、自然と薄れ、沢山の記憶と混ざり合い、曖昧になる。
その中でも、胎内記憶というのは、親が問わねば発覚することが少ないと言う。
更に、幼子故に、それを言葉にすることが出来ずに、知られることがないことも多い。
そうして、歳を追うごとに記憶から薄れ、深層に埋もれるのだろう。
「人によっては、人の形となる前、細胞状態の記憶がある子もいるって話よ」
「へぇ……。人間って不思議だね」
私にあるのは、本当に母体にいる時の記憶で、その後の誕生記憶もあるが、あまり良いものでもなかった。
「暗くて、狭くて、温かくて、ゆらゆらと揺れる感覚の中、薄らと聞こえた歌があったのよ」
「それは、君のお母さんかい?」
「えぇ。だから、私が初めて覚えた歌は、母の即興子守唄だったわ」
僅かに音の外れた旋律を、今でも鮮明に思い出すことが出来る。
母自身、元の子守唄の歌詞が曖昧で、その日その時の気分で歌詞が変わっていた。
思い出すと、うふふ、と笑い声が漏れる。
「マイプレシャスのお母さんか……」
「何を考えているのかは分からないけれど、胎内記憶が心地好過ぎて、誕生記憶は最悪なのよ」
ふむ、と何か思案しているアスモデウスを見て、私はその頬に爪を立てた。
柔らかな皮膚を引っ掻けば、形の良い眉が八の字に変わる。
「眠っていたのに、沢山の人の声が聞こえ、まるでカーテンを開けるように光が差し込んで来たの。それで、目が覚めたわ」
嘘みたいに聞こえる話を、アスモデウスは首を縦に振りながら聞いている。
私は、のんびり屋のようで、予定日超過で帝王切開だったのだ。
無理矢理、部屋をこじ開けられ、外に出された時の不快感は、今でも、やはり鮮明に覚えている。
「正直、あの医者は許せなかったわね」なんて恨み言を言ってみても、生まれて既に二十年以上経過しているのだ。
アスモデウスもそれを分かっているのか、クスクスとお上品な笑い声を漏らす。
「そんな記憶がずっとあるせいかしら。ずっと、胎内にいたいと思うわ。誰からも害されず、いつ産まれてくるのだろうと期待され、愛される」
吐き出す息が、空気に溶ける。
目を閉じても、あの羊水の感覚は味わえない。
仕方無く、アスモデウスのキメ細やかな肌に爪を立て続ける。
それを甘んじて受け入れるアスモデウスの方は、両腕を伸ばし、私の体を抱き寄せた。
香水よりも上品な、それでも甘ったるい匂いは、思考を鈍らせる。
それは、胎内にいる時と似ていた。
「アスモデウスも、私を胎内に入れておけば安心でしょう。何処にも行かない。ずっと、アスモデウスの中にいるの」
「それはまた、マイプレシャスは、お誘いが上手だなぁ」
揃って笑い合いながら、アスモデウスは私の背中を撫で、私はアスモデウスの腹を撫でる。
ベッドサイドにある時計が、カチコチと秒針を動かし、音を鳴らす。
マイプレシャス、アスモデウスは私をそう呼ぶ。
時折、思い出したように名前で呼ぶが、基本は、マイプレシャス――僕の宝物と呼ぶ。
純日本人で、日本に生まれ育った私からすればら最初はなんてキザな奴だ、というのが大きかったのだが。
「今となっては、ピッタリよねぇ……」
はふ、と短い溜息が漏れ出る。
「うん?」「いいえ。こっちの話よ」きっと、意識はしていないんでしょう、そんなことを思いながら、頭を振った。
宝物を、自分の中に、物理的にも閉じ込めておけるなんて、願ったり叶ったりだろう。
だからレッツプレイ、と親指を立てようとした所で、アスモデウスの、でも、という呟きが聞こえた。
視線の先、アスモデウスの瞳は、何かを思案するように天井を向いている。
「マイプレシャスを閉じ込めるって言うのは、酷く魅力的なお誘いだよ。だけど、そうするとマイプレシャスは僕と語り合えないだろう?」
「語り合うと言うより、アスモデウスは口説き落とすの方が似合ってるわ」
「あははっ。流石にマイプレシャス、僕のことを分かってるね」
何が嬉しいのか、楽しそうに肩を揺らして笑うアスモデウス。
シルクのような茶金の髪に手を伸ばす。
案の定、頬同様に羨ましくなるような手触りだ。
「そうだよ、マイプレシャス。僕はまだ、君を口説き落としていない」
「まあ、落ちたつもりもないものね」
片手を持ち上げ、髪を撫でていた私の手を取るアスモデウス。
細い指は、男らしく節立っている。
指先に乗った爪は、ガラス片のように透き通っていた。
私の腕を下ろし、まるで壊れ物でも扱うように抱き竦め、額を寄せる。
子供相手に熱を測るような体勢に、私は瞬きをしてしまう。
はて、これは口説かれているのか。
「僕は色欲を司る悪魔、アスモデウス。孕むよりも、孕ませる方が好きだしね」
するりと、作り物のような指先で下腹部を撫でられ、鳥肌が立った。
小さくぷつぷつ粟立つ肌を見て、瞳も唇も弓形に細めたアスモデウス。
ああ、これは、それはそれは。
今度は私が苦笑を浮かべる番のようだ。
身の危険も感じるが、何より願っている胎内回帰は不可能に近い。
少なくとも、若さを武器に出来る間に不可能で、人一人育てる時間は余裕で必要になるので、恐らく、良い歳になって胎内回帰が目前に……。
「愛しているよ、マイプレシャス」
瞼に落とされる唇。
甘ったるい匂いが、よりいっそう強くなる。
こりゃあ駄目だな、そんなことを考えながら、胎内にいた頃に似た夢を見た。