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トル・ラバートリックの冒険  作者: 長谷川コールスローサラダ
3/15

ナサルディ・ネルソンの旅立ち

 始まりの村からは『トル・ラバートリック』が旅立ち、別の村からはアルダ・シンが勇者の座を奪うべく出発した。諸君らがその続きを気になっているなら語り部である私にとっては大いなる至福と言わざるを得ない。だが実はもう一人、諸君らに紹介しなければならない人物、それも女性がいるのだ。

 彼女はある村で武器屋を営んでいる。店は小さくて置いてある商品も安物だが、カウンターの隅に小さなガラス玉が置かれている。一つだけ覚えておいて欲しい、これは『封印の宝玉』。このちっぽけな武器屋に置かれたこの術具は『封印の宝玉』だ。

「ちょっと待ってよ……」


 細長いカウンターを挟んで、男女が向き合っていた。女性は明らかな狼狽を見せる。


「仕事中に突然やって来て、急な話なのは分かってる。でも俺なりに考えて決めた事なんだ」


 男は浅い呼吸を繰り返しながら女性をまっすぐに見据えて言った。


「俺と結婚してくれないか」

「そんな事言われても……」


 女性はポニーテールにした髪の毛を触りながら俯いた。


「ナサは、俺の事嫌いか?」

「そう言う訳じゃないけど……」

「俺は宿屋の息子だから、いつか家を継ぐ事になる。そうなった時、俺はナサと宿を切り盛りしたいんだ」


 ナサと呼ばれた女性は店内に置かれた武器を見やった。


「でも私、この店を捨てるなんてできない」

「ナサ、店を継ぐのはボスト君だろう、そりゃ彼はまだ若いけど、いずれは長男の彼が店主になるのが筋ってもんじゃないのか」

「あいつ店を継ぐ気なんてないもの。今日だって店番放ったらかしてどっか行ってるし、この武器屋は私が守るしかないの」


 その時外で足音が聞こえた。誰かが店に入って来る。


「すぐに答えてくれとは言わないよ、でも、俺は本気だから」

「シャルフ……」


 シャルフと呼ばれた青年はそれだけ言い残すと踵を返し店を出て行った。入れ違いで店に入ってきた足音の主は幼さの残る少年だった。


「シャルフ兄ちゃんどうしたの?なんか変な顔してたけど」


 少年はあっけらかんとして尋ねる、ナサは頭を抱えて気持ちを落ち着かせた。


「ボスト、あんた今までどこ行ってたの」

「どこに行こうと俺の勝手だろ」


 店の中を通って勝手口から自室に戻ろうとするボストを捕まえ、ナサはカウンターを離れた。


「私ちょっと出てくるから、あんた店番しといて」

「ちょっと、何だよいきなり」


 弟の声も聞かずに店の戸を開けて外に出た、いつもと変わらない昼の町並みが目に入る。

 ここは宿場町サルバラック。必死に気持ちを落ち着かせようとしている彼女は名前をナサルディ・ネルソンと言った、両親とは死別して久しく、今では弟のボスト・ネルソンと二人で両親の残した武器屋を経営している。

 白く乾いた土を踏んでナサは照り付ける太陽の下を歩いた。しかしどこを歩いても頭に浮かぶのはさっきの光景だった。


(俺と結婚してくれないか)


 宿屋の息子であるシャルフとは幼友達で昔ながらの付き合いがある、信頼もしているが恋愛対象として見た事は無かった。

 いや、あったのかも知れない。小さい頃はよく一緒になって遊んだが、確かに自分はシャルフと遊ぶ時が一番楽しかった。その気持ちが無くなったのはいつからだろう、両親が魔物に殺されて以来、友達と遊んでいる余裕なんて無かった、右も左も分からないままに泣きながら店を守ってきたが未だに経営は綱渡りだ。しかも唯一残された肉親のボストは戦士に憧れているらしく、まるで店に興味を見せない。


「勘弁してよ……」


 歩きながらそんな言葉が口をつく。結婚自体にあまり抵抗はないけれど、その後の自分がどうなっていくのか分からなくて、鉛を流し込まれたみたいに身体がずっしりと重い。


「ナサルディちゃん」


 声に振り替えるといつの間にか彼女は村の教会の前に来ていた。外箒を持ったシスターが手を振っている。


「ああシスター、こんにちは」

「ねえ……何かあったの?」


 シスターは心配そうな顔をしてナサに歩み寄る。


「ずいぶん苦い顔で歩いてたけど、どうしたの?」


 ナサは引きつった笑顔を浮かべた、地面がクラクラ揺れてるみたいだった。


「実は……」 


 そう言って彼女はシスターに事のあらましを打ち明けた。



「凄いじゃない!プロポーズぅ?」

「声が大きいです!やめて下さい」

「それでそれで、ナサはどうしたの?OKしたの?」


 シスターは目をキラキラさせながら袖を引っ張った。


「……途中でボストが帰ってきたから、なんか中途半端になっちゃって、返事はまた今度って」

「ちょっと何やってんのよ」


 そう言って満面の笑みを浮かべながらナサの肩を叩く。


「じゃあシスターは、私がシャルフと結婚して、彼の宿屋を継ぐべきだって言うんですか?」

「当たり前でしょあんた何言ってんのよ、そもそも親もいないのに相手の方から縁組してくれるなんてどれだけラッキーだと思ってるの?」

「でも、店の事とか考えたら……」


 ナサはそう言って俯いた。すっかり自分が縮こまっているのが分かる。


「馬鹿じゃないの?店の事なんてあんたが考えてどうなるのよ」

「そんな事言わないで下さいよ、私はあの店の店主なんですから」

「女のくせに何言ってんの、そりゃ今はボスト君が若いからあんたが店主だけど、もう何年かしたら店はボスト君にものになるでしょ?そしたら店をどうするかは彼次第なんだよ?」

「……」


 ナサは何も言えずに俯いた。


「ごめん、別に責めるつもりはないんだけど…でもナサだってもう相手を探す歳なんだし、シャルフ君は結婚相手として申し分ないわ。あなたにとって一生に一度の幸運なんだから、絶対逃すべきじゃないよ」

「……そうですよね」


 彼女の言う事は正しい、確かに自分にとってこの上ない幸運だろう。

 シスターはナサの腕を掴むと教会の方に引っ張る。


「ねえ、もっと聞かせてよ。何て言ってプロポーズされたの?」

「駄目ですよ、店番ボストに任せてきたんです。早く戻らないと」

「何よ、ここまで話しといて聞かせてくれないの?気になるじゃない」

「他人事だと思って、やめて下さい」


 名残惜しそうなシスターから逃げるようにナサは教会を離れた。

 話を聞いてもらったおかげでさっきより気が楽になったが、まだ気持ちの整理はつかない。

 そう思って少し後悔した。シスターはさっきの話をどこまで秘密にしてくれるだろう、聖職者ではあるけどあの人はおしゃべりだからどこまで信用していいかわからない。それにこの小さな村では毎日皆が話の種を求めている、下手をすると格好のゴシップネタにされかねない。


(失敗だったかな……)


 しかし、角を曲がったところでナサの足が止まった。よりによってさっき自分にプロポーズをしたシャルフがそこで談笑していたのだ。


「ああ、ナサ」


 声をかけて来たのはシャルフと話をしていた女性で名前をリルフィと言う、彼女もまたナサの幼馴染だ。ナサとシャルフそしてリルフィは子供の頃はよく3人で遊ぶ仲だった。


「珍しいねこんな時間に、いつもは店番してるのに」

「うん、ちょっとね」


 なるべく自然に見えるようにナサはリルフィに歩み寄る、普段なら何気ないはずの会話が億劫に感じた。シャルフもまた同じ思いでいるのか、乾いた笑いを浮かべて口を開いた。


「まあ、たまには外に用事があるときもあるよな」

「用事って、買い物とか?」

「そんなところ、もう店に戻るけどね」

「……」


 不自然な沈黙が降りる。


「何、どうしたの?」


 一人事情を知らないリルフィが怪訝そうに尋ねた。


「ううん、何でもない。それより二人で何話してたの?」

「ああ、魔物についてさ。怖いね~って」

「最近魔物の襲撃も多いだろ?この辺もどんどんぶっそうになるよ」


 ナサもシャルフも目を合わせなかったが、お互いの気まずい思いが手に取るように分かった。


「ほら、もっと大きな町なら警備してくれる衛兵もいるんだろうけど、こんなところじゃそうもいかないしね」

「そうだね」


 一刻も早くこの場を立ち去りたい。多分それは二人共通の想いだった。


「……俺、もう行かなきゃだめだ。ごめん」

「うん」


 そう言ってシャルフがその場を立ち去る。リルフィが不思議そうに二人を眺めた。


「どうしたの、何かあったの?」

「……何でもない」


 それだけ言い残すとナサも急いでその場を離れる。これ以上一番の問題を前にしていたくない、リルフィの方を一度も振り返らずにナサは店へ帰った。

 ボストと二人で一日の営業を終え、疲れた身体で夕食を準備する。食材を煮込む間に帳簿の計算や商品である武器の手入れを行い、完全に日が暮れてから食卓に着いた。

 豆と野菜を煮込んだだけの質素なスープ、それと硬くなったパン。弟のボストは文句も言わなければ感謝も言わずに食事を口へと運んでいる。


「……」


 彼が年頃になったからだろうか、昔はもっと笑って食事をしていたような気がするのに、今では終始無言が当たり前になった。

 きっとそのせいだろう、弟がこれから店をどうしたいのか自分をどう思っているのか、いくら考えてもナサは自信を持つことができない。そんな自分が情けなかった。


「……何だよ」

「ん?」

「何見てるんだよ」

「ああ……ごめん」

「今日の姉ちゃん、なんか変だぞ」


 ボストがまた食事に視線を落とす、ナサは意を決して口を開いた。 


「ボスト。あんたこれから店をどうするつもり?」

「……何だよいきなり」

「真剣に聞いてるの。あたしはこの店が好きだけど、でもいつかはあんたが店主になるの。あんたが本当に剣を持ちたいって言うなら、私もいろいろ考えなくちゃいけない」


 ボストは戸惑いながら口をとがらせる。


「急に言われても分かんねえよ」

「急じゃないでしょ、もう何年この店やってると思ってるの」

「急だよ、今朝までそんな事一回も話さなかったじゃないか」


 確かにこの店の将来について、これまで話をしたことはなかった。目を背けていたのは事実だ。


「姉ちゃんはどうなんだよ。俺が店閉めるって言ったら、それで納得するのかよ」

「私は……」


 言葉が続かなくなる、痛い部分を突かれたと思った。


「俺は、店なんてどうでも良いよ。これは姉ちゃんの店だろ。店主だって周りが勝手に押し付けてるだけなんだ、姉ちゃんがやってきたいなら姉ちゃんが店主になってくれよ」


 ボストは当然の様にそう言う、予想よりずっと単純な答えだった。


「そう……」

「何だよ、今日はどうしたんだよ」


 ナサはボストに出来事の全てを打ち明けた。


「……じゃあ姉ちゃん、シャルフと結婚するのか?」

「多分そうなると思う。そしたら私は宿屋の女将ってことになる。ここを出ていかなきゃならない」

「俺はどうなるんだよ、姉ちゃん俺にこの店押し付けて、自分はシャルフと結婚する気なのか?」

「すぐに出ていくわけじゃない。ちゃんと教えるところは教えるから、あんたが店をやってけるまでお姉ちゃん絶対近くにいるから」

「待ってよ、じゃあ俺……」


 独りぼっちになるのかよ。その言葉をボストは何とか飲み込んだ。


「……」


 ナサも唇を噛んで俯いた。たった二人の肉親、彼の気持ちが痛いほどよく分かった。


「何だよそれ、ひどいよ」


 声を震わせながらそう言うとボストの両目から涙が溢れ、スープの中に滴った。


「俺これからこの家で一人かよ、自分は、シャルフの家で家族に囲まれて暮らすのかよ」

「だから聞いたの。あんたが店をやっていきたいかどうか、私だって好きで出ていくわけじゃない」

「じゃあ断れよ!」


 ボストが立ち上がって叫んだ。


「嫌々結婚するなら、断ればいいじゃないか。それでこの店やっていけよ」

「ボスト……」

「何が『好きで出ていくわけじゃない』だよ、お前だってシャルフが好きなんだろ?自分だけ良いように暮らしたいんだろ?」

「ボスト、そう言う言い方はやめて」

「うるせえんだ!」


 ボストがスープの皿をナサに投げつけた。もう片方の手で椅子を掴んで壁にぶつける。


「何するの!」

「こんな店があるからいけないんだ、俺だって嫌だ、こんな店継いで面白いもんか!」

「やめて!」


 必死で弟を抑えつける、暴れるボストの手がナサを突き飛ばした。ナサは小さく悲鳴を上げて尻餅を着く。


「何するの!」

「うるせえって言ってんだ!」


 ボストが泣きながらわなわなと震える、ナサは手を付いて立ち上がった。

 その時、癇高い警鐘の音が聞こえた。夜の中をカァンカァンと言う音が響き渡る。


「……」


 姉弟の動きが止まった。


「魔物だ」


 警鐘の音は魔物の襲撃を知らせる、凶暴な魔物に対して市民は逃げるしかない。


「ボスト、避難所に逃げるよ」


 ナサは持ち出し用の金庫を掴むと。店舗に戻って小銭と帳簿を金庫に入れた。邪魔にならない範囲でなるべく多くの品を持ち出す。

 暫く店内を見渡したナサは、カウンターの上にある『封印の宝玉』を懐に入れた。


「ほらボスト、早く逃げるよ」

「嫌だ」

「え?」


 ボストはナサの方を向いて言った。


「俺、戦ってやる。俺は戦士になるんだ」

「ちょっと、何言いだすの」


 ナサの言葉を無視して店に走り、ボストは棚に置かれた武具を身に着けた。


「何やってんのよ、それは店の……」

「偉そうに店のこと語るな!」


 唖然とするナサを残して鎧から腕を出すとボストは剣を掴み店の外に出ていく、本気で魔物と戦うつもりなのだろうか。


「待ってボスト!」


 ボストは家から飛び出した。


「ナサ、大丈夫か!」


 すれ違いに誰かが入ってきた。


「シャルフ」

「魔物の大群が来たらしい、早く俺達も隠れるんだ」

「でも、ボストが」

「ボスト君ならさっき出て行ったよ」

「違う、ボストが魔物と戦うって言って出ていったの」

「戦うだって?」


 警鐘の音は休みなく鳴り響く、次々に家の戸が開き避難する人が夜の村に溢れ始めた。


「後で俺が探しに行く、一先ずナサは避難所へ」

「でも……」


 避難する人の中から、シャルフの袖を掴む人がいた。


「シャルフ、避難所へ急ごう!」


 リルフィだった。シャルフは逆に彼女の手を掴む。


「丁度良い、リルフィ。ナサを見ておいてくれ。俺はボスト君を見てくる」

「見てくるって?どう言う事?」

「いいから頼む」

「待ってシャルフ、あんたは大丈夫なの?」

「心配するな、弟になるかもしれない奴を放っておけるかよ」

「弟になるかもって……」


 ナサは困惑して呟く。急ぎ足で行き交う人々が余計に彼女を焦燥とさせた。


「リルフィ。ナサと一緒にいてくれ、頼むぞ」


 シャルフはナサとリルフィの手を握らせて走り去った。


「……どういう事?」


 リルフィが眉を寄せてナサを見つめる。


「……あのバカ」


 そう言ってナサが溜息を吐く。生暖かく湿った夜風が人々の中を流れた。



 ナサとリルフィは多くの人に紛れて教会の中に非難した。


「大丈夫、きっとボスト君は見つかるわよ」


 シスターがナサに声をかけ、忙しそうに走り去っていく。二階部分の回廊では幾人もの人が窓から外の様子をうかがいつつ、逃げ遅れた人がいないか目を光らせている。


「……」


 どうしてこんなことになったのだろう、もっとボストに気を使うべきだった。自分の不注意のせいでボストも、そしてシャルフまでもが魔物の徘徊する村の中にいる。この辺りの魔物は比較的大人しいが最近は魔王の影響か狂暴な魔物も出没し始めているらしい。興奮したボストが魔物に戦いを挑んだらどうなる……


「ねえナサ、さっきの話なんだけど」


 隣に座るリルフィがナサに声をかけた。


「……さっきって?」

「避難所に入る前、シャルフと何か話してたでしょ」

「ああ……だから、ボストが」

「違う。ボスト君の話はさっき聞いた」


 怒ったような彼女の声に振り替えると、リルフィは思いつめた表情でこっちを見ていた。


「シャルフは、ボスト君が弟になるかもしれないって言った。それって私の聞き間違い?」


 ナサは苛立ちを隠さずに大きな溜息を吐く、近くで誰かの赤ん坊が泣いた。


「ねえあんた達どういう関係なの?」

「止めてよ、こんな時に……」


 これが一番の問題だった、明らかにリルフィは嫉妬を含んだ口調でナサを責め立てる。赤ん坊の泣き声がナサの耳に響いた。リルフィはナサの両肩を力強く掴み、自分の方に向けて正面から詰問した。


「答えてナサ。あんた、シャルフとの縁談が進んでるの?」


 真剣そのものの瞳。今にも頭が爆発しそうだ。赤ん坊はオギャアオギャアと泣く。ナサはリルフィの目を見返して断言した。


「そうだよ。進んでるよ?」


 リルフィの目が見開かれる。


「だから、何?」

「……」


 リルフィがゆっくり立ち上がってその場を去った。申し訳なくは思ったが、今は他人に気を配れるほどの余裕もない。


「ナサ!」


 一瞬リルフィが自分を呼んだのかと思ったが、その声はシャルフだった。無事に戻ってきたらしい。

 その様子にただならぬものを感じてナサは大急ぎでシャルフの方へ走った。


「シャルフ、あんた無事なの?」

「俺は大丈夫だ、来てくれ、ボスト君が」


 全身の血の気が引いた。何とか呼吸を落ち着かせながらシャルフの後を追う。

 連れられた部屋でナサは絶句した。一体何があったのか、そこには身体のあちこちがぐしゃぐしゃに潰れ変わり果てた姿の弟が横たわっていたのだ。


「どいて」


 シスターがナサの後ろから入って手を当て、呪文で回復を試みる。


「……ボスト」


 ナサはシスターの隣に座り込むと、震える唇でボストの名前を呼んだ。


「ねえ、ボスト」


 シスターの呪文が柔らかくボストの腹部を包み込むが、ボストの表情は虚ろなまま虚空を見つめている。


「ボスト、しっかりして」


 目から涙がこぼれた。生きているのだろうか、呼吸はしているのか、何とかしなくちゃ、絶対にこの子を死なせちゃいけない。


「死なないで!」


 必死に考えた、周りの音も何も耳に入らなかった。ボストの身体がうっすらと輝く、シスターの呪文だ。呪文……私は呪文を使えない、もし私に呪文が使えたらボストを救えるのに、呪文…私でも使える呪文。


「……」


 ナサは懐に手を入れた。丸いものがあった。


(……封印の宝玉)


 対象を中に封じて保存する術具、果たしてこれが人間に効くのか、私にも使えるのか。こんなものが役に立つのか。


「ね……えちゃん」


 ボストの口が小さく動き、掠れた声が漏れた。その瞳が自分に向けられている。


「ボスト!あんた……」

「……」


 弟の口から次の言葉が発せられる事は無かった、ボストの小さな瞳が焦点を失っていく。


「嫌、そんなの嫌!」


 彼女にとってそれはとても長い時間だった。宝玉は怪しく光り、一人の少年をその内部に封じ込めた。


「……」


 ゆっくりと周囲の音が帰って来る。少年の身体が消え去り、さっきまで弟のいた場所の上を小さな宝玉が跳ねて転がってゆく。


「……ナサ?」


 シャルフが、シスターが自分を見つめていた。

 ナサは両手で口元を覆って震えた。自分の両手が真っ赤な血にまみれているように見えた。

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