一本目の予言
『頼みごとを拒んではならない。九時に彼が示す先、足先の頭の先、彼が四度目の山に降りるとき、別れ際にそれはある』
大切な家族の元を離れ、アルダは舟に乗って河を渡っていた。十人乗りの小さな渡し舟に揺られて空を見上げると、漠然とした白い雲と青い空の景色が目に入る。日の光がジリジリと頬を焼いた。
「イッチニー!イッチニー!」
漕ぎ手の男達が威勢の良い声を上げている。魔王討伐の旅とは思えないほどにのどかな時間だった、もどかしく思ったものの舟が岸に着くまではどうしようもない。
居眠りでもしようかとアルダが荷物を動かした時、隣にいた少女が声をかけた。
「これアルダよ、この様な狭い場所で横になるな、周囲に迷惑じゃろうが」
少女はしつけるようにしてアルダに注意する。
「ああ……そうだな」
そう言ってアルダが身を起こすと、少女はため息交じりにアルダを見て言った。
「まったく、相変わらずおぬしはどこか昼行燈であるな」
他の乗客がクスクス笑っている、アルダは頭をがりがりと掻いた。まったく、どうしてこんな子供と旅をすることになったのか。
少女との出会いは3日前だった。その晩アルダは予言の意味も魔王の居場所も分からず、あまりの五里霧中にほとほと参っていた。
「どうするかな……」
焚火を前にしてそう呟く。辺りが柔らかな夕闇に包まれ、森全体が夜に包まれ始めている。一人で焚火に当たりながら漠然とやるせなさを感じたとき、アルダは視界の中を小さな女の子が通り過ぎるのに気付いた。
「……」
目を閉じて心を落ち着け、もう一度見開いてみる。少女は変わらない歩調で木々の間を横断している、年の頃は十歳前後だろうか。白い肌に金色のロングヘア、周囲を見ても保護者の姿は見当たらなかった。
ありえないと思った。魔物が徘徊する外を子供が一人こんな時間に歩き回るはずがない。
訝しんでアルダが腰を浮かせた時、少女がふとこちらを見た。
「……」
二人の視線が交錯する。どうやら相手の方はアルダに気付いていなかったらしい。少女は少し虚を突かれた表情を見せた。
「……」
何を言うでもなく、少女は再び歩き始めた。咄嗟にアルダが立ち上がって口を開く。
「ちょ、ちょっと待て!」
「……」
少女は足を止めてアルダを見る。まるで街中で出会ったような平素な様子だった。
「お前は誰だ、こんなところで何してる?」
近くで見てもただの子供にしか見えない、しかし少女は不審そうな表情でアルダを見返すと臆する様子もなく答えた。
「……人に名を訪ねるときは、自分から名乗るのが礼儀じゃろ」
澄んだ声だった。それでいてどこか口調に人を威圧するものがある。
「……ああ、俺の名前はアルダ・シンだ」
「儂はセルネイラ・ラクサスと言う、何か用か?」
「お前ふざけてるのか?何だその口調」
「あ?」
アルダは相手を見つめた。少なくとも魔物ではないようだが、見ず知らずの男に声をかけられてこの落ち着きようはどういう事だ、道に迷ったにしても夜にこんな場所で迷えば大人だって恐怖するだろう。一つ咳払いをすると気を取り直して質問した。
「えーっと、セルネイラ。何でお前のような子供がこんな場所にいる。親や知り合いはいないのか?」
「何故おぬしにそれを言わねばならん」
「何だお前は、いいから言え、家はどこだ?」
「……」
セルネイラは黙したままアルダを無視して通り過ぎる。アルダは急いで後を追うと少女の腕を掴んだ。
「待て待て!お前家出だな?」
「家出じゃと?」
「家はどこだ、正直に言え」
「だから、何故ぬしにそれを言わねばならんのじゃ!」
セルネイラは腕を振り払ってアルダを睨みつけた。
「言っとくけどな。この辺りには魔物が出るんだぞ、お前みたいな子供はあっという間に食べられてお終いだ。それでも良いのか?」
「心配無用。野生の魔物に食われるほどやわな修業はしとらんわ」
「だから、その口調をやめろ」
語尾を強めて言う、どうにも子供は苦手だ。
「傲慢な奴め、儂がどう喋ろうとお前さんには関係あるまい」
「もう良い、どうせ近くの村から逃げて来て道に迷ったんだろ、案内してやる」
アルダはそれだけ言うと、また少女の腕を引いて歩き始めた。
「これ、何をするか!離せ!」
セルネイラは必死に腕をほどこうとするが所詮子供の力だ。アルダは荷物をまとめながら、菓子を取り出して渡してやる。
「何じゃこれは」
「飴だ。甘いぞ」
そう言いながら一粒を少女の口に入れてやった。
「……ほお、美味なるものじゃな」
少女は一瞬顔をほころばせたが、すぐに悲しそうな顔をして口から飴を出した。
「嬉しいが……飴を買うほど金に余裕はないのじゃ」
「金なんぞとるか、いいからそれ食って早く来い、大人しくしてたらもう一個やるぞ」
「本当か?」
途端に笑顔になって飴を口に放り込むと、少女は嬉しそうにアルダについてきた。これまで無事だったのが奇跡のような不用心さだ、家を見つけたら親にはたっぷり灸を据えてやるとしよう。
「怖かっただろ、こんな森の中に一人で」
「実のところ心細かったのは事実じゃ。試練の一環と思っておったよ」
「へいへい、そりゃ立派なこったな」
アルダは眉をひそめて笑った。もう日も暮れると言うのに随分な荷物を拾ったものだ。
「そう言うおぬしはここで何をしておったんじゃ、見たところ旅人と見受けるが」
「俺は旅の途中だ、魔王討伐の旅よ」
セルネイラが驚いてアルダを見た。
「……おぬし、本気か?」
再び苦笑する。こんな子供に嘘を吐く方が面倒くさい。
「ああ。この世の平和は俺が作ってやるから安心しな、もうすぐ俺が魔王の顔面にキツイ一撃をお見舞いしてやるよ。だからお前は大人しく家に帰れ」
「……そう言うが、魔王について何か手がかりはあるのか?」
「そりゃまあ、あるような無いような……」
アルダがそう言った時、木々を揺らして魔物が現れた。
「下がってろ!」
片手でセルネイラを後ろに追いやる、中型の四足獣が二頭。大した相手ではないがやもすると少女が踏み潰されかねない。アルダは素早く地を蹴って一頭の魔物を殴り飛ばした、鼻先を殴られた魔物が頭から吹き飛び、その間にもう一頭へ向き直って二撃目を構える。
しかしアルダが踏み込むより早く、魔物は業火に包まれていた。
「……」
まるで赤い雷だ。雷とも炎ともつかない閃光が魔物を包み、光が去った時には燃え尽きた魔物がゆっくりと崩れ落ちていった。
「……」
突然の出来事で頭が働かない、夕闇の中にさっきの光が赤紫にちかちかと残る。何が起きたのか分からなかった。
「儂が只の子供ではないと、これで分かったか?」
セルネイラがそう言いながらアルダの方を見ていた。
「……お前がやったのか?」
「そうじゃ。断っておくがこっちにも事情があってな、儂の素性について説明することはできん。だが分かってくれ、儂はこの近所に住む迷子の女の子ではない。儂にも儂なりの故あって旅をしておる」
アルダはまだ状況を理解出来なかった、セルネイラは構わずに言葉を続ける。
「改めておぬしに聞くが、旅の目的が魔王討伐にあるのは天地に誓って真であるか?」
返答を迫るように、小さな瞳がまっすぐにアルダを見た。
「ああ……そうだ」
「儂の目的も魔王の討伐にある」
「魔王の討伐……本当か?」
「さっき一瞬ではあったがおぬしの動きを見せてもらった。これまで出会った中で随一の武人とお見受けする。ひけらかすようじゃが儂の実力も今見せた通りじゃ、そこで頼みがあるのじゃが、協定を組む気はないか?」
「協定?」
アルダはすっかり場にのまれている自分に気が付いた、少女の持つ気迫のような、存在感のような何かが自分を圧迫する。
「共に魔王を討たんかと問うておる、さっきおぬしは『魔王の情報についてあるような無いような』と言った。正直に申すが儂は今魔王めについてあまりにも手がかりが不足しておる、何か奴について情報が必要なのじゃよ」
「ちょっと待て協定って言われても、何で俺がお前と一緒に行動しなきゃならないんだ」
「儂は魔王を見たことがある、それに魔王個人についてはそれなりに知識を持っているぞ」
「は?魔王を見た事があるだと?お前まさか魔王の部下じゃないだろうな」
「失敬な事を言うな!儂は誰よりもあ奴を憎んでおるわ」
少女は怒り顔で言う。
「……」
アルダは腕を組んで考えた。あまりにも突然な上に何よりも怪しすぎる。
しかし、予言の一説が彼の頭に残っていた。
『頼みごとを拒んではならない。九時に彼が示す先、足先の頭の先、彼が四度目の山に降りるとき、別れ際にそれはある』
果たして予言の言う『頼みごと』がこの事なのかは分からないが、彼女が本当に魔王を見た事があるなら心強い。それに故郷を出てから何の進展もない旅路にアルダはほとほと参っていた。
「分かった」
「真か?」
アルダは手を差し伸べる。
セルネイラは手を強く握り返した。
「一緒に魔王を討つとしようじゃないか」
「かたじけない、礼を言わせてくれ」
そうしてアルダはこの少女、セルネイラと旅をする事になった。彼女が自分と同等かそれ以上の実力者であるのは間違いないようだが、もう三日間行動を共にしているのに、彼女の正体は未だ分からないでいる。
「それにしても、一体その予言はどういう意味なのかのう……」
「え?」
セルネイラの声でアルダは現実に引き戻された。舟が河の上を揺れている。
「予言じゃよ、今その意味を考えておったんじゃ。『頼みごと』と言うのが儂とぬしとの協定の事であったとして『九時に彼が示す先、足先の頭の先』というのはどういう意味かのう?」
「『足先の頭の先』か……。悪いけど、俺には分かんねぇな」
ふてくされるようにそう言うと、少女がこちらを見た。
「何じゃ、虫の居所が悪いのかえ?」
「別にそう言う訳じゃないが……」
言い繕ったものの、彼女の言う通りアルダは不満を抱えていた。それもこれも煮え切らないここ数日のせいだ。
一体この状況は何だ、自分は他人に縛られずこの拳だけで大きな事を成すはずだった、その為の魔王討伐の旅だと言うのに、どうして何をするでもなく舟に揺られてこんな少女と話し合わなければならないのか。手がかり予言にしてもそうだ、ようやく堅苦しい日常から脱出したと思ったのに唯一の手がかりがまるで言葉遊びじゃないか。
何もかもが予想と違っていて、どうにもやる気が出なかった。
「おぬしが気を悪くするのは勝手じゃがな、目的の為に協力は不可欠じゃと思わんか?」
「分かってるよ!」
少し語気が荒くなった。他の乗客がまた面白そうに自分たちを見る、ほほえましい兄妹喧嘩とでも思われているのか、それが一層アルダを苛立たせた。
アルダはそっぽを向くと河の方を眺めた、そしてそれからセルネイラが何を話しかけてもその一切を無視したのである。
「おいアルダ、聞いておるのか?」
セルネイラがいくらそう言ってもアルダは答えなかった。どう見ても子供は自分の方じゃないか、心の中で冷静な自分が幾らそう叫んでも、馬鹿な自分はどうしても心を開くことが出来なかった。相手がほとほと呆れ果てたのを背中で感じながら、彼はただ水の流れを眺めていた。
やがて対岸に到着すると乗客は舟を降りて思い思いの方向に歩いて行く、アルダとセルネイラも促されるまま舟を降りた。
「さて、へそを曲げたお兄様よ。行先はどうするかの?」
「ああ……そうだな」
皮肉たっぷりに尋ねるセルネイラの言葉にアルダは首元を掻いた、今更ながら舟での態度に彼は罪悪感を感じていた。
「手がかりがない以上、儂は人里で魔王について聞き込みをするべきと思っておる。おぬしはどうじゃ?」
その口調は強く、初めからこちらの返事など待つ気がないのが分かる。セルネイラは近くの看板を見た。
「この先に町がある。行くとしようか」
淡々とそれだけ告げて彼女はアルダを残し先に進み始める。アルダは小走りでその姿を追った。
これじゃあ故郷の村にいたころと何も変わらないじゃないか。街道を歩きながら、アルダはひどく惨めだった。
いつも自分は出来て当然のことが出来ず周囲に迷惑をかける、そしてすぐ他人を怒らせるんだ。口から深い深い溜息が漏れた。
どうしてさっき舟の上で、彼女の話をちゃんと聞く事が出来なかったのだろう。先行きの見えない今の旅に嫌気がさしたから?他の乗客に笑われたのが嫌だったから?どっちにしろあまりに馬鹿馬鹿しい。
「……」
セルネイラはこちらを気にする様子もなくただ歩を進めている。そうだ、確か次の町に入って魔王を倒す為の情報を集めるのだった。アルダは必死に情報を整理した。自分の脳みそは確かに足りないかも知れない、それでも出来る限りの努力をするしかないんだ。ここで魔王討伐の旅まで投げ出したら自分は今以上のクズになってしまう。
頭をひねりながら予言を思い返した。
『頼みごとを拒んではならない。九時に彼が示す先、足先の頭の先、彼が四度目の山を降りるとき、別れ際にそれはある』
『頼みごとを拒んではならない。』これはセルネイラを仲間にする時の事なのだろう、舟の上で彼女もそう言っていた。それなら『九時に彼が示す先、足先の頭の先』とはどういう事だ?足元を見てからもう一度頭の先を見ろと言う事なのか?
静かな平野の中、前をセルネイラが進みアルダが腕組をしながら従う。アルダは立ち止まり声を上げた。
「なあ」
セルネイラが無表情に振り替える。
「どうした?」
「その……これの事なんじゃないか?」
そう言ってアルダは自分の足元を指し示している。
「ほら『足先の頭の先』だよ」
アルダの足元には彼自身の影が伸び、その先には当然ながら頭が付いている。『足先』に『頭』があるのだ。
「『足先の頭の先』か……うむ、分かってみれば何と単純な、とすると『彼』はわしらの影の事を示しておったのか」
「絶対そうだよ、そうだ九時ってのもこう言う事なんじゃないか?」
アルダは口元がほころぶのを感じた。言葉が口から溢れてくる。
「影の向きは時間で変わるだろ?九時になったら影の伸びる方向に進めばいいんだ、おい今何時だ?」
「えーと…先ほど隣にいた客が時計を見ておった。恐らく今が丁度九時頃じゃろう」
「それじゃあこっちだ!」
アルダは喜びを抑えきれずに叫ぶと駆け足の速度で自分の影が示す先、北西の方向に走り出した。
「ちょ、待たんか!」
セルネイラも大急ぎでその後を追いかける。二人は太陽を背にして歩を進めた。
帆船が波の上に並び、磯の香りが鼻をつく。カモメの飛び交う港町で、アルダとセルネイラは海を眺めていた。
「絶対合ってると思ったんだけどなぁ……」
海を眺めながらアルダが呟いた。彼はベンチに腰掛けて汁蕎麦を食べている。
「儂も、『足先の頭の先』についてはおぬしの発想で、正解じゃと思う。じゃから進む方向が、間違っていたと言うのは恐らくない、と思うのじゃが」
セルネイラもベンチに腰掛け、アルダの隣で蕎麦をすする。
「でもこれ以上、進めないぜ?」
「そうじゃなぁ」
二人はしばらくの間黙って蕎麦をすすった。『足先の頭の先』が影の向きだと気付いて揚々と北西に進んだ二人だったが、どういう訳か港町に行きついてしまった。向かう先が海ではこれ以上進めない。
蕎麦を飲み込んでセルネイラが口を開いた。
「まぁ、今すべきことは次の『彼が四度目の山を降りるとき、別れ際にそれはある』について考えるべきではないか?」
「そりゃそうなんだろうけどさ、でもお前分かるか?その意味」
「多少の見当はついておる」
アルダが驚いて表情でセルネイラを見る。
「本当か?」
「うむ」
二人は同時に器を持つと、器に残った汁を飲み干した。
「要するに『彼』とは影の事なのであろう?ならば影が四度目の山を降りるとき、つまり儂ら自身が山を四つ越えた時の事を言っておるのではないか?」
「……ややこしいな」
アルダは顔をしかめた。
「そうかえ?」
セルネイラは屋台に器を返すと地図を広げた。
「そこで儂らが予言に従い北西に向かい始めてからの進路をもう一度辿ってみると良いと思うんじゃ、行程の中で何度か山を越えておるじゃろうから、その山のどれが四度目の山に該当するかを逆算して……」
「ちょっと待ってくれ。頼むから、待ってくれ」
アルダは慌ててセルネイラの言葉を遮った。
(何てまどろっこしいんだ……)
舟の上と同じだった、頭の中で馬鹿な自分が急速に大きくなる。このままではまた無視をしてしまいかねない。
「その、説明をゆっくりしてくれ…頭がこんがらがるんだ」
額に手を当てて大きく深呼吸する。
セルネイラが訝しそうにアルダを見て言った。
「おぬしは何じゃ、心を病んでおるのか?」
「何だって?」
「さっきまで普通に話しておってではないか、一体どうしたのじゃ?」
アルダは心の中で何とか馬鹿な自分を抑えつけようとした、どうにか冷静な自分でいようとする。
「俺は……こういう性格なんだ。ややこしいのが苦手なんだよ、そう言う話を聞くと物凄い嫌悪感がするんだ……」
故郷で仕事に就けなかったのも、全てはそれが原因だった。
「説教をするようじゃがの、ぬしは一体幾つじゃ?どうしてそう子供じみた駄々をこねる」
アルダは勢いよく立ち上がった。
「ちょっとその辺を歩く、すぐ戻るから……」
逃げるようにしてその場を去った。
自分と、そして相手を傷付けないためにも、少し落ち着く時間が欲しかった。
アルダは潮風に当たりながら深呼吸を繰り返した、心の中で黒と白の自分がもつれあっていて、猛烈にこの場から走り去りたい衝動に駆られる。
(おぬしは何じゃ、心を病んでおるのか?)
セルネイラの言葉が耳に残っていた。自分は確かに心を病んでいるのかもしれない、しかしどうしようもなかった、今出来る事は必死に心を落ち着けるだけだ。
(落ち着け、楽に構えれば良いんだ。何もイライラする必要はない)
この旅は自分が成長する数少ないチャンスかも知れない。アルダはそう感じた。あのセルネイラと言う娘は少し理屈っぽくて苦手だが、悪い奴じゃない。
アルダは海に向き合うともう一度深呼吸をして、さっきの屋台へ戻った。
セルネイラは屋台から少し離れた場所で、建物にもたれて足っていた。余程イライラしているのか、足先が地面をたたいている。
「なあ……セルネイラ」
ゆっくりと歩み寄って声をかけた。
「あぁ?」
相手は不機嫌そうに片眉を上げる、アルダは唇を結んで頭を下げた。
「悪かった。頑張って話を聞くからもう一度説明してくれないか」
「……」
セルネイラはまだ何か言いたそうにしていたが、諦めた様子でけだるそうに地図を広げた。
「今儂らが考えるべきは『彼が四度目の山を降りるとき』の部分であろう。儂はこれが『四つ目の山を下山した時』と言う意味じゃと思うのよ」
「成程」
そのままの意味じゃないか、一体何が違うんだと思ったが、アルダは先を促した。
「要するに儂らはヒントを見落としておったのではないかと思うのじゃ。これから儂はそなたと舟に乗ったあの場所まで戻ろうと思う」
「戻る?」
「うむ。そこからまた同じ道を北西に進み、四つ目の山を数えてじゃな……」
「待て、じゃあ何か?今から旅のスタート地点までとんぼ返りするって言いたいのか?」
「そう申しておる……何じゃその顔は?」
その時アルダが浮かべていたのはこれ以上ないほどの渋面だった。
「何も戻る必要はないだろ、絶対時間の無駄じゃないか」
「そうか。ならどうすれば良い?代案を聞こうか」
相手がぶっきらぼうにそう言って目を開いた。
「いくら何でも、戻る事はないだろ?今までの旅は何だったんだよ、俺は魔王を倒すために旅をしてるんだ、だからこれまで我慢してきたんだぞ?」
既にアルダの中は黒い自分で覆い尽くされていた。冷静な自分がいくら叫んだところで、それが表に出る余地などなかった。
「アルダよ。一つハッキリさせておかんか?」
セルネイラは地図を畳み人差し指を立てる。
「儂とおぬしは魔王討伐と言う共通の目的の下協定を結んだ。そしておぬしの持つ示しの梢は魔王への道しるべとなるであろう。儂は石にかじりついてでも魔王めを討つ思いじゃが、おぬしはどうじゃ、おぬしの覚悟はこれしきの事で折れる程度か?」
港町の片隅で二人の強い視線がぶつかった。
「ここまでにするかえ?儂は一人でも魔王を探すだけじゃ。」
「……俺は、魔王を討伐しようって言ってるんだ。戻るとかそんな……まどろっこしい事は、したくないんだ」
「よく分かった」
セルネイラは強い口調でそう言うと地図を小脇に抱えた。
「これまでの事には礼を言うぞ、悪くない旅じゃったよ」
「……」
アルダは俯いて葛藤する。既に心の中は真っ黒だったが、今彼女を引き止めねば取り返しがつかないのはよく分かっていた。
それでもアルダには黙っている事しか出来なかった、差し出された手を握る事すらせずに黙って、やがて去って行く足音を聞いていた。相手に歩み寄るのが嫌だった、ここで折れたら負けになる、負けるのは嫌だ。それを我慢できるだけの聡明さと寛容さを、彼は持ち合わせていなかった。
セルネイラは屋台の方へ歩く、荷物を取りに行ったのだろう。
「……」
アルダは手に持った自分の荷物を肩にかけ、荒い足取りでその場を後にした。蹴るように地面を踏みつけて、行く当てもなく町の中に消えて行った。
セルネイラに見捨てられアルダは早々に町を出た。とても他人と顔を合わせる気になかった、しかし行く当てなどある筈もなく、結局日が傾くにつれ林の中で食事の用意を始めていた。
パチパチと音を立てる火を眺めながら、アルダは思案する。
(駄目だった……)
自分が馬鹿でガキなのはもう分かっている、それでも何とかそれを理性で抑えつける事が出来ないかと努力したつもりだった。それがこの結果だ。
結局人間には出来る奴と出来ない奴がいる。残念ながら自分は出来ない奴だった、悔しいがどうしようもなかった。
アルダは荷物から酒瓶を取り出すと一息に半分を飲み干した。
もう何もかもどうでも良い、どうせ何も出来ないなら堕ちるところまで堕ちてやる、この辺りで盗賊になるのも悪くないかも知れない。
「盗賊か……」
故郷の母、それに弟の姿が浮かんだ。
二人にだけは迷惑はかけられない。盗みを働くならもう二度と二人には会えないだろう、合わせる顔がない。
もう一度酒瓶に口を付けるとそれだけで酒は殆ど残らなかった。
「畜生……」
アルダは酒瓶を林の中に投げ捨てる。全く飲み足りない、だが今から町に戻って酒を買うのも億劫だった。
(……盗んでやろうか)
この時間でも街道で少し待てば誰かしら通るだろう、殺さないまでも酒とついでに金まで奪ってやればいい、そうすれば今のこの気分も多少は晴れる気がする。
そう思って焚火の方を見ると、陽炎の向こうにセルネイラが立っていた。
「……」
セルネイラはこちらを窺うようにして、アルダの方をじっと見ている。
「しつこいんだよ……」
吐き捨てるようにアルダはそう言った。林の中、焚火の炎が二人の頬を赤く照らす。
「いや、その……」
少女は何か言葉を選んでいる様子だった。
「アルダ……ちょっと頼みがあるんじゃ」
「は!?」
強く言い放った。
「今更何だよ。一人で旅するっつったのはそっちだろ、なのに何だ?わざわざ追いかけてきて話が違うじゃねえか」
「話を聞いてくれ、こっちにはこっちの事情があるのじゃ」
「一体どういう事情だ?どうして俺がそんなものに振り回されなきゃならないんだ?俺はもう一人なんだ、これからは自分のやりたいようにやるんだよ」
「落ち着かんか!」
大きな音で少女の腹の虫が鳴った。
「……」
そこでアルダは気付いた。よく見ると彼女の髪の毛に木の葉や枝が絡みついている、それに持っているはずの荷物がない。
「盗まれたんじゃ……」
「……え?」
「おぬしと話をしてから店に戻ったら、置き引きにあって……食事とか、旅費とか無くなってしもうたんじゃ」
セルネイラはすがるようにしてアルダを見ていた。
「荷物がなくて……それでお前、昼からずっと俺を探してたのか?」
少女が首肯する。
「もう飯代もない……今晩だけで良いから、食料を分けてもらいたいんじゃ。」
ふっと緊張の糸が切れた、何もかもバカバカしくなったみたいだった。
「お前バカだな」
「……」
相手は口を結んで俯いている。
それからアルダは鍋に食材を並べ、セルネイラと食事をした。ほんの数時間ぶりだがそれが久方ぶりの再会に思えた。
「結局おぬしどうする気じゃ、一人旅に戻るのか?この状況で言うのもなんじゃが、儂は止めはせんぞ」
炒めた野菜と肉を掻き込みながらセルネイラが尋ねる。
「そうだな……申し訳ないけど、やっぱり今から旅をやり直すのは我慢できそうにないよ」
アルダも食事を進めながら応えた。もう黒い自分はいなかった。
「難儀な男よのう」
そう言って少女が器を置く。真鍮の食器が茜色の木漏れ日に光っていた。
『頼みごとを拒んではならない。九時に彼が示す先、足先の頭の先に目指す物はある。彼が四度目の山に降りるとき、別れ際にそれはある』
なぜかアルダの脳裏に予言の文面が浮かんだ。アルダは口元に手を当て真鍮の輝きを見つめる、時刻は夕方で、林の木の間から輝く夕日が見えていた。反射したその光がアルダの顔を照らしている。
「……」
「何じゃアルダ、どうした?」
セルネイラはキョトンとして尋ねた。
「なあ『彼』って誰の事だ?」
「予言にある『彼』の事かえ?」
「そうだ。『彼』って、太陽のことじゃないか?」
「ん……なぜそう思うんじゃ」
「『彼が四度目の山に降りるとき』だよ。俺達の影が山を降りるってのはよくわからないけど、でも太陽は登ったり沈んだりして地平線に消えていくだろう?つまり太陽が四回沈むときを現してるんじゃないか?」
「しかし、『九時に彼が示す先』はどうなる?あれは影の事を言っておると思うし、それなら『彼』は影の事なのでは……」
「ややこしいのはよく分かんないけど、影を作るのは太陽の光だろ。じゃあこの予言は太陽が俺達の道を示してる可能性もあると思うんだよ」
「ふむ……」
セルネイラは腕を組んで考える。
「つまり『四日目』と言う意味か……。あながち無くはないのう」
「だから『九時に影が伸びる方向に進んで四日目。日が沈むときに答えがある』って意味なんじゃないか」
「おぬし……」
アルダはセルネイラを見た。
「存外に頭が冴えるのではないか?」
「何だよ急に……」
さっきまでは子供じみた馬鹿かと思ったが、落ち着けば年相応の冷静さを持っている。癇癪さえ起こさなければ他は問題ないのだろう。
「して、ぬしの解釈で言うと予言の答えは今見つかるのではないか?」
「そうか、今日は四日目なのか」
二人は立ち上がると山に降りようとしている夕日を眺めた。
「林を抜けよう」
どちらともなくそう言って、二人は駆け足に木々の間を走った。平野に出た頃には、もう夕日は殆どが沈んでいて空の大半は蒼暗い。
(どこに何があるんだ?)
きょろきょろと周囲を見るが、特に変わった物は目に入らない。
「アルダよ、何か見えるか?」
セルネイラも注意深く周囲を見る。
その時、アルダの視界に妙な物が映った。
「ありゃ何だ?」
「ん?」
最初、それはどう見ても雲だった。何の変哲もない雲の塊が茜空を浮遊しているだけに見える、だがよく目を凝らしてみると、その雲の中にそびえ立つ城壁がある、尖った塔の屋根がある。
「あれは……城なのかえ?」
見間違いかと疑った。目を何度もこすり凝視した、しかしよく見れば見るほど、それは間違いなく宙に浮かぶ城なのだ。
「儂の知る限り、あんな事が出来るのは魔王くらいじゃが……」
少女が呟く。少し間を置いてアルダが口を開いた。
「……で、どうやってあれに入るんだ?」
視界の遥か先で、魔王城は悠々と漂っている。
「……言っておくが、儂は飛べんぞ」
「……だよな」
太陽が静かに、山の向こうに沈んで行った。