アルダ・シンの旅立ち
ハルトは『伝説の勇者トル・ラバートリック』を名乗った。これから彼の長い旅が始まるだろう、しかしその物語を始める前に諸君にはまだ紹介しなくてはならない事がある。少しだけご傾聴を願いたい。
ここはハルトの村から遠く離れた田舎。ハルトが村長によって村から連れ出されている頃、この小さな田舎では更に小さないざこざが起こっていた。
「馬鹿野郎!何度言ったら分かるんだ!」
「え、何か間違ってましたか?」
禿頭の男は顔を真っ赤にして怒鳴ったが、目の前の青年はまるで動じる様子を見せない。
「何かじゃねえ!何もかもできてねえんだよ!これを見ろ」
男が指さした先には不揃いに切りそろえられた角材が置かれている。
「全っ然長さが違うだろうが!俺は同じに切れって言ったんだよ、こんな簡単なことが何で出来ねえんだ!」
あまりの剣幕に通行人がすくみ上がって振り返る、それでも青年はけだるそうな表情を見せるだけだった。
「俺の中じゃこんなの同じですよ、大して変わらないでしょ?」
「変わるから言ってんだろうが!仕事舐めるのもいい加減にしやがれ!」
「分かりましたよ、じゃあ一番短いのに合わせて全部切ればいいんですね」
「俺は!この長さに合わせろって言ったんだ!それじゃあ長さが届かないんだよ!」
青年はまだ何か言いたそうな様子を見せたが、口を結んで一つ息を吐いた。
「その……すいません。俺のせいです」
「当たり前だ!てめえどうしてくれんだ!これじゃあ材料が足りねえぞ!」
「んなこと言ったって、もう切っちゃったものは戻らないでしょうよ」
彼がそう言った瞬間、親方の怒りが頂点に達した。
「何だその言い草は!」
親方の右こぶしが勢いよく青年の顔面に振り下ろされる。しかし青年は最小限の動きでそれをかわすと、数歩離れたところに立った。
「てめえ!」
親方はもう一度彼を殴りつけようと拳を振るうが、何度やっても拳を当てることができない、青年のあまりに見事な動きに周囲から歓声が上がる。
とうとう親方の息が切れたころ、青年はひょいと近くにあった自分の荷物を掴むと聞こえるか聞こえないの大きさで呟いた。
「お世話になりました」
親方が彼の方を見た時、もうその姿は人ごみに消えていた。
人ごみの中をするすると通り抜けながら、青年は自分の家へ向かう。市場では商人が威勢のいい声を上げて働いている、すれ違う人々にも皆仕事があって、その人の役割がある。自分の足だけが地についていないような気がして、彼は無心になって家路を急いだ。
ようやく家に辿り着くと戸を開けて中に転がり込む。
「ただいま、母さん」
居間で壮齢の女性が椅子に腰掛け、繕い物をしていた。
「あれ、まだ仕事の時間じゃないか」
青年は母親から顔を背けて居間に入る。その様子を見て母親が口を開いた。
「あんた、また仕事をクビになったのかい?」
「……寝る」
青年はそう言いながら母親の横を通り過ぎると自室に入って行った。
彼は名をアルダ・シンと言う。早くに父親を亡くし母親とこの家で二人暮らしている、遠く離れた都には弟のフィード・シンがいるが弟のフィードは世渡り下手な兄とは対照的に辛抱強い性格で、しっかりと都で役人の仕事をこなしている。仕事を持たないアルダが生活できているのもフィードの仕送りがあるからで足りない分は母の仕事とアルダの不定期な収入でどうにか食いつないでいる状況だった。
「今日はフィードが帰って来るから、寝床の用意をしといておやりよ」
母親はそう言って苦笑しながら手元の繕い物に針を通す。アルダはその声を背中に聞きながら部屋の扉を閉めた
自室で浅い眠りをとったアルダは言われた通り弟の寝具を用意する、布団を並べているとさっきの親方とやりとりが思い起こされた。
「……」
どうして我慢できなかったのだろう、せめてフィードが帰って来るまでは仕事を続けているはずだったのに。布団を敷きながらアルダは弟との対面が億劫だった。
家の扉が開いたのはちょうどアルダが布団を敷き終わった頃だった。
「母さん、ただいま」
「お帰りフィード、元気だったかい?」
アルダが居間に入ると、フィードが母親と抱擁を交わしていた。
「兄貴は?」
「ここにいるよ」
後ろ手に寝室の戸を閉めて、アルダも居間の椅子に腰を下ろす。
「何だ、今日もご機嫌斜めじゃないか」
「そんな事ないさ」
「この子はとうとう大工の仕事もクビになっちまったのさ」
「おいおい……またかよ」
フィードは呆れ顔で兄を眺めた。
「ああ、悪い……」
バツが悪いとはこの事だった、出来るならこの場から消えてしまいたい。
「まあまあ、フィードも帰っていきなりお説教する事もないよ。今日のところはご飯にしようじゃないか」
母親がそう言ったおかげでそれ以上アルダが責められる事は無かったが、皿を並べている間も、アルダは弟と顔を合わせるのが嫌だった。やがて料理が並べられ、久しぶりに家族3人が食卓を囲む。
「そう言えば、昨日宮殿でトル・ラバートリックを見たんだ」
食事を口に運びながらフィードが言った。
「誰だそりゃ?」
「知らないのか、伝説の勇者だよ。言い伝えによると彼が魔王を退治してくれるんだ、だから勇者がいる限りは僕らも安心できるって事さ」
「どこまで信用出来るかね」
アルダは全く興味を持てない様子でまた食事を口に運ぶ。
「でもそりゃ大層な人物にあったんだね、やっぱり雰囲気とかも違うのかい?」
「うーん、遠くてよくわからなかったけど、何だかボーっとした感じだったよ、正直言って風格があるって感じはしなかったな」
「そんな奴に世界の命運がかかってるんじゃ、ろくなことにならんな」
「まったく、お前は幾つになっても口だけは一人前だねぇ」
「うるさいな……」
むしゃくしゃして食事を掻き込む。
「でも、兄貴こそああいう『伝説の勇者』に向いてる気がするな。俺兄貴が勇者だったら世界は絶対安心だと思うよ」
「確かにね。アルダは見栄えする仕事が好きだし肝も据わってるから、そう言う仕事は良いんじゃないかい」
食卓に暖かな笑い声が広がった。母親と弟が頬を緩めて笑う。しかしアルダは食事の手を止めていた。
「それだ」
「え?」
「それだよ」
「何の事をいってるんだい?」
「勇者だよ、伝説の勇者だ。そんな奴が世界の運命握ってるなら、その役割俺が奪って代わりに俺が魔王を倒してやる」
二人が呆然としてアルダを見つめた。
「ちょっとお待ちよアルダ、あんたそれ本気で言ってるのかい?」
「落ち着けよ兄貴、俺はさっき冗談でだな」
「違う。何で今まで気付かなかったんだ、そうだ、俺は誰かの下で働く必要なんてないんだ、思うままに拳を振るう事も出来るんだ」
アルダの言葉に母親が頭を抱える。
「仕事が見つかないからって、その言い草は何だい!あたしゃ恥ずかしいよ」
「俺は本気だよ母さん。やっと気付けた気がするんだ、俺は腕が立つ、これなら俺の実力を100%活かせるんだ」
フィードが立ち上がってアルダの肩を掴んだ。
「兄貴、ちょっと来い」
そのままアルダを連れて寝室に入る。
「母さんをどうするつもりだよ、俺は宮殿の仕事があるぞ」
「頼む、城下町で母さんと一緒に住んでくれ、一生のお願いだ」
「俺の狭い部屋で母さんと暮らせってのかよ。それに母さんの仕事はどうするんだ、すぐに働き口なんて見つからない!」
「どうにかならないか、やっと見つけたんだ俺は本気だよ」
「出来る事と出来ない事があるだろ!まずは働いてまとまった金を家に入れるとかそう言う……」
「おやめ!」
鋭い声が居間から響いた。アルダとフィードは閉口して顔を見合わせる。
「アルダ、フィード。あたしゃお前達に兄弟喧嘩だけはいけないと子供のころから言ってたはずだよ」
フィードが扉を開け、母親に歩み寄った。
「でも母さん、母さんは良いのかい?」
母は少しだけ笑みを浮かべる。
「アルダは一度言い出したら止まらないからね、さっきはあたしも突然の事で驚いたが、言われてみりゃ確かにあんたにぴったりだよ」
「ぴったりって、意味わかんないよ。要するにこの家を放ったらかして遊びまわるだけじゃないか」
「遊びまわるってなんだよ!」
「アルダ!」
母の声が再び響いた。
「いいかい。あたしはあんた達を自慢の息子だと思ってる、でも今間違ったことを言ってるのはあんただ、どうしても旅に出たいって言うならフィードの許しを得てからにしな。ちゃんと話し合って、家族が納得してから旅に出るんだ」
「何だよ母さんまで、どうしていつも兄貴だけわがままが通るんだよ!」
フィードはそれだけ言うと扉を開けて家の外に出て行った。狭い居間には立ち尽くすアルダと椅子に座る母が残る。
「いくつになっても、あんたは無鉄砲な子供だよ」
母は落ち着いた口調で白湯をすする。アルダはもう一度椅子に腰掛けると、心から母に頭を下げた。
「母さんごめん。本当に俺、迷惑しかかけてないのに」
母は笑った。この子はもうすっかり旅に出る気でいる、ほんの数分前までそんな事考えもしていなかったと言うのに。
「あんたは昔から、自分に正直過ぎるところがあったからね。嫌なことを我慢できず周りを困らせて、そのしわ寄せをあたしやフィードが被るんだよ」
「……」
アルダは身を固くして俯いた。母はグラスを置くと正面から息子の目を見て尋ねる。
「アルダ、覚悟はあるのかい?自分が死ぬ覚悟なんかじゃないよ、あんたが死んだ後、あたしやフィードが涙を流して悲しんで、あんたは何も感じないかい?」
「……」
「行く当てのない旅に出て、いつまで生活できるんだい?夜盗や魔物に襲われることもあるだろう、もしも不審者として宮殿の兵士に捕えられてごらん。宮殿勤めのフィードの立場はどうなる、あんたは今の態度でいれるかい?」
目の奥が熱くて、消えてしまいたいほどに自分が恥ずかしかった。一体どうして、自分はこんなにも身勝手なのか。
「俺は……馬鹿だ」
母はそっとアルダの手を握った。
「アルダよ。一晩じっくり考えるんだ、人生で大事なのは信頼し合える相手、それと自分の責任を取るだけの覚悟だよ。いいかい、よく考えて決めるんだ。お前が本当に覚悟を決めるなら好きにすれば良い。それがお前の人生になるんだよ」
「……母さん」
そう言って抱きしめた母の両肩は思い出よりも骨が出ていて、ずっと小さかった。
街の中を歩くと、近所の廃材置き場にフィードが座っていた。大きくて澄んだ月の明かりが兄弟と茂った雑草を青く照らす。
「ここにいたのか」
アルダはそう言ってフィードの隣に座った。フィードは正面を向いたまま口を開く。
「説教されてきたのかよ」
「ああ、一晩じっくり考えろって言われた」
フィードは慣れた手つきで煙草に火をつける。足元には何本か吸い殻が落ちていた。
「やっぱり俺って馬鹿だな」
「分かってるよそんな事」
「……」
白い煙がフィードの口から伸びた。
「それで、諦めたのか」
「……悩んでる」
「勝手にしろよ、どうせこのままいても仕事決まりそうにないんだろ」
フィードは噛むようにして煙草を口にくわえる。
「仕事の一つも満足にできないのかよ兄貴は」
唇を結んでアルダは手を握った。
「俺もうすぐ結婚するんだぞ」
アルダは驚いてフィードの方を見やった。
「なのに兄貴は『伝説の勇者だぁ』ってか?本気で馬鹿だよ」
「……フィードは凄い。俺はお前がうらやましいよ」
本心からそう思った。一人前であることがいかに難しいかを、アルダは身をもって感じている。
「今日はそれを報告しに来たんだよ。結婚して、相手の人と一緒に暮らしたいんだ、二人っきりでさ」
「そうだよな……」
青くて白い明かりの下で、町全体が眠っているみたいだった。フィードは最後の一服を口に含むと、短くなった煙草を口から外してもみ消した。最後に吐いた紫煙が夜空に吸い込まれていく。
「兄貴よ、明日の朝どうするか決まったら言ってくれ、何だか俺はもうどうでも良いよ」
「でもお前……」
「兄貴は兄貴でいりゃいいさ、しょんぼりしてたらただのダメ人間なんだから」
フィードは立ち上がるとアルダに背中を向ける。
「そもそも、俺だって万事うまくいくとは思ってなかったんだ。俺達夫婦と母さんと、それに子供もいる家庭が嫌ってわけじゃないし。そこに兄貴がついてくる方がよっぽどごめんだからな」
フィードはそれだけ言い放つと足元の小石を蹴ってカツカツと歩を進めた。アルダは急ぎ追いついて声をかける。
「フィード」
「ん?」
「ごめん、本当に俺昔から馬鹿で。お前みたいに一人前になれなくて……」
「俺が一人前なもんかよ。宮殿でどれだけ馬鹿にされてると思ってるんだ」
「フィードが?」
「兄貴にゃ分かんないよ、同情するなら魔王を倒してさっさと英雄になってくれ。そうすりゃ俺も格好が立つんだ」
そう言うと、弟は鼻で笑って家路を歩いた。アルダも少し離れてその後を追う。
不意にフィードが振り返った。
「そうだ。兄貴、これやるよ」
彼が月明りの下で懐から取り出したのは、どう見ても枯れた木の枝だった。
「何だよこれ?」
アルダは受け取った枝葉を振ってみた。
乾ききっていて軽く、よく燃えそうな枝だ。
「薪をくれるのか?」
「違う違う。これは『示しの梢』って言って術具の一つなんだよ」
「『示しの梢』?」
「宮殿に仕えてた術師の爺さんが去年亡くなってな、爺さんの研究室掃除してたら出てきたんだよ」
「お前、それをネコババしたのか?」
兄弟は並んで枝を見つめながら家路を歩く。
「誰も要らないって言うから貰ったんだよ。もし行先に迷う事があったらこの葉っぱを燃やすと良い、導いてくれるぞ」
「導くって、何か中から出てくるのか?」
「分からん。実はこれが見つかった時試しに皆で燃やしてみたんだが何も起こらずに終わった。だから本当に只の枝なのかもな」
「俺はお前が何を言いたいのか分かんねぇよ」
「聞くところによるとこう言った術具ってのは使う人間を選ぶんだそうだ。俺達は駄目だったけど魔王討伐の旅ならこいつも応えてくれるんじゃないか?」
「……」
アルダは訝しんで枝を眺めた。茶色く色あせた表面には何のエネルギーも感じられない。
「ひょっとしたら役に立つかもって事だよ、駄目だったら本当に薪にでもしてくれ」
そう言いながら、フィードは母親の待つ家の扉を開けた。
それから4日後、アルダは慣れ親しんだ故郷を離れ魔王討伐の旅に出た。勿論当てなどある筈もなく、アルダは早々にフィードから貰った『示しの梢』を取り出す。
そこでアルダは一つの変化に気付いた。
(実がなってる。)
フィードから受け取った時は確かに枯葉と幹だけの枝だったはずが、今では小さいながらも真っ赤なみずみずしい果実が実っているのだ。
アルダは半信半疑ながらも芝生の草をむしり、枝を地面に置いて燃やした。
「……」
徐々に火が大きくなる。枝が少し湿っていたのか、白い煙が立ち込始めた。
平野は見晴らしが良いがどこかから魔物が現れるかもしれない、アルダは首を回して辺りをうかがった。
その途端、目の前が真っ白になり、声とも音ともつかぬ文章が脳裏に焼き付いた。
『頼みごとを拒んではならない。九時に彼が示す先、足先の頭の先、彼が四度目の山に降りるとき、別れ際にそれはある』
一体何だ、何が起こっている、アルダは白煙の中で声を聴きながら必死にその正体を探した。やがて白煙が晴れ視界が戻った時、辺りにあるのはさっきと変わらない平野と燃え尽きた薪だけだった。
「……」
アルダは立ち尽くしたまま頭を押さえる。
『頼みごとを拒んではならない。九時に彼が示す先、足先の頭の先、彼が四度目の山に降りるとき、別れ際にそれはある』
頭に刻まれた予言は、そう簡単に忘れられそうになかった。