商人の帰郷
「姉ちゃん、姉ちゃん」
弟の声にナサルディはハッと我に返った。目の前ではさっき掬ったスープが匙からこぼれ、もう残っていない。
街の食堂でナサルディは弟のボストと夕食をとっていた。
「またボーっとしてたぞ」
「ああ……そうね、ごめん」
改めて掬ったスープはすっかり冷めていておいしくない。初めから食欲もなかった。
「本当に大丈夫なのか、戦ってる時に魔物から毒とかもらわなかったか?」
「何回も言わせないで、私は殆ど戦ってないの。戦いは勇者とか戦士の人とかがやってくれたんだから」
そう言って無理に笑うが、どんなに取り繕っても顔に浮かぶのは引きつった笑みばかりだ。
「あんたこそいつまでしんみりしてるの。明日にはもう村に戻るんだよ、また店の準備で忙しくなるんだから、しっかりしなよ?」
「俺は平気だけど……不安なのは姉ちゃんだろ?」
「そんなことないって」
それが嘘なのはナサルディ自身にもよく分かっていた。必死に平静を装ってボストと二人、食堂を後にする。
大きくはない宿場町、夕食時の賑わいの中を宿に向けて歩きながら、ナサルディは自分が小さく震えているのを感じていた。
(一体どうしたんだろう……)
ここ数日、何度も繰り返した自問自答だった。
やっと戦いの日々から解放された、やっと弟を取り戻すことができた、明日には故郷の村に帰ってまた安全な日々を過ごすことができる。どれだけそう言い聞かせても身体の震えは一向に収まってくれない。
(きっと、寒いからだ、だからこんなに震えるんだ)
そう思いナサルディは宿に入ると店主に声をかけた。
「毛布ですか?」
「はい、何枚か使いたいんです」
店主は怪訝そうに眉をひそめる。もう季節は夏に近く、夜になっても空気は暖かい。訝しむのも当然だった。
「何言ってんだよ姉ちゃん、毛布なんて何に使うんだ?」
「ちょっと欲しいの。ごめん、あんまり気にしないで」
弟にそれだけを言って隠れるように顔を背ける。
自分が一体何をしているのか、自分でもよく分からない。しかしどうすればいいのかも彼女には分からなかった。身体が震えるなんて普通じゃない、寒くなくなれば震えは止まる、ナサルディはそう自分に言い聞かせた。
店主から毛布を貰うとナサルディは急ぎ足で部屋に入り、震える手で寝巻を身に着けると毛布をかぶってベッドに寝転がった。
「……」
汗をかきたかった、体中が火照って寝苦しいくらいに汗をかきたかった。ベッドの上で彼女は頭から毛布を巻き付ける。
ボストはしばらく姉を見つめていたが、やがて諦めたように灯りを消し。自分は薄いシーツをかけて眠った。
「……」
灯りの消えた部屋で目を閉じても眠気が訪れる気配はなかった。少し楽になった気もしたが、まだ明日の事がナサルディの胸に重くのしかかっている。
(明日にはもう、故郷に帰る……)
「……」
どんな顔で村に帰ればいいのか、皆は自分をどんな目で見るんだろうか、自分には村に戻る資格があるんだろうか。村に帰ったら誰かに怒られるような、後ろ暗さに似た畏怖の感情が胸中を駆け巡っていた。
(もう辛い旅は終わったのに、何でこんなに震えるの?私はもう……村に戻りたくないの?)
毛布の中で、ナサルディは膝を抱いて身体を丸めた。
これまで両親の残した店を必死で切り盛りしてきた。毎日毎日働いて働いて、本当に僅かな収入を手に日々を乗り越えて、あの小さな店に噛り付いて何とか生きてきた。自分以外に頼れるものなんて何もなかった。
しかしその自分は数日前まで何をしていた。鎧に袖を通し、勇者の一団に入って魔物と戦っていた。それを周りが聞いたら果たしてどう思うだろうか。
(違う、周りじゃない、私はどう思ってるの?)
あの旅の間に自分の中で何かが変わっていた。平和に暮らしていた頃の自分はもういない、あの頃の自分が持っていた店主としての覚悟と店への想いを、今の自分は持っているだろうか。それを考えると自信がなかった。
ナサルディは目を固く閉じてキュッと膝を抱きしめる。
(それに……皆は受け入れてくれるだろうか)
数日前まで自分には勇者、ウィル、ワトーの仲間と呼べる存在がいた、しかしもうその仲間はいない。それどころか村にとって自分が明らかな「異物」に思えてしょうがなかった。
明日自分が帰る故郷の村、住み慣れたはずの村がとても重々しく感じた。その大きな村の前にちっぽけな自分が一人で剣を持って立ち向かっている、そんなイメージさえ頭に浮かぶ。
本当に自分に帰る場所はあるんだろうか一度村を捨てた自分がのこのこ帰るなんて許されるんだろうか、あの村は…あの私が経営してきたあの店は私を受け入れてくれるんだろうか。
ナサルディは手をほどくと毛布を持ち上げ、ベットの上に身体を起こした。
(落ち着こう……)
額に手を当て、深く深く息を吸う。肺を一杯に膨らましてからゆっくり息を吐いた。
分厚い毛布のせいでいつの間にか肌着が湿っている。
ベッドの上で壁に頭をもたげて、窓から夜の街を眺めた。
「……」
こんなに自分が小さくて弱いと感じたのはいつ以来だろうか。思い起こせば旅の始まりも、そして終わりも封印の宝玉が転機だった。
ナサルディは懐に手を入れると封印の宝玉を取り出す。すっかり汚れた宝玉が月明りに照らされ、細かな傷が白く光った。
(私には、この宝玉を使いこなす素質があった)
この珠にボストを封印したことで旅が始まったが、それ以来自分は退魔の魔力を使っていた。人の魂が放つエネルギーがどうこうと妖精王は言っていたが、弟の魂が自分にあの不思議なオーラを与えていて、ボストが元の身体に戻って自分はオーラを失った。只の小娘に戻ったのだ。
窓を夜風が通る、隣のベッドからはボストの寝息が聞こえた。
(もう一度ボストを封印すれば、皆はまた私を仲間にしてくれるだろうか……)
自分ならこの珠を使うことも、そしていつでも中身を再構築することができる。冗談とも本気ともつかない考えが浮かびナサルディはぞっとして大きく頭を振った。
「バカ……」
疲れている。この数か月でいろいろな事があり過ぎた。
(……もう寝よう)
まだ気分は重かったが外の景色を見る内に身体の震えは収まったようだ。
ナサルディは毛布を降り畳むとそれを机の上に置き、身体にシーツをかけて横になった。そしてもう一度大きく息を吸ってから静かに吐き、ゆっくりと瞼を降ろした。
翌朝、いよいよ二人は生まれ故郷のサルバラックに向けて歩き出した。
商人や戦士風の男がまばらに歩を進める街道に立ち、ナサルディと弟のボストは故郷に向けて進む。
昔から通り慣れたこの街道、その景色を眺めるだけで自分がひどく焦燥しているのを感じた。呼吸が早くて全身に嫌な汗をかいている。
快晴の空を見上げ、吹き渡る風で呼吸しながら何度も自分に言い聞かせた。
(落ち着いて……落ち着いてよ……)
一歩、また一歩と踏みしめるように街道の地を踏んでいく。心臓が大きく脈を打った。
「姉ちゃん」
突然の声に驚くと、隣でボストがじっとこっちを見上げていた。
「ごめん」
「え?」
ナサルディは声が震えないよう気を付けながら、弟の方を向いて尋ねた。
「ごめんって、何が?」
「本当にごめん。俺、何度謝っても足りないと思う。俺がバカなことしたせいで、姉ちゃん命懸けで今まで旅してたんだよな」
ボストは俯いたまま拳をぎゅっと握った。
「ボスト……」
ボストは鼻をすすり、何度もナサルディに謝った。
「ごめんなさい」
張り詰めていた緊張が少しずつ和らいでいく。
自分が独りではなかったことを、ナサルディは思い出した。いくら寂しくてもいくら不安でも、自分にはかけがえのないこの子がいる。
ナサルディも俯いて、必死に涙をこらえた、今泣いてしまったら、きっと涙を止めることができない。小さく目をこすって彼女は弟の手を取った。
「そんなのもういいよ。こうして帰って来たんだから、また一緒に二人で暮らそう」
ボストもその手を握り返す。思えば彼とこうして手を繋ぐのも久しぶりだった。
「でも姉ちゃん、シャルフと結婚するんじゃなかったのか?」
「どうかな……もうずっと留守にしてたし、話自体無かったことなってるかも」
ナサルディは一つ鼻をすすり前を向いた。
「そんな事あるのか?だってプロポーズしたんだろ」
「分かんない、私はもう前の生活に戻れるなら何でもいいよ」
それだけ言うとナサルディはボストの手を強く握りしめ、深呼吸をしてまた進み始める。
二人で並んで歩いていても身体の震えは止まらなかった。胃の辺りにどんよりとした重みさえ感じてくる。
たまらなくなって立ち止まる。そうしないと逃げ出しそうだった。
「姉ちゃん、休むか?」
震える姉を気遣ってボストが声をかける。
「いい、大丈夫だから」
ここで逃げたら、ここで泣いたら、これまでの頑張りが無駄になるような気がした。震えは肩にまで広がり心臓の音は鼓膜を通じて頭にまで響く、じっとりと汗をかきながら休んでは歩き、歩いては休みを繰り返してついに村が見えるところまで、ナサルディは辿り着いた。
「……」
確かめるように彼女はその光景を見つめる。
「……」
視界の先にあったのは、これまでと何ら変わらない生まれ故郷だった。荒い息が漏れて、ナサルディは膝に手を突いた。手も、膝も震えていた。
「……ナサちゃん?」
驚いて声のした方を振り返ると、ひどく懐かしい女性がこちらを見ていた。
「やっぱり、やっぱりナサちゃんなのね。それにボスト君も……」
「ああ……リルフィのおばさん」
そこにいたのは、幼馴染であるリルフィの母親だった。
彼女は街道の上に立ち、なぜかはにかむような表情で視線を泳がせている。
「ナサちゃん、無事だったのね……」
そう呟きながらナサルディを見る瞳、恐れを含んだ拒絶の目、それは明らかに娘の幼友達に向けられるのとは違う視線だった。
(嫌だ、そんな目で見られたくない……)
ナサルディは逃げるような思いで、がむしゃらに口を開いた。
「おばさん……その、お変わりありませんか?ごめんなさい長く留守にしてしまって、えっと……本当に色々な事があって、帰ろうと思ったんですけどなかなか上手くいかなかったんです……でもこうして、私も弟も無事で帰ってこれました、私達は今から家に帰るところで…でもちょっと何か緊張しちゃって……」
「ああ、そう……」
聞いているのかいないのか彼女はまだ曖昧な笑みを浮かべている。
「ええもう本当に色々な事があったんです……私もここに来るまで道を覚えてるかちょっと不安だったんですけど、でもやっぱり馴染みの道なんで迷わずに来れました……ええと……その……」
「姉ちゃん落ち着けよ」
狼狽する姉を見かねボストが口をはさんだ。
「え?」
二人の視線が彼に向けられる。
「こんな道端で話し込むこともないよ、とりあえず家に帰ろう」
「ああ…そうだよね。ごめん」
小さく歯を震わせながらそう言って答える。しかしリルフィの母親はまだその場に立ち尽くしていた。
「おばさん、何か用事ですか?僕らはこれから家に帰りますけど」
「家に……ね。ええ、そうよね……」
ナサルディも徐々に相手の様子に気付いた。まるで何かを隠しているような、言うべきか迷っている様子だった。
「あの、私達がいない間に何かあったんですか?」
相手は手を口元でもじもじとさせながら必死に言葉を探している。
「まあ……ちょっとね、その……何て言うか……」
「姉ちゃん、今はまず帰ろうよ」
しびれを切らしたボストが姉の手を引く。ナサルディは少し迷ったものの、結局は彼女をその場に残して故郷の村へ入った。リルフィの母親は終始苦虫を潰したような表情のまま、遠ざかる二人を見つめていた。
村の中を歩くと道行く人が次々に自分達を見て驚き、ひそひそと噂をする。ナサルディは顔を俯けたまま速足で歩いた。
やはり自分はもう『異物』になってしまったのだろうか、さっきのリルフィの母親の態度もその表れだったのかも知れない、それとも何か大きな変化が自分達のいない間にあったのか。汗ばんだ指でボストの手を強く握った。
(やっぱり……帰るべきじゃなかったかな)
しかしもう遅いのだ、今は一秒でも早く自分の家に戻りたかった。
どこまでも続くかと思われた家までの道が終わり、ナサルディは走り込むように家へと向かった、震える指で戸を開けて中に滑り込むとしっかりと扉を閉めて、そしてそのまま板敷の床にへたり込んだ。
「何だよあいつら、ジロジロ見やがって」
ボストの悪態を聞きながらナサルディは大きく胸をなでおろす。
とても気持ちの整理がつかないが家の中にいるだけで衆目から解放された安心感があった。何が起こっているにせよ、無事自分の場所に帰って来れたのだ。
疲れた手で荷物を肩から下ろし、店内を見渡した。そして微かな疑問を抱いた。
「ねえボスト、何だか店の雰囲気が違う気がするんだけど」
「……そうか?」
立てかけてある槍、飾られた鎧、壁に並んだ盾。はっきりとは分からないが、何か漠然とした違和感を感じた。
「ひょっとしたら、シャルフとかリルフィが掃除してくれてたんじゃないか?」
それは確かにあるかも知れない、もしそうだったら二人にもきちんとお礼をしておかないといけないだろう。
ナサルディはゆっくりと立ち上がって店の奥に向かうと、改めて店のカウンターに立った。
深呼吸をして感覚を確かめる。
「……」
古びたカウンターテーブルは両親の代から使っていて自分達よりも年上だ。店に並んだ商品は念のため棚卸しして数を数えておく必要がある、見たところ埃が積もっているけどそれはキッチンの棚からハタキを取って来て掃除すればいい、だがまずは仕入れ先の武器職人の皆さんに連絡をとるべきだろう、旅に出るとき声はかけているが本当に迷惑をかけてしまった。今日は忙しくなりそうだ。
(大丈夫……大丈夫だ)
長年培った商人の勘は錆びていなかった、まだ村の人達の視線は気になるが真面目に頑張ればきっと時間が解決してくれる。自分は歴としたこの店の主人なのだから。
「……」
ナサルディは小さく椅子に座る。ようやく旅が終わったことへの実感が湧いて確かな安堵感が心の中に芽生えていた。
長くそして苦しかった、だがそれももう終わったのだ。そう思った。
「姉ちゃん」
隣室からボストの声が聞こえた。
「ん、何?」
「ちょっと……来てよ」
ナサルディは椅子から立ち上がると荷物を拾い、弟のいるリビングへ向かった。
片手で荷物を肩にかけながら、使い慣れた扉を開ける。
「……」
扉の先のリビングルームでは、ボストが困惑の表情で立ち尽くしていた。ナサルディもその光景に言葉を失う。
「……何よこれ」
それはおよそ住み慣れた我が家とはかけ離れた、見たこともない部屋だった。
否、よく見れば部屋にある家具は自分達の物だ、だが椅子も机もベッドも棚も全てかわいらしい布で装飾されていて、どこにも使い慣れた家具の面影はない。
「どうなってんだ……。一体誰がこんなことしたんだ」
ボストが走り寄ってクローゼットを開ける。中には見覚えのない服がびっしり詰まっていた。
「……誰かが、ここに住んでるの?」
言い知れぬ不気味さを感じ、背筋が寒くなった。
その時、正面の扉を誰かが力強く開ける音がした。
「何、お客さん?」
とっさに荷物を置いて身なりを整える。しかしナサルディが店に出るよりも早く、その誰かは二人のいる部屋の扉を開けた。そして叫んだ。
「ナサ!?」
「……あなた、リルフィ」
幼馴染の少女は目を見開き、慄然と二人を見ている。
「……本当に、ナサなの?」
「本当にって、本当に決まってるでしょ、久しぶりねリルフィ」
そう言って笑いかけてもリルフィの硬い表情は変わらない。
ナサルディは戸惑いながらも目の前の友人に尋ねた。
「……ねえ、この家って今誰かが住んでるの?私達がいない間に何があったのか教えてくれない?」
「……」
リルフィは答えない。こちらを睨んでいる。そして唸るような声で言った。
「……何しに来たのよ」
「え?」
「今更何しに来たってのよ」
ナサルディとボストが互いに顔を見合わせる。
「『この家に誰かが住んでるの?』『何があったか教えてくれない?』ですって、よくもまあそんな……白々しい言葉が吐けたもんね」
「どういう事?あなた何言って……」
「黙ってよ!」
リルフィの大声に二人が身を強張らせた。
「知らないっての?じゃあ教えてあげるわよ、この家には今あたしが住んでるの。ここはあたし達の家なの」
「じゃあ……リルフィの一家が、この家に住んでるの?」
リルフィは更に強く、ナサルディを睨みつけた。
「そんな訳ないでしょ。私が、彼と、二人で暮らしてるのよ」
「え……彼?」
部屋を調べていたボストが、こちらを向いて口を開いた。
「姉ちゃん……これ」
彼は姉に歩み寄ると、恐る恐る一枚の写真立てを手渡す。
「……」
そこに映っていたのはリルフィともう一人、それはナサルディにプロポーズをしたはずのシャルフだった。店のカウンターに並ぶ写真の中の二人はどう見ても店を営む夫婦に見える。
「分かったでしょ、私はシャルフと結婚したの……そして今はこの家で暮らしてるのよ」
「……」
写真を見ていたナサルディの視線がゆっくりと目の前の幼友達へ移る。
「リルフィ……あんた、シャルフが好きだったから?」
呟くように言った。
「私に、シャルフを取られるのが嫌で……?」
幾つもの光景が頭に浮かんだ。ボストを失い独りになることの恐怖、足の痛みに耐えたあの辛く長い旅路、逃げ惑いながら必死になって生きたあの日々。
「もう遅いのよ……」
そう呟いたリルフィはゆっくりとお腹に手を当てた。
「私、妊娠してるの。だからもう……遅いんだからね」
開け放たれた玄関から、もう一人が部屋の中に走り込んできた。この家のもう一人の主、シャルフだった。
「ナサ……」
シャルフはまるでこの世の終わりの様な表情で、ナサルディを見ていた。
その後完全に錯乱したリルフィのおかげでナサルディとボストは家を後にせざるを得なくなった。
宿屋を経営するシャルフの両親が二人に最も値の張る部屋を用意し、平身低頭して今回の事態を詫びた。
「本当にごめんなさい。何てお詫びすればいいか……」
どうやらナサルディが旅に出て少し経ってからリルフィは執拗にシャルフとの結婚を口にし始め、そしてとうとう一か月前に周囲の反対を押し切ってシャルフと結婚し、そのまま家と店を乗っ取ってしまったらしかった。
「……」
それにしても、一体自分はどうするべきだったのだろう。ナサルディは悩むでもなくそれを考える。
きちんとシャルフのプロポーズを受けておくべきだったろうか、いや、断っておくべきだったかも知れない。あの時どちらとも返事をしなかったから、こんなことが起こってしまったのか。
「……」
溜息を吐くと、改造された我が家の光景が浮かんだ。
住み慣れたはずの我が家はもう自分達の物ではなかった、あんなに大切だった店が自分の手からこぼれ落ちていった……。そのことを思うと、やはり帰って来るべきではなかったのかも知れない。
(分かってたのに……どうして戻って来たんだろう)
店主としての責任のため、弟のボストのため、自分の体裁のため…。きっとどれも正解なのだ、自分はここに帰るしかなかった。店がこんなことになっていても、そこにのこのこやって来るしか選択肢はなかった。
そう考えた時、ナサルディの中で一つの答えが浮かんだ。
(ああ……店を捨てたからだ)
あの日、ボストを封印してしまった自分はこの店を捨てて旅に出た。店主である自分が店を捨てた、だからこんなことになった。因果応報じゃないか、店を捨てた自分の帰る場所なんて初めからなかったのだ。
また一つ大きく、大きく溜息を吐いた。
「……」
もう一度旅に出ることはできないだろうか。この村にもう居場所はないのだから、なら外に出て魔物と戦っていた方が楽かもしれない。でも自分にはもう退魔の魔力が使えない、ならボストを封印してしまおうか。
『弟を封印したからまた仲間に入れて下さい』
そんなことを告げる自分の姿が浮かんだ。自嘲の笑みがこぼれる。
それにしても。
「……」
(こんなの……あんまりだよ)
そう思わずにはいられなかった。
あまりにも理不尽じゃないか、あまりにもバカバカしいじゃないか、そしてあまりにも
寂しいじゃないか。誰一人自分を受け入れてくれないだなんて。
目を閉じると一筋の涙が目の横を流れた。
「……」
そう言えばここはどこだろう。ゆっくり視線を巡らせる。
自分は宿の一室にいた。シャルフの両親が用意してくれた一番豪華な部屋、今の自分がいられる唯一の場所。その部屋のベッドで横になっていた。
(私、いつからここにいるんだっけ……)
それすらも思い出すことができない。
(これから……どうなるんだろう)
漠然と先への不安が浮かんだが、それ以上考える気力もなかった。これまで生きてきてこれほどどうしようもない瞬間もなかっただろう、今ではまるで気持ちが深い海の底に沈んだように、どうにもならない億劫さがナサルディを飲み込んでいる。
やがてボストがやって来て彼女に声をかけた。
「姉ちゃん、具合どうだ?」
「うん……?」
自分は病気なのだろうか。そう思いながらナサルディはゆっくりベッドから起き上がる。
「腹減ったろ、そろそろ何か食べに行こうぜ」
「ああ……お腹減ったね」
『別に病気になってないよ』そう思ったがそれを伝えるのも面倒だ。ナサルディは少し頼りない足取りで弟の後に従った。
ただ手を動かし、おざなりに食事を口元へと運ぶ。
向かいに座るボストが声をかける度、何だか気の抜けた返事をした。彼に申し訳なく思ったが、どうにもやる気を出すことができない。
(何やってるんだろう私。しっかりしないといけないのにな……)
いくらそう思っても何もできないまま、ただ時間だけが流れていくようだった。
「ナサだよな?」
そんな時、ふいに自分を呼ぶ声がした。
ゆっくりと振り返った視線の先で、ナサルディは目を見開く。
そこにいたのはつい数日前まで彼女と旅をしていた勇者だった。彼女の退魔の魔力を使って幾匹もの魔物を打ち倒し魔王討伐の旅を続けていた彼、戦いはできるのに全く他人に興味を持たないあの、トル・ラバートリックとか言う勇者がそこに立って彼女の方を見ていた。
咄嗟に考えようとしても状況が飲み込めなかった、驚きと混乱の感情が湧き出て、心臓が慌てて脳に血を送り始める。
「嘘……!トル、さん?」
「よかった、なんだか雰囲気が違ったから分からなかったんだ」
安心したハルトはそう言って笑いかけるが、ナサルディはまだ訳が分からなかった。これは夢なんだろうか、自分は彼らと別れて故郷に帰ってきたのに、なのにどうして妖精の里にいたはずの勇者がここにいるのだろう。
「……お前、なんかあったのか?大丈夫か?」
ハルトは怪訝そうにそう呟く。ナサルディは必死になって今の状況を理解しようと努めた、とにかく今…しなくてはならないことは何だ?
やがて勇者の方を見てナサルディは口を開く。
「あの……お久しぶりですトルさん。ほらボスト、覚えてる?勇者のトルさん。身体が戻った時にちょっと会ったでしょ」
そう言ってボストの方に目をやる、弟もまた戸惑った表情を浮かべていた。
「えっと、ボスト・ネルソンです」
「トル・ラバートリックだ」
二人が握手するのを見ながらナサルディは身だしなみを整えた。顔にかかっていた髪を後ろに回し、椅子にしっかりと腰掛ける。そして一番分からないことを聞いた。
「あの……トルさん、どうしてこんなところにいるんです?」
「それなんだが、実はな……」
ハルトはナサルディがチームを離れてからの出来事を説明した。予言に従ってアルダに出会った後、ハルト達はアルダの腕の金具を持って妖精の里に向かう、そして妖精族の術でドラゴンを呼び出し、金具に残った魔王の魔力を辿り魔王城に向かうはずだった。
しかし、いざドラゴンの祠に向かった妖精の術師達は頭を抱えた。無事ドラゴンの祠に入り既にドラゴンを呼び出す手筈も整っていたというのに、長い時の中でドラゴンの身体そのものがひどく損傷し復活させようにもできない状態になっていたのだ。
「ドラゴンの、身体が?」
「俺も見たんだが、何だか干からびたみたいになっててな。かろうじて骨と皮が残ってるっていうか、何にせよ今のままじゃ復活できないんだとさ」
「じゃあ……何か違う方法で魔王城に向かわないといけないんですね」
「そうじゃないんだ、俺達はドラゴンに乗って魔王所に向かう」
ハルトは楽しそうにナサルディを見ている。
「でも、ドラゴンは干からびてるんでしょ?」
彼女の言葉に、ハルトは机に両手を突き身を乗り出して言った。
「お前なら、ドラゴンの身体を元に戻せるだろ」
ナサルディはハルトの言った言葉の意味を考える。思い当たるのは一つしかなかった。
「身体を再構築する……」
自分が『森の滴』で習得した身体を再構築する呪文、弟のボストを封印から解き放った呪文。
「そう、あの呪文ならドラゴンの身体を元に戻せるんだよ」
「……」
「他にあの呪文を使える奴がいなくてな。だからもう一度お前の力を貸してほしいんだ」
ナサルディの中に小さな感情が生まれた、必死に押さえつけようとしてもそれは見る見るうちに胸の中で膨らみ、自分の唇をわなわなと震わせる。
「どうだろう、また一緒に来てくれないか」
ハルトはそう言ってナサルディを見つめる。少しだけ時間を置いて、彼女の両目から涙が流れた。
「……」
手で顔を覆って、顔をくしゃくしゃにして泣いた。必死になって嗚咽を堪えた。
「姉ちゃん、大丈夫か?」
「何だ……おい、どうしたんだよ」
驚いたボストと勇者が立ち上がる。
「分かんないです……自分でも、分かんないんですけど……」
それでも涙を止めることができなかった。喜びも、苦しみも、諦めも、全ての感情を洗い流すように、大粒の涙が手の間を抜けて膝元を濡らしていく。
「何だか……悪い、申し訳ないよ」
トルがそう言って立ち上がる、ナサルディは片手でトルの腕をつかんだ。
「違うんです……ちょっとだけ……待って下さい」
「……」
全員が席に座り、しばらく彼女の嗚咽が店内にこだました。
やがて嗚咽を飲み込んだナサルディが顔を上げハルトに向けて言った。
「私行きます。また連れて行って下さい」
彼女は充血した瞳でハルトを正面から見つめる。
「一応聞いておくが良いんだな?せっかく弟も戻って家にも帰れたんだ。それでもまた旅立つことになるが」
「僕からもお願いします、姉を連れて行って下さい」
勇者の言葉にボストが口を開いた。
「……ボスト」
「お前がそれ言うのか?姉ちゃんまた危険にさらすことになるってのに」
ボストは力強く答える。
「姉ちゃん、このままこの村にいたらダメになるところだったんです、店のことは僕の方で何とかします」
それを聞いてナサルディはハッとした。そうだ、すっかり自分のことで手一杯だったがこれから忙しくなる。自分が腑抜けていたせいで店のことは何一つ進展していないのだから。
「何とかって、あんた一人でできるの?」
「姉ちゃんに言われたくないよ」
ボストはそう言って立ち上がった。
「ここ数日の姉ちゃん、見てられなかったんだ。皆も姉ちゃんは旅でおかしくなっちまったんじゃないかとか、魔物に襲われて呪いがかかってるんじゃないかとか噂してる。姉ちゃん、旅が好きならこれからは旅だけやってればいいよ」
そう言いながら、ボストはまるで懇願するように続けた。
「俺もう耐えれないんだよ、俺がバカだったせいで、俺があんなことしたせいで姉ちゃんの店も、姉ちゃんの結婚も、それに姉ちゃん自身も壊しちゃったことが。お願いだから姉ちゃん、これ以上苦しまないでくれよ」
ボストは肩を強張らせると、潤んだ目に力を込めた。
「俺、絶対店を取り戻すから、また前の生活に戻してみせるから。俺もう二度とあんなバカな事しない、だから姉ちゃんは好きに生きてくれよ」
「……」
ハルトはそう言うボストを見てどこか楽しそうに笑っていた。
「やるじゃないか」
ナサルディは軽く目をこすると、呼吸を整えた。
「……」
ハルトとナサルディの視線が再び交錯する。二人とも笑った。
「話は聞いた通りです。また私を連れて行って下さい」
「ああ。よろしく頼むよ」
ハルトが差し伸べた手を、ナサルディが握り返す。二人は硬く手を結んだ。
「ところでトルさん、どうして私がここにいるって分かったんですか?」
手を放しながら尋ねた。
「予言だよ」
ハルトは少し上を見ながら予言の文面を暗唱する。
『手がかりを辿れ、行き止まりでは大きな足が南へ、貴方の足が西へ、小さな足が北へと向かう。胸元の呪いともう一度向き合うとき、柔らかな羽が導きとなろう』
言葉の意味が分からず、ナサルディは目を丸くした。
「この予言は三つの探し物がどこにあるかを言っていたのさ。『行き止まり』から『大きな足』は南に向かった、これは実はドラゴンの事だ」
「ドラゴンの?」
「ああ、妖精の里から南にドラゴンの祠があったんだ。そして次の『貴方の足』が西、これはつまり男の足が西に向かった、俺達が探すアルダが行き止まりの場所から西に向かえば見つかるって事。そして『小さな足』ってのはお前の事だよ」
「……」
「お前の手がかりを辿ったが、初めて会った街以降どう進んでいいか分からなかった。その『行き止まり』から、小さなお前の足は北の方角にあったんだよ」
当人は笑みを浮かべ得意げに話しているが、ナサルディにはよく分からなかった。思えば出会ったばかりの頃にも同じようなことがあった気がする。そう思うと懐かしくて、何だかおかしかった。
「トルさん、相変わらずですね」
「……何がだよ」
勇者が不思議そうにナサルディを見返す。
(本当にこの人、自分にしか興味ないよなぁ)
でも、案外そんなものなのかもしれない。ナサルディは勇者の顔を眺めて苦笑した。




