あ行系小説5、赤い紐~あ、何かを大切にすること。
171、赤い紐
疲れた。
私は学校から帰宅すると、ベットの上に体を投げ出すように倒れ込んだ。
学校行って、勉強して、家に帰って勉強して疲れて寝てまた学校に行く。
休日も勉強ばかりしている。
クラスの他の子はショッピングやカラオケや水族館とかに行ったりしているのに私ばっかり何でこんなことしなくちゃいけないの?
私は目を閉じ、頭を抱え首をぶんぶんと振った。
しばらくして気分が落ち着いた私は目を仰向けになり目を開けた。
!?
赤い紐が部屋の天井にくっ付いていた。
「何これ?」
私はすくっと起き上がり紐を見た。
紐には白い紙が付属していた。
白い紙には『魔法少女になりますか? なりたければこの紐を引いて下さい』と書かれていた。
何? これは? 誰のいたずらだろう。母親のいたずらだろうか。しかし母親はこんなことをする人間ではない。教育ママで。PTAの会長でもあるのだ。
自分の唯一の趣味であるアニメの展開みたいだ。とは言ってもアニメは一日30分しか見せてもらえないが。
私は少し迷ったが赤い紐を思いっきり下へと引いた。
パンパカパーン。
突然部屋に音楽が鳴り響き、クラッカーが四方八方から私の元へと飛んできた。
「何? 何なの?」
「おめでとうございます。あなたは魔法少女になりました」
誰かが言った。だが、姿は見えなかった。
「こちらでございます」
声のした方を必死で探し、私はようやくその声の主を探し出すことが出来た。
声の主は床に存在していた。その大きさはとても小さく蟻のようだった。あやうく踏み潰す所だった。
「あなた一体誰なの?」
声の主に向かって話しかける。
声の主は執事の服装をしており、仕草も執事そのものだった。
「私は異世界からやってきました。私の世界が悪魔に乗っ取られそうなので、この世界に魔法少女を探す為にやってきました」
「異世界から??」
「はい。それでこの世界の全ての方の目の前に魔法の素質のある方のみに見えることが出来る赤い紐をぶら下げたのです。そしてあなたはその赤い紐を見つけ、その紐を引いた。おめでとうございます」
「喜んでいいことなのかな?」
「はい。それはもちろん」
「でも、他にこの紐が見えた人はどれくらいいるんだろう」
「どうやら。この世界ではあなたしかこの紐を見ることが出来なかったようです。あなたは正に魔法少女になるべく生まれてきたんですよ」
「ほ、本当?」
「はい。正に運命の赤い糸ですね!」
「う、上手いこと言ったわね」
「そうですか。座布団何枚くれますか?」
「ずいぶんとこの世界に詳しいのね」
「それはもう。魔法少女を探す為に色々とこの世界について学びましたから」
「ふ~ん。それはいいけど魔法少女になって私は何をすればいいの?」
「私の住んでいる世界に来ていただき、悪魔をやっつけてもらいたいのです」
「ああ、さっき言っていた奴ね。合点承知よ!」
「ずいぶんと乗り気ですね」
「ええ。私ずっと子供の頃からそういうのに憧れていたの。セーラームンムンとかプリキュアキュアとか」
「そうですか。ならば話は早いですね。早速私達の世界に来てくれますか?」
「うん! でも一つ聞いてもいい?」
「何でしょうか?」
「この世界にはまた戻ってこれるの?」
「はい大丈夫です。帰りたい時に帰っていいですよ」
「ずいぶんと適当なのね」
「気分を害してしまって、戦わなくなってしまわれると元も子もないですからね」
「そう」
「じゃあ、行きましょうか」
執事の格好をした男は言うと、両手を上げ、助けを呼ぶかのように左右に振った。
キラキラとした輝きが空間に現れ、その後その輝きが私を包み、私の目の前がフラッシュバックした。
「な、何ここ?」
気づくとまるで違う世界にいた。ここが異世界なのね。
「で、どんな魔法が使えるのかしら」
「え? 今使った魔法が使えるようになりました」
「今使った魔法って?」
「あなたの世界から異世界にくることが出来る魔法です」
「ちょ、ちょっと。何言っているのよ。他にどんな魔法が使えるのか聞いているの!」
「他には使えませんよ。その魔法が全てです」
「そ、そんな。じゃ、じゃあ一体どうやって悪魔を倒せばいいっていうのよ」
「よく自分自身を見てください。あなたの体は私達の世界の住人より、遥かに体が大きいではないですか」
「だから何なのよ!」
「その大きな体を利用して、巨大な岩とかを持って悪魔にぶつけたり、悪魔を踏んづけたりしてやっつければいいのです」
「そ、そんな。そんな戦い方ってないわ。そんなの魔法少女って言わないじゃない。魔法をばんばんと使って悪魔をやっつけるのが格好いいんじゃない」
すると執事の格好の男は切なそうに視線を下に向け言った。
「あなたのお望み通りの魔法少女にならせることが出来ずにすいません。もし嫌なら魔法少女を止めて下さっても構いません。あなたが魔法少女を止めたら私達の世界は滅びますがそれでもあなたを無理やり魔法少女にして戦わせることは出来ませんから」
「わ、分かったわよ。やればいいんでしょ!」
男の瞳がぱあっと明るくなった。
「あ、ありがとうございます。では改めてよろしくお願いします!」
そうして私は誰に自慢するでもなく魔法少女として、異世界に行き、岩を投げつけたり、踏んづけたりして悪魔をやっつけている。
172、赤暖簾
赤暖簾のお店があった、赤暖簾のお店は料金が安い飲食店だと聞いたことがある。
今日は待ち合わせがあるが、待ち合わせの時間まではまだ随分とあった。
スーツのズボンの後ろポケットから財布を取り、中身を確認した。
5000円か。まあ何とかなるだろう。
私は待ち合わせまでの時間を潰す為に店に入ることにした。
赤暖簾をくぐり、スライド式の木で作られた、どこか年季の入ったドアをおもむろに開けた。
バニーガールが目を輝かせて私を出迎えてくれた。
今世界では男にだけかかる、なよなよ病が流行っている。
なよなよ病は、新たに発見されたウイルスだ。
そのウイルスは女にはまったく害はない。男にだけピンポイントに影響を及ぼす。
そのウイルスにかかった男は脳をウイルスに支配され、なよなよしてしまうのだ。
今世界では男の90%がなよなよ病にかかっていて、治療のすべは今の所まったくない。
私はウイルスに支配されていない。
だから今、世界は慢性的な男不足の状態にある。
このままでは世界の人口は減少の一途を辿るだろう。
バニーガールは私を席に案内すると、メニュー表を差し出した。
メニューには男向けと書かれていた。
「男向け?」
私はバニーガールに聞いた。
「はい。男の方は無料ただになっています」
「無料(ただ?)」
「はい。なよなよ病にかかっていない男の方は貴重なので、ただなんです」
「そうなのか」
私は嬉しくなった。
私は注文を決め、店員に告げると店内を見渡した。
客席には女性の客が数名、そしてなよなよ病にかかった男が数名いた。
なよなよ病にかかる原因はまったくもって不明だ。空気感染でもなく、飛沫感染でもない。いつの間にかウイルスが人間の体内に発生しているのだ。
いつの間にかウイルスが突如として体に発生しているので、どこからかテレポートして飛んで来たのではないかということで、なよなよウイルスは別名、テレポートウイルスや魔女ウイルスと呼ばれている。
なよなよ病にかかっている男は体をくねくねとさせながら食事をしている。まるでオネエのような光景だ。いや、もしかしたら本当にオネエなのかもしれない可能性もあるが。
「ねえ、今晩空いてる?」
店員のバニーガールが私にウインクをしながら私に話しかけてきた。
「いや、今日は用事があるんでな。今日は連絡先だけを交換しよう」
それにしても男不足だとこんな濡れ手に粟状態なのか。
私はくっくと笑った。
食事を済ませ、店員と連絡先を交換すると私はその店を後にした。
このお店にはまた来よう。
私を男として見てくれるし、食事も無料だしな。まあ、体は女だが、心は男だから問題はないだろう。
私は今日出会ったばかりの女と待ち合わせた場所へとゆっくりとした足取りで向かって行った。
173、赤禿
何てことだ。山にまったく草木がなかった。赤禿だった。
一体何が起きたというのだろうか。
私は顎の下に右手を添え、まるで名探偵のように考え込んだ。
辺り一体の山々の全ての草木がなくなっていた。
このままでは山菜などの山の幸はおろか、木がなくなることによる、この星への悪影響も懸念される。
早く、原因を解明しなければ……。
野を越え、山を越え、谷を越え、川を越え、海を越え、私は原因究明の為にせっせと走った。
そしてようやく原因を発見することが出来た。
「おい、何やっているんだよ」
私は息子に話かけた。
「え? 何って雑草むしりだよ。お父ちゃん」
息子はどこか呆けた顔で頭に疑問のはてなを浮かべた様子で私に言った。
「山に生えている木々や山菜は雑草じゃないぞ」
「え? そうだったの。しらなかったよお父ちゃん」
ふーっ。私は大きくため息を吐いた。
そのため息で人間の民家が一軒吹き飛んだ。
やれやれ。まだまだ8歳の息子に色々と教えなくちゃならないことがあるようだな。我々巨人もこの星の頂点に君臨しているとはいえ、色々とたいへんだなぁ。
私は隠れていた自分のにきびほどの大きさの人間を発見すると、その人間を捕まえて口の中に放り込んだ。
「一匹ぐらいじゃ、腹のたしにもならないが、貴重な栄養だからな」
私は呟くと、息子の手を引き、自分の住処である谷へと帰って行った。
174、あからさま
女はあからさまな様子で不快そうに顔を歪めた。
私は今移動する電車の中で座り揺られている。
女はまるで腐った物でも見るかのような冷たい目で私のことを見ている。
なぜ私は女にこんな目で見られなければいけないのだろうか。私は少し戸惑いを感じた。
どちらかというと女に嫌われるタイプではなかったとは思う。
少なくとも会ったこともない女に、私を見た第一印象でここまで冷たい目で見られたことは過去に一度足りとてないと断言出来る。一体私に何が起きているのだろうか。
私は視線を他の客へと移した。
な、なんだ? 他の女の乗客の数名も私を睨みつけている。そ、そんな馬鹿な。まるで訳が分からないぜ。
私は自分の体のにおいをくんくんと嗅いだ。
特別良い匂いもしないが、別に臭いというわけではない。今までと変わらないだ。
乗客の女が私の元へと歩を進めてきた。
ヒールをカツカツとまるで威嚇するかのように鳴らしながら歩いてくる。
女は私を見下ろし、言った。
「ちょっと、ここ女性専用車両なんですけど!!!」
まるで赤ちゃんが大泣きするかのような喚き声だ。
女性専用車両だと? そんなのは知らないよ。
女は矢継ぎ早にまくし立てるように続けて喋った。私に喋る隙など与えないつもりだろう。
「何で男の人がこの車両に乗っているの?? 不快だわ。早く出て行けよ! 臭えんだよ」
なんていい草だ。
私は女に言い返そうとした。だが、やめておくことにした。私が仮に何かを言ったとしても女は聞く耳を持たず、たとえ聞いたとしても理解することは不可能だろう。
女は私が無言でいると、私の手を無理やり掴んだ。
「早く、あっちに行けよ」
女は座席に座っていた私を無理やり引き離した。
まったくなんて女だ。
私は隣の車両に移ろうにも移れないっていうのに。そんなことも分からないのか? この女は。
すると、別の女が私のことを座席から引き離した女に少し強い口調で言った。
「ねえ、猫に言ったって分からないと思うよ? 猫さん可哀想だよ」
「うるさい! 猫だろうが何だろうが男は男だろ? ここは女性専用車両なんだよ!」
「でも、猫は一人で扉を開けられないから、隣の車両に移ることは不可能だよ」
「そんなの知るかよ! じゃあお前があいつを隣の車両へと移せよ。不快なんだよ。男臭がよ!」
「男臭っていうより、獣臭じゃない?」
女が二人言い争っている時、ちょうど電車がプラットホームへと辿り着いた。
はあっー。やれやれ。
人間社会ってのも面倒なもんだぜ。
電車の扉が開くと、私はゆっくりと駅のホームへと足を一歩踏み出した。
175、上がり込む
「君、勝手に人の家に上がり込むとは何事か!」
僕は憤怒した。
『だ、だってとてもこのお家が気に入ったんだもの……』
相手が言った気がした。
「これは不法侵入だぞ」
『わ、分かっているわ』
相手が言った気がした。
「君ね。私は心が優しいから許してあげるけど、他の人だったらそうはいかないからな」
『え? ゆ、許してくれるの? 私を自由にしてくれるの……?』
相手がそう言っているように見えた。
「ああ、今回だけだからな……。これからは不法侵入なんてするなよ……」
『わ、分かったわ。ありがとう』
相手の瞳は涙で滲んでいるように感じた。
私はかかっていた罠から相手を自由にすると家の外へと放り出した。
『さ・よ・う・な・ら。このお礼はきっといつか……』
相手の目がそう言った気がした。
誰も友達がいない僕はゴキブリホイホイにかかっているゴキブリを相手に物語を作る遊びが僕の今現在の唯一の趣味だ。
176、あかん
「あかん」
つい関西弁が出てしまった。関西人でもないのに。
今俺の身に危機が迫っている。
今俺は猛烈の小便がしたいのだ。下品な話で申し訳ない。だけど、本当にもう我慢の限界まで来ている……。
ああ、視界が霞む。遠くには蜃気楼が見える。苦しみを和らげようと脳内麻薬が出ている気がする。
俺は首を左右に動かした。
視線、視線、視線。俺の周りどこを見ても視線が突き刺さる。
別に俺のことを見ているというわけではないのだろうが、こんなに視線がある場所で小便なんて出来るわけがない。
すると異変に気づいた男が俺に話しかけた。
「へいへいへい! どうしたんだい?」
黒人の男はどこかぎこちない日本語で俺に言った。
俺は首を振った。小便がしたいなどと言える訳がないだろう。
しかし、男は俺がもじもじしている様子に気づき、小便をしたいと気づいたようだ。
「もしかして、あなたおしっこがしたいのですか……?」
馬鹿野郎。こんな視線が集まる中でなんてことを言いやがるんだ。
自分の顔を見たわけではないが、俺は顔が憤怒で紅潮しているのを感じた。
「我慢しないでおしっこすればいいじゃないですか」
その一言で俺はぷつんと切れた。
「どこで、小便をすればいいっていうんだよ!」
すると黒人の男は少し驚いた表情をした後、両方の手の平を空へ向け、よく分からないといったような不思議そうな顔をした。
「どこでも出来るじゃないですか」
「ここでしろっていうのかよ」
「そうです。別に恥ずかしいことなどないじゃないですか」
「こんなに視線があるのにか!!」
「視線? Oh! でもただの動物じゃないですか」
「動物だからって嫌なものは嫌なんだよ!」
「しょうがないですね。じゃあ、少し移動しましょう!」
黒人の男はそう言うとジープを動かし、動物のいない草むらまで移動した。
「ここなら大丈夫ですか?」
「ああ」
俺はジープから降りると小便をした。
アフリカ旅行も楽じゃないぜ。
俺は用をたすと再びジープに乗り込み、アフリカの動物見学ツアーの続きを開始した。
177、飽きた
「飽きた」
秋田県在住の俺は『飽きた』と『秋田』をかけながら一人小さく呟いた。
毎日同じことの繰り返しの日常。俺の心の中の憎悪は日に日に増すばかりだ。
俺の行動範囲はなんて狭いのだろうか。人間というのは一生の内どれほどの行動範囲内で生きているのだろうか。
頻繁に転校や、転勤する人、仕事で全国を周る人や旅行が好きな人は別として人間の行動範囲なんて所詮知れたものかもしれない。
誰もが一日一日に追われ、囲まれ世界や宇宙から見れば狭い空間や、決められた時間の中で生きている。
とりわけ俺は、そんな中でも郡を抜いているだろう。
行動範囲は誰よりも狭いし、ほとんど誰にも相手にされず、まるで空気のように扱われているからだ。
俺は道端に落ちていた石ころを蹴飛ばそうとした。
しかし俺の足は石に当たることなく大きく空を切った。
目の前に知らない人間が姿を現した。
「こんな所で何をしているんだい?」
その男は見ず知らずの俺に優しい声音で話しかけた。話しかけられたのはずいぶんと久しぶりだ。
「誰だか知らないけど、別に関係ないだろう?」
俺は少し苛立ちを含めた声で男に返事を返した。
「そうは行かないよ。皆怖がっているからね。早くお帰りなさい」
男の目には慈愛の感情が浮かんでいる。
「そんな目で俺を見るんじゃない。俺はここから絶対に動かないからな!」
「そうですか」
男はため息を一つ吐き出すと、鞄から何かを取り出した。
「何をするつもりだ!」
「本当はこんなことしたくなかったんですけど。あなたが帰らないと言うのなら仕方がないです。ごめんなさい」
男は手にしたお札を俺に向け、険しい表情をしながら、激しい動きをし始めた。
「や、やめろ。やめるんだ! く、苦しい。助けてくれ。まだ消えたくないんだ!」
しかし男は俺の叫び声など聞こえないかのように動作を続けた。
そして最後に大きな声で俺に向かって言った。
「悪霊退散!!」
自縛霊の俺は煙となって天へと昇って行った。
178、空き家
子供の頃、私は空き家に入ったことがある。
空き家と言ってもそれは、貸し出している家ではなく、ただの廃墟だったのだが。
今となれば何ともないただの廃墟なのだが、子供の頃はそれがとてつもなく恐怖の対象として感じられた。
家の玄関の扉は腐敗からなのか完全に何もなく、誰でも自由に入れる状態だった。
玄関から入るのは何か怖い感じがしたので私は家の周りをぐるりと周って他に開いている場所がないか見て周ることにした。
廃墟のあった場所は森の中で、まだ日中だというのに薄暗く、じめじめとしていた。
私はその廃墟に一人で冒険でやってきていたのだが、その廃墟に来る途中に朽ち果てた木や、もう使われなくなってずいぶんと経ったであろう井戸があり、とても不安だったのを覚えている。
人間の気配のまったくしない森は完全に僕が普段住んでいる日常から隔離されている空間のようでまるで異次元に迷い込んだような感覚だった。
でも、もしかしたらこの森に殺人犯が隠れているかもしれない。とか、この森の中を通りかかった誰かを拉致する為に誰かが息を潜めて待っているかもしれない。とか、恐怖が頭の中でどんどんと大きくなっていた。
廃墟の周りをぐるりと周っているとどこもかしこも扉は窓は壊れていて、どこからでも簡単に家に入ることが出来ることが分かった。
一人で来たことを今更ながらに後悔する。
でも、この恐怖を乗り切れば何か自分の中のこれからの人生が変わるちょっとしたきっかけになるかもしれない。なんて子供心ながらに私は考えていた。
家はボロボロになった机や、虫に食われたり、雨風にさらされたりして腐って黒ずんでいる畳、砂まみれになっている床、壊れたトイレや、バスユニット、どこからか運ばれ、芽を出した何かの植物、鳥や小動物の骨、カビの生えた布団などがあった。
私はそれらを脳内にしっかりと焼き付けた。
この経験が僕の将来の役に立つかもしれない。
何の確証もなく私はその当時考えていた。
そして今。その考えは正しかったことが証明された。
私は今、お化け屋敷プロデューサーとして一躍有名になったからだ。
私は全国の様々なお化け屋敷をプロデュースしその業界で僕の名前を知らないものはいない。
子供の頃のあの経験が役に立ったのだ。
私はふと考えた。これから将来大人になる子供達に何か出来ることはないだろうかと。
そして一つの結論にたどり着いた。
私と同じ経験を子供にもさせてやりたいと思ったのだ。
私は、色々な場所に土地を買い、家を建てた。そしてその家々を壊し廃墟にしていった。
誰かが冒険心を呼び起こし、私の子供の頃のように廃墟に行くことを信じて。
179、諦めない
「諦めんなよ!」
あるスポーツ選手の言葉が脳裏をよぎった。
はあ、はあっ。
呼吸が荒れ、額から汗が滝のように大量に流れてくる。
だが、中々相手をとらえることが出来ない。
視界には入っているというのに。
しかし、最後まで諦めない気持ちが功を奏した。
とられた!
だが、ここからが本当の勝負だ!
相手を抜くのは簡単なことではない。
気を抜けば、あっというに切られてしまう。そうなったら再び相手をとらえ、抜くことは至難の業になってしまうだろう。
集中力を切らさずに、相手との駆け引きをかわす。
ゴールは間近だ!
ここが勝負所だと踏んだ私はラストスパートを仕掛け、一気に相手を抜いた。
「よっしゃー!!」
思わず心の中の叫び声が声となって出た。
そして見事に私は難しい所に生えていた無駄毛を抜くことに成功した。
180、呆れる
「呆っきれた! 全然小説書いていないじゃない!」
幼馴染の咲子が言った。
咲子は僕のクラスメイトだ。
僕と咲子は幼馴染でありながらライバルでもあった。
子供の頃から何度も同じクラスになったことがある咲子とは常に何事も競いあってきていて、高校生になった今でもその関係は変わらない。
どちらが先に給食を食べられるか、とかジャンケンでどちらが強いかとかそんなどうでもいい勝負からどちらが部活で良い成績を収められるかやいい高校に入れるかなどといったことまで今まで競い合ってきた。
結局僕達二人は同じ高校に通うことになったわけだが。
それでも、なんやかんやで毎朝一緒に登校し、下校する僕達は周りにはただの幼馴染には見えないのかもしれない。
今僕が彼女と競い合っているのはやっと見つけた趣味のことだった。
今まで何の趣味も持たなかった僕だったが、ようやく人生をかけて嵌れるものを見つけたのだ。
その趣味とは小説を書くことだった。
たまたま恥を忍んでインターネットに小説を投稿したら、反応が返ってきたのだ。
その小説はとても短い原稿用紙一枚分ぐらいの小説で、掌編と呼ばれている物だった。
だけど、誰か一人でもほんのちょっとでも楽しんでくれる人がいればいいなと思って書いた小説だったので僕は心の中から喜んだ。
僕が咲子に言うと、咲子は喜んだ。
咲子は何の趣味も持たない僕がようやく趣味を見つけたことに喜んだと思っていたのだがそうではなかった。
何と咲子も小説書いていたことが分かったのだ。
「何で今まで黙っていたんだよ。小説を書いているなんてこと……」
「私は次郎といつも競っていたかったのよ。でも小説は別。これは私の趣味だったから。私の趣味に無理やり次郎を引きずりこんで競うなんて出来るわけないわ。無理に競争したって面白くも何ともないしね。一緒に本気になってやれるものだからこそライバルになることが出来るのよ」
「そうか。そうだよな……」
僕は首肯した。
そして僕は今、咲子と勝負をしている。どちらが早くプロになれるかという勝負を……。
咲子が小説を書き始めて三年になるという。
僕はまだ書きはじめて数週間。
この差を埋めるのは容易なことではないだろう。
だけど僕は、プロになりたい。プロになって一人でも多くの人を喜ばせたい。
プロになるの血の滲むような修練が必要だろう。恥も多くかき、ボロクソにけなされ心を抉られても書き続けて行かなければならないだろう。
だけど、僕はやるんだ。そう決心した。
咲子も僕の決心に気づいたのか僕にこう言った。
「私も負けないわよ! 絶対にあんたより先にプロになってやるんだからね!」
僕と咲子は鋭い、でもどこか愛情のこもった視線を交わした。
僕の未来図には咲子と一緒にプロの舞台で切磋琢磨している映像が浮かんでいた。
「あんたまた小説書くのをさぼっているの?」
「うっ。さ、さぼっている訳じゃないんだ。ただ頭に何にも浮かばないだけなんだよ」
「そんなんじゃいつまで経っても小説家になんてなれないわよ! 私にも離される一方よ!」
「そんなこと言ったって何にも思い浮かばないんだからしょうがないだろう?」
「頭に何も浮かばなくても、何でもいいから手を動かしなさいよ! このままじゃプロはおろか短編すら書くことが出来ないわよ! 知恵を出せ! 知恵が出なけりゃ汗を出せ! よ!」
「それ誰の言葉の受け売り??」
「た、たまたま朝やっていた旅番組での一言よ。でもそんなの関係ないわ。あなたはもっと小説を書かなければ駄目よ!」
そうだな。確かに咲子の言う通りだ。
頭の中で考えていてもただ立ち止まっているのと変わらないのかもしれない。立ち止まり周りの景色を見ることも時には必要なのかもしれないけれど。
でも今の僕は立ち止まって周りの景色を見ている暇はないのかもしれない。
立ち止まっても夢には近づかない。
「進もう!」
僕は決意を新たに大地を一歩力強く踏み出した。
181、握
都会でショッピングをしようと出かけた僕は初めての駅に着くと、駅前ロータリーの人へと出た。
駅前ロータリーには人がよっかかれる程度の柵があり、僕はそこになんの気なしによっかかった。
やっぱり都会の駅はすごいなあ。
僕は感心して駅を頭をぐるりと180度見渡した。
まるで田舎から成功目指して、一握りのはした金をだけを持ち上京した売れないミュージシャンのように黄昏行く空を眺めふうっと大きく息をついた。
そしてふと今日僕はただショッピングに来ただけということを思い出し僕は妄想の世界から現実に返りった。
何やってんだろうな。
自分の妄想がおかしくて僕はふふっと笑った。
さあ、いくか。
柵に手をかけ、立ち上がろうと柵を握る。
ん?
何か変な感触がした。
僕は少し驚き、なんだろうと不思議に思い、視線を自分の手へと向けた。
僕の手の下には人間の手があった。手にはマニキュアが塗られていた。
「あっ」
僕は握っていた自分の手を咄嗟に離し、視線を上へと動かした。
女性がいた。
「す、すみません」
僕は女性に謝った。
「いいのよ」
女性はどこか儚げな声で言った。
女性の視線はどこを見るでもなくどこか遠くのほうをぼーっと眺めている。
あまりに女性が綺麗で、僕の好みにドストライクで僕は彼女に話しかけた。
「どちらから来たんですか?」
女性は答えない。
しかししばらく間があってから女性は言った。
「すぐ……近くよ」
「そうですか」
女性の声は相変わらずどこか儚げで小さな声だった。でも声は男性のように低かった。風邪でもひいているのだろうか。
「風邪でもひいているんですか?」
「私……? ええ……」
風邪をひいているのに僕の側に腰掛けるなんて……一体どういうつもりなんだろうか。まさか僕に風邪をうつすつもりなんだろうか。
僕は彼女の瞳を見つめた。
彼女の瞳は先ほどとまったく変わらず、とても澄んだ瞳で遠くを見つめている。
彼女に限ってそんなことをするつもりはないだろう。あんな綺麗な瞳をする人が嘘をつくなんて思えない。
「私……主人に飽きられたの……」
絞り出すような声で彼女は言った。
「捨てられた?」
「そう。だから私もう行く場所なんてどこにもないの……」
「ひどい主人ですね……」
「本当にひどいと思っていないでしょ!」
彼女は少し口調に怒気を含ませて言った。
「い、いや本当に思っていますよ」
僕は彼女の瞳を見つめながら言った。
「じゃあ、私を買ってよ!」
「か、買うって」
僕は売春をもちかけられて、焦った。まさかこんな展開になるなんて思ってもみなかったのだ。
「で、でも売春はちょっと……」
「売春?? 売春って何のことよ! 私にはちゃんと値段がついているのよ。私の首を見てみて」
僕は彼女の首の少し後ろを見た。そこには値段が付いていた。39800円と。
「ど、どういうこと……?」
「よく出来ているでしょう。私人形なの。今は少し離れている所から私の元主人がこの場所を望遠鏡で観察していて私の服に取り付けられたマイクを使ってあなたと会話をしているの」
「じゃ、じゃあ今僕が話しているのは君ではなくて君の元ご主人なの?」
「そうよ。ご主人様が私の心の声を聞いてあなたに話しかけているの」
「な、なんだあっ」
僕はどこかほっとしたと同時にどこかがっかりもした。
そしてどこか感じていた違和感もようやく納得が言った。
このどこか儚げな視線を遠くに向けた女性。低い声の訳。
僕はからかわれていたんだな。
僕はすくと立ち上がった。
「じゃあね。僕はこれから買い物に行かなくちゃいけないからね」
僕は人形の目をじっと見つめて言った。
心の一部分がどこかズキっと痛んだような気がした。
「……行かないで」
「え?」
「……行かないでって言っているの」
「ど、どうして?」
「私どうやらあなたに恋をしちゃったみたいなの……」
「そ、そんな……」
「あなたに一目ぼれしたの。どうか私を見捨てないで。私は元のご主人に捨てられてもう行く場所なんてないの!」
女性の張り裂けんばかりの叫び。
僕はもうこの人形を放っておくことなんて出来なかった。
「買い物に行くなんて言ってごめん。僕は君を見捨てることなんて出来ない!」
僕は人形の手をぎゅっと力強く握り締め人形の目を見つめ、誓いの言葉を口にした。
「じゃ、じゃあ……」
「ああ、君を買おう」
「う、嬉しい」
「君の値段は39800円だね」
「うんっ!」
「どこに金を払えばいいんだい」
「50メートルぐらい先に植え込みがあるのが分かる?」
「ああ」
「あそこの後ろに私のご主人がいるからそのご主人にお金を払ってくれればいいの」
「分かった」
今日僕は洋服を買いにここまで来ていた。彼女を買ったらもう洋服を買うお金はなくなる。だけど全然後悔なんてしていなかった。彼女と出会えたこと。彼女を救えることの方が僕にとっては重要だった。
こんな女性二度と会うことは出来ないんだから。
僕は植え込みまで行くとその後ろに隠れていたマイクと望遠鏡を持った男に金を渡した。
「あなたがあの人形の元ご主人ですね……」
こくり。
頭にハチマキを巻いて眼鏡をかけ、背中にバックを背負った少し小太りの男は言葉を一言も発することなく頷いた。
「今まであんなに彼女丁寧に扱って下さりありがとうございました。これからは僕が彼女を守ります」
僕は元主人の男に礼を言うと、振り返ることなく彼女の元へと向かった。
「さあ! 帰ろうか。僕の家へ!」
「うん!」
彼女は元気良い声で言った。
僕は彼女を抱きかかえると自分の家へと歩いて帰って行った。
自分の家に帰るだけの電車賃はまだ残っていたが、初めて出来た僕の彼女を誰かに見てもらい自慢したかったからだ。
「ありがとうございました」
彼女は僕にそう言った。
それ以降彼女は二度と話すことはなかった。
182、悪意
世の中には悪意というものが存在する。
特に理由もないのに悪意を持って人や動物を傷つけたりする。普段は温厚な人でも嫌なことがあったりすると豹変し、悪意が芽生えることがある。
だがそんな他人事に思っていた私にもついに悪意が芽生えてしまった。
ことの発端は私の家族だ。
私の愛する家族の内の一人が私に反抗し、私に暴力を振るったのだ。
まさか私に反抗するとは……原因は分からない。
だがついに反抗期が来たのか、と私は嘆いた。
しかし私の悲しみはいつしか憎しみに変わっていた。こんなにいつも可愛がってきていたのに。
いつも色々と教え、一緒に遊び、風呂に入っていたのに。なぜこんなことに……。
憎しみは悪意へと変わった。
どうすれば反抗期のあいつを苦しめることが出来るのだろうか。
心の中には黒い感情が渦巻いていた。
ふっふっふ。
私は思い付いた。
あいつは反抗期とは言ってもまだまだ私の力には到底及ばない。だからあいつがご飯を食べようとした瞬間あいつのご飯を取り上げよう。
「どうしたの? お父さん不気味に笑ったりして……」
私の娘が訝しい表情で私を見つめる。
娘には私のこの悪意を悟られたくなかった私は「なんでもないよ」と表面上は満面の笑みを浮かべながら言った。
「そうっ……」
たいした興味がなかったのか娘は私の言葉を聞くとすぐに別のことに興味を移したようだった。
そしてそれを実行する時がやってきた。
「今日はお父さんがポチに餌をあげるね!」
「え? お父さんが? 珍しい!」
妻と娘は一様に声を上げ言った。
「お父さんだってたまには餌ぐらいあげるさ……。家族だからね」
妻と娘に背を向けて言いながらも私の心の中は醜い笑いで一杯だった。
さあ、一家の大黒柱にたてついた罰だ……。
私はポチの餌を皿に入れるとポチに待てを合図した。
ポチは従順に私の指示を守っている。
くっくっく。今日はやけに従順じゃないか。だが、今日だけ良い子のふりをしても無駄だぞ。私に付けた噛み傷はまだまだ癒えていないんだからな。
私はポチにご飯を食べてもいい、という合図を出した。
ポチは尻尾を振りながらお皿へと近づく。
しかしポチがお皿に口をつけようとした瞬間、私はサラを一気にポチから奪った。
くっくっく。悔しかろう。哀しかろう。
そして私は再びポチに待てを指示した。
ポチは、クゥ~ンと鳴きながらどこか哀しげな表情で私のことを見つめている。
そんな目をしてもだめだ。許さないからな。
私はちょうどガラスに映った自分の顔を見つめた。
濁った瞳の醜悪な顔つきをした男がそこに映っていた。
くっくっく。ポチ。お前を苦しめる為なら、私は悪魔にでもなろう。
私は心の中で声高らかに笑った。
私はその後、ポチに何度も先ほどの行為を行った。
しかし、悪はやはり滅ぶ時が来るようだ。
私が何度も何度もポチの餌を上げず、待て! を繰り返していたのを見ていた私の娘が異変に気づいたのだ。
「お、お父さん、な、何やっているの?」
「な、何って、一体何のことだね?」
私はまるで何事もなかったかのように平静さを装った口調で娘に言った。
「お父さん。ポチのこといじめているでしょう!」
「な、何を言っているんだい。我が愛しき娘よ。パパがそんなことをするはずがないだろう。パパの心はまるで海のように広く深いんだぞ」
しかし、娘には私のごまかしは通用しなかった。
娘は険しい表情をすると、大きな声で台所で洗物をしていた我が妻に叫んだ。
「お父さんが……お父さんがポチをいじめる~~!」
どうやらごまかしきれないと悟った私は妻と娘にいい訳をした。
「ポチが一家の大黒柱である私のことを噛んだからその罰を私は下したのだ。私は悪くはない。なあ、そうだろう? 妻よ。娘よ」
だが、私の弁解は妻と娘の怒りを更に買うだけだった。
「家族のポチに、なんてことするのよ。パパが噛まれたのだってパパが普段からポチにいたずらしているからなんじゃないの!」
「私はポチにいたずらなどしたことは一度たりともない!」
私は断言した。
「嘘っ。お父さんはよくポチの顔に眉毛を書いたり、ポチにビキニを着せたりしているじゃない」
「なっ? あ、あれはだな。そのもごもご」
私は咄嗟に言葉が出てこなかった。
確かにポチにはいつも眉毛を書いて散歩をさせたり、ビキニやフンドシをはかせたりしてはいたが。まさかポチはそれを嫌がっていたのか? 私が悪いとでもいうのだろうか。いや、私は悪くない。
そう思った私は、妻と娘に向かって言い切った。
「私は何も悪くない。ポチも眉毛を書かれたりビキニやフンドシを履いたりして嬉しかったはずだ」
その後、私は誓約書を書かされた。
ポチに二度と眉毛や変な洋服を着せないことを。
更に私は今、ご飯を食べるまでに3度の待てを妻から受けている。なんていう失態だ。
だが、私は受け入れるしかなかった。
なぜなら、妻と娘を愛しているからだ。
妻と娘に嫌われ、離婚でもしたら私は生きてはいけないだろう。
妻と娘は私の人生の生きがいなのだから。
ふと手になにやらくすぐったい感触を感じた。
視線を手に移す。
ポチが私の手をペロペロと舐めていた。
「ポチ。お前……」
私はポチを力一杯抱きしめた。
「ポチ。すまなかった。ポチ。これからはもっとお前のことを思って行動するよ」
ポチはくう~んと小さく鳴いた。
それから私はポチに変な格好をさせることをやめた。眉毛も書くことを止めた。
ポチには高級素材の洋服を着せ、トリーミングも週一で通うことにした。
ポチの毛並みは今や、サラッサラの艶っ艶だ。
「何か、まだ間違っている気がするけどね」
娘が私に微笑みながら言ったが、その笑みはまるで花が開いた瞬間のような美しい笑みだった。
183、悪因
僕は人間にもてたことがない。それは誇張して言っている訳でもなんでもない。
本当にただの一度としてもてたことがないのだ。しかも二つの意味でだ。
その原因、悪因は何なのだろうか。僕は自分で探ってみる事にした。
僕は今まで色んな人の命令を聞き、その命令に逆らったことはない。従順だ。だからそれがもてない原因ではないだろう。
いや待てよ。逆に何でも命令に従っているからこそ、格好悪く思われていてもてないのだろうか。
次に僕は自分の臭いを嗅いだ。
とても臭かった。
この間体を洗ったのはいつだっただろうか。もうほとんど記憶がない。これが原因かもしれないな。もっといつも清潔にしていればもてるのだろうか。
僕の体重も特別重いというわけではなく、むしろ軽い部類に入る。
僕は人々が、笑い、泣き、感動して過ごしたであろう青春時代をしらない。
僕には青春時代がなかったのだ。常に誰かからせかされ、追い詰められ生きてきた。僕は人々皆のようにゆっくりとは過ごしていない。生まれた時から、ずっと喜びも、楽しみも知らず、走り続けてきたのだ。
でも僕だってもてたい。人間に愛されたい。
僕はもう誰にも愛されずに生きるのは嫌なんだ。
「なあ、どうしたんだ? そんなに哀しそうな顔をして……」
僕の同僚が僕に話しかけた。
僕は同僚に今まで感じていた悩みや不満をぶちまけることにした。
「何で、僕はもてないんだろうなって思ってさ……」
「もてない? どっちの意味でだ?」
「両方の意味でさ。愛されない意味での、もてないと持ち上げることが出来ない意味での持てないさ……」
「愛されないっていうのは可哀想だけど、持てないのは当たり前だろう?」
「何でさ。何で……」
「だって俺達トラックだもん。俺達の体を人間が持ち上げられることが出来るわけないだろう」
「そ、そうなの? 人間はトラックを持ち上げることが出来ないの?」
「そんなの知らなかったのかよ」
「で、でも。僕は今まで生まれてきてからずっと走り続けてきたんだよ。誰にも愛されることなく」
「走り続けてきたのは俺も一緒だよ。でも誰からも愛されないというのはつらいよなあ」
「うん」
僕達が会話をしていると僕の目の前に女性が現れた。
「じゃあ、真智子さん。明日からこのトラックに乗って運送してもらいますね」
「はい!」
「どうですか? このトラックは……」
「ええ、このトラックは、トラックの中で小さい部類ですし、運転しやすそうです。でもそれよりもこのトラック自体、私気に入りました。泥だらけで、しかもボロボロで傷だらけ。何か今までずっと走り続けてきた証みたいなのが車体に刻まれていて格好良いです。いいパートナーになれそうです」
それを聞いていた僕の同僚が僕に言った。
「だってよ……。良かったな」
「う、うん」
真智子さんは愛しそうに僕のボディーを優しく撫でている。
どうやら僕にも初めての春がやってきた。
彼女がエンジンをかけると僕は力一杯エンジン音を響かせた。
184、悪影響
私は自分が周りに及ぼす悪影響について考えていた。
最近はそればかり考えてしまい、何も手につかない。何もする気が起きないのだ。仕事はもうやめてしばらく経っていた。
私はいつも歩く時は早歩きだ。
もしかしてこの行為は私のことを見た人の心が急かされ、ゆっくりとした時間を過ごしたい人に悪影響を与えているのかもしれない。
私はよく知らず知らずのうちに頭の中で自分の好きな音楽を再生し、頭を左右に揺さぶってリズムをとっている。
この行為は、もしかしてダンサーが見たら、素人のバラバラなリズムによってリズム感を失い、ダンスが下手糞になるかもしれない。
私はよく髪の毛が抜ける。人間は一日に髪の毛が100本ぐらい抜けると聞いたことがある。
もしかしたら、私が外出中、髪の毛が抜けて、風に吹かれて飛ばされて、たまたま窓を開けていた家に入り込むかもしれない。
その髪の毛が、たまたま彼女の目に触れるかもしれない。
そしたら、「ちょっとこの長い黒い髪の毛、一体誰の髪の毛よ!」なんて修羅場が訪れるかもしれない。ちなみに私は女性だ。自己紹介が遅れたが。
考えれば考えるほど、私は自分が周囲に悪影響を与えているのではないかという考えから抜け出せなくなった。
やはり私は何か色々とするべきではないのだ。
どんな悪影響を及ぼすか分からないならしない方がましだ。
ドンドン!
私の部屋をノックする音が聞こえた。
「何だ?」
「あんたいつまでほぼ一日家にいて、何もしないつもりなんだい?」
母親が言った。
「私が外に出て何かをすると周りに悪影響が及ぶかもしれないんだ。だから怖くて外に出ることなんでもう出来なくなってしまったんだ」
「あんたが何もしないで家にいると私はイライラして嫌になるよ。悪影響だよ」
「な、なんだと?」
「あんたが家にいるだけで、電気、水道、ガス、食費はかかるしね」
「た、確かに言われてみれば……」
どうやら私は仕事をやめたことにより、色々と考えすぎてマイナス思考になっていたようだ。
目が覚めた私は部屋を出ると、就活を開始した。
185、悪縁
縁というのは不思議なものだ。良い結果をもたらす良縁もあれば悪い結果をもたらす悪縁もある。
「おーっす」
俺の肩を叩き声をかけてきたのは同級生で、同じクラスの大林 太だった。彼はいつものように底抜けに明るい笑みを見せながら俺に挨拶をした。
大林と出会ったのは去年の中学3年生の夏の時だ。
大林の親の仕事の関係で、太はこの地域に越してきた。
そして今、俺は大林と同じ高校に通い、偶然にも同じクラスになったというわけだ。
親は大層な金持ちだそうだ。まあ彼の体型をみればよくわかるが。
太は名前と一致していてぽっちゃりと太っている。別に彼を馬鹿にしているわけではない。ただ事実を言っているだけだ。
だけど、彼の天真爛漫な性格や、無邪気で人懐っこく、屈託ない笑顔は人を惹きつける。彼は人付き合いもよく、自然と人が彼の周りには集まる。彼の体型なんて気にする人はだれもいない。いやむしろ彼はあのぽっちゃりとした体型だからこその彼なのだ。そう思わせる何かかが彼にはあった。
しかし、私にとって彼は悪縁かもしれない。
ただ、忠告しておきたいのだが、別に私は彼が嫌いというわけではない。
ではなぜ悪縁だと思うというとその答えは今まさに行われようとしていた。
私はどちらかと言えば消極的であまり物事を断ることが出来ない性格だ。反して大林は積極的で人懐っこく人に何かをやってあげるのが好きな奉仕精神が旺盛な男だ。
彼が私に話しかけてきた。
「また持って来たぞ! 島崎」
「いや、今日は遠慮しておく」
「えー。遠慮なんてすんなって」
大林は言うと、俺の机の上に大量のお菓子を無造作にドサっと置いた。
机に置かれた見たこともない、一目で高級な物と分かるお菓子の数々。
俺の心が誘惑によって揺れる。
「で、でもこれ以上食べたらどんどん太ってしまうよ。もう俺は今月だけで5kgも太ったんだから」
「大丈夫だって、まだまだ全然太ってないじゃん。むしろまだ痩せている部類だよ?」
「そ、そう?」
「うん。だから体重なんて気にしないで、一杯食べちゃいなよ。YOU!」
「そ、そうだな」
大林の発するひだまりのような、ぽかぽかとどこか癒されるようなおおらかな雰囲気と彼の人当たりのよい口調に気づけばいつものように知らず知らずのうちに俺はお菓子を口に放り込んでいた。
「どうだ? そのお菓子美味しいかい?」
「うん」
俺はそのとろけるような口触りに感激した。
幸せ気分で俺は家へと帰った俺は家へ着くと、はっと気づいたように体重計を乗った。
あ、あああ。体重がまた増えている。
やはり俺にとって大林は悪縁なのか。
でも、大林は俺に色々とよくしてくれている。
大林がいなければ、俺は消極的で誰とも話さずにここまで高校生活が楽しいと感じることはなかったかもしれない。
思えば俺はいつも大林のことを悪縁かもしれないと決め付けていた。だけどそれは違うんじゃないんだろうか。
大林のことを悪縁と決め付けないで、自分で何か行動を起さなきゃだめじゃないか。
消極的な性格や体重が気になるなら自分で行動して悪縁を変えればいいじゃないか。
実際にどうしようもない悪縁というのは世の中には存在すると思う。でも、俺の場合は自分の努力しだいで悪縁を良縁に変えられるものなんじゃないんだろうか。
「そうだ。悪縁を良縁に変えていこう!」
ようし。
俺は自分を変える行動を起すべく玄関を開け、冬の気配が忍び寄る秋の乾いた夜空の空気の元、どこに向かうでもなく走り出した。
186、握手
握手は相手との友好を深める為に有効な手段だ。
その他にも格闘技の試合前などで握手は交わされる。私も格闘技の試合前に数えきれないほどの握手を交わしてきた。
実は私は、格闘技で世界一と言われる地位まで上り詰めた男だ。
空手、柔道、ボクシング、ムエタイ、柔術、少林寺拳法、合気道、全ての大会で世界NO1の称号を獲得した。全てを極め、もうやることがなくなった私は若年二十歳にして引退した。
今では私の体から気と呼ばれるエネルギーを体外に発することもできるようになっていた。
まだ、その力は誰にも見せた事はないが、それを使いこなすことが出来れば大木などをパンチで粉砕することも出来るようになるだろう。
今は、ファイトマネーやCMやテレビ出演などで獲得したお金で悠々自適に暮らしている。お金は一日一億円使っても、一生涯暮らすことが出来るだけの金を持っている。現在は軽井沢の別荘で、買いだめした絵本をバルコニーでコーヒーを飲み、サンドイッチをつまみながら読んでいる最中だ。
今読んでいる絵本の内容は森に住む熊さんを始め、象さん、キリンさん、虎さん、が困っていた少女を親切に救ってあげるという話だった。
その絵本では少女が動物さんに助けられるたびに動物さんと握手を交わしてお礼を言っていた。
私はその絵本を読み終わった後、非常に感銘を受けた。
ああ、なんて優しい世界なんだ。
そして私は無性に世界中の動物さんと握手がしてみたくなった。
幸いにして私は格闘技に長けているし、まだ年齢も若いしお金もある。
これからの余生をどう過ごすか、色々と探していた私は、これだ! と思った。
思い立ったが吉、私は早速世界中の動物さんと握手を交わすための旅に出ることにした。
そして私は犬猫兎鼠亀駝鳥ライオン虎カバペリカン駝鳥狸狐オカピアルパカ狼馬牛猪豚エミューカモノハシアルマジロカメレオントカゲミーアキャットゴリララッパパンツキリンパンダとかと握手をした。
「いやあ何て充実した人生なんだ」
次は水中の動物達と握手を交わしに行こう。私が獲得した気を使えば水中でも30時間は呼吸しなくても生きていけるし、深海4000メートルでも耐えられるだろう。実に楽しみだ。そしてそれらをまた達成することが出来たら今度はもしかしたら地球の奥地や、地底などで生きているかもしれない恐竜さん達を探しにいこう。そして見つけたら握手をしよう。
そしてそしてそれを更に達成したら……。今度は宇宙に行こう。
宇宙に行って地球外生命体と握手をするんだ。
数十年後、地球の陸上生物、海中生物、恐竜と握手を交わしたある地球の格闘家は気を使って宇宙へと旅立った。
格闘家は宇宙空間を気をコントロールし自分自身の体を頭の一部を残して冷凍保存状態にして宇宙を突き進んだ。生命がいる惑星を見逃さない為に完全に眠らずほんの僅かな知覚部分を残して。
数千年後、格闘家はある惑星を見つけた。
生命溢れる青々とした惑星だった。
その惑星はとても巨大でその大きさは地球の100万分以上の広さがあった。
格闘家は目をカッ! と見開き覚醒をした。
「よっしゃー! ついに見つけたぞ。生命溢れる素晴らしい星を。この星に降り立って、色んな動物と握手を交わすんじゃー!」
格闘家は意気込んで言った。
だけどその星の住人が異変に気づいた。
「う、宇宙人の侵略だーー!!」と。
その星の住人は格闘家に向けて核兵器を数万発乱射した。
格闘家は気を使ってその核兵器を防いだ。
しかし流石の格闘家もその攻撃に多少のダメージを受けた。
「はあっ。もしかして俺侵略者と間違われたのかな……。でもそう思われてもしょうがないかもな」
格闘家はがっくりとうなだれた。
「残念だけど、この惑星はまた後回しにするか……」
ダメージは軽症とはいえ、ダメージの完全回復にはまだしばらくかかるし、再びこの星の住人に攻撃を食らいたくなかった格闘家はおしみながらもこの惑星を後にした。
「今度こそ、色んな動物と握手が出来る生命溢れる惑星に降り立てればいいな」
格闘はそう言うと再び自身の体を冷凍保存状態にし、宇宙をゆっくりと進行し始めた。
187、悪馬
私は40代で二人の子供を育てている二児の主婦です。
近頃私は気になることができたのです。
それは……。
「はあっ」
私は自分のお腹の肉を人差し指と親指でぎゅーっと摘んだ。
そうです。この贅肉です。この不必要なお肉をどうにかしないと……。
だって、今度二人の子供の運動会があるんですから。
このままでは恥ずかしくて、運動会になんていけないわ。
私はクローゼットから昔のジーパンを取り出した。このジーパンは私が10代の時に履いていた物で愛着がある物でもあった。
私は今履いているジャージのズボンを脱ぐと片足を上げジーパンの足の部分に入れた。もう片方にも足を突っ込むとジーパンを一気に引き上げた。
……。
「ちょ、ちょっと!」
誰もいないリビングに私の声がむなしく響き渡った。
ジーパンは太ももの辺りで渋滞をおこし、それ以上進むことが出来なくなっていた。
「あ、あああ」
失望の入り混じった、ため息交じりの声を私は吐き出した。
このままじゃ……。まずいわ。
そう思った私は一大決心をし、ダイエットすることにした。
夫は今、単身赴任中でこの家にはいない。でも、運動会の日には帰ってくる。
「帰ってくる夫の為にも頑張らなくちゃ!」
何をしようかしら……。
ダイエット情報をインターネットやら、書店やらで私は事細かに調べた。
そして私はようやく自分に合ったダイエットを探し出すことが出来た。
「乗馬よ!」
乗馬なら、自然を感じることも出来て、動物にも触れ合うことが出来、心も癒されるわ。
だけど、それは中々困難を極めたわ。
私が住んでいる場所は田舎だけあって乗馬する場所は数多くあったんだけれど、なにかピンとくる馬がいなかったのよね。
どの馬も飼いならされていてどこか平和ボケしているというのかしら……。私が乗りたかった馬は今の主人のように荒々しく、ワイルドな馬に乗りたかったのよ。
ちなみに私の主人は、プロレスラーです。
私は、朝、朝食を作り、子供を起しご飯を食べさせ、学校に送るとすぐに自分に合った馬を探すべく出かけたわ。何? 仕事? 仕事はしていないのかって? 今はしていないわ。どうやって暮らしているのかって? それは夫から送られてくるお金と、私の印税で食べているわ。そうよいい忘れたけれど、私は一度だけ本を出したことがあるわ。それが大ヒットして100万部近く売れたから、しばらくは働かなくても暮らしていけるの。何? 何の本が売れたのかって? そんなことまで聞くつもりなの? 下衆ね。あなたはまことの下衆野郎ね。しょうがないわね。あなただけに教えてあげるわね。私が書いて大ヒットした小説は官能小説よ。タイトルはいたってシンプル『豚野郎の品格』よ。
私が毎日苦労して、色々と探しただけあったわ。ようやく見つかったの。自分に合った馬をね。とてもワイルドで激しくてよくなくわ。大自然の中で馬と一緒に走る景色は感動の一言で、お金じゃ買うことなんて出来ないわ。
でも、子供には内緒ね。もちろん旦那にもね。
こっそりとひっそりと努力をするわ。そうまるで水面下では必死に足をかいていながら水面では水を優雅に漂う白鳥のようにね。
さあ、今日も走るわよ! 大自然の中を風を感じながら! 準備はいいかしら?
「Are You Ready?」
私は馬に向かって声をかけ、馬のお尻を叩いたわ。
「はい。奥様……。ヒヒーン!」
そして今日も私は歓楽街のお店で知り合った男とこの野外散歩コースを楽しんでいるわ。
これも子供と旦那とそして私の為だものね。
188、欠伸
「ふぁ~あ」
午前最後の授業である体育が終わり、青田は大きな欠伸をした。
ちょうどその時、小さなてんとう虫が空を飛んでいた。
そのてんとう虫は寄生虫によって支配されていた。
寄生虫はまだ人類が誰も発見したことのない寄生虫であった。
寄生されたてんとう虫は偶然なのか、故意なのか青田の開いた口へと吸い込まれていった。
「ん? 何か口の中に入ったかな??」
青田は眠そうな目を擦りながら、ゆったりとした口調で呟いた。
てんとう虫は胃へと辿り着くと、溶かされた。
そして寄生虫が露になった。
寄生虫はとても屈強であったので胃酸程度では死ぬことはなかった。
『ほほう。ここが人間の胃の中か』
寄生虫は高度な意識と知性を持っていた。
寄生虫は青田に気づかれぬように胃の中で徐々に成長していき、青田の体を少しずつ支配していった。
僅か数ヶ月で寄生虫は青田を乗っ取った。
しかし青田はまったくそのことに気づいていなかった。
寄生虫は人間への強い関心を持っていた。
なので支配しようと思えば出来たのだが、完全に支配することはしなかった。
仮に支配したとして、異変に気づいた者が出たら厄介だったからだ。
だから寄生虫は人間が寝静まる深夜のみ、青田の意識を乗っ取ることにした。
寄生虫は深夜12時から朝の5時までの間だけ青田の意識を乗っ取った。
『これで、誰にもばれることはないだろう』
寄生虫はほくそ笑んだ。
深夜に仕事を終え、青田の家の前を通り、自分の家へと帰る人が青田の部屋を見て呟いた。
「最近あの部屋いつも深夜電気付いているな。部屋からはアニメの音や女のあえぎ声が聞こえるし。まったく近頃の若い奴は……」
青田は愕然とした。
朝起きると、テレビの前に身に覚えのない、萌えアニメや大人向けのDVDやBDが乱雑に置かれていたからだ。それらはレンタルされた物だった。
青田は自分の財布を見る。自分の小遣いがすっからかんになっていた。身に覚えのない出費に青田は頭を抱え言った。
「まさか俺が深夜無意識にレンタルしたとでもいうのだろうか……」
寄生虫がレンタルをし、青田が返却をする。
こうして青田と寄生虫との奇妙な関係が始まったのだった。
189、悪霊
悪霊が住み着くという館へとやって来た。
人間というのは不思議なものでなぜだが、刺激を求めたがる。だから悪霊が住み着いていると聞いても、この場所に来るものは後を絶たない。もちろん私もその中の一人だ。
私はこの場所へある女と来ていた。
彼女もまた刺激を求める、同志である。
私がこの場所へ行くと言ったら、彼女は「私も行く!」と言って来た。
「どうなっても知らないからな」
私は強く言ったが彼女の意志は揺るがなかった。
ライトを手にし、真っ暗な館へと侵入する。
カビや何かが腐敗したような臭いが鼻をつく。
背中がぞくぞくとする。これだ。私が求めていたのはこの感覚だ。
しばらく歩いていると、何かの悲鳴やうめき声のようなものが聞こえてきた。
冷や汗が額から顎へと流れ、ぽたりと地面へと落ちた。
さらに先に進むと、ぼんやりとした光が見えた。
「きゃ、きゃあ!」
彼女はそう言うと私の後ろへと隠れた。
だから言ったんだ。足手まといになるからこんな場所にくるんじゃないと。
ぼんやりとした光はしだいにはっきりとした輪郭を形成していった。
「ほうっ。亡霊か」
だが、今までに何度も遭遇したことがあった私はこの亡霊には悪意はないと分かっていた。
「行こう!」
彼女を促す。
館を進んでいくと更に、アンデットや、追いかけて来る首、浮遊する手などが現れた。
いつの間にか私と彼女ははぐれないように手を握っていた。
館を出ると私達は安堵のため息を吐き出した。
こうしてお化け屋敷での私と彼女の初デートは無事終わりを告げた。
190、揚げ物
僕は日本で生まれたことをとても誇りに思っている。
天ぷら。寿司。すき焼き。日本の食べ物は最高だ。
中でも僕が一番好きなのは天ぷらだ。一言では言い表せないが材料を揚げている時の音も素晴らしいし、漂ってくる香りも素晴らしい。もちろん一番素晴らしいのは食べた時のサクッとした歯ごたえと香ばしい香りと味だ。作り立てが一番美味しいのは言うまでもない。
僕が初めて天ぷらを食べたのは2歳の時だ。今でもその時のことを鮮明に覚えている。
まだ歩くことすらおぼつかなかった僕だったが、その記憶は僕の脳裏に焼きついたまま離れない。
「ば、馬鹿な。こんな旨い食べ物があるなんて……」
あまりの美味しさに僕は放心状態に陥った。
両親は僕のその固まった姿を見て、喉に食べ物を詰まらせて気絶でもしたのかと大騒ぎしていた。
そこまで強烈に印象に残っている日だった。
僕は今、高校生だ。
幼児期の記憶の9割が、天ぷらや揚げ物と関連している。
残りの一割の記憶は学校行事や、旅行、勉強などだ。
将来の夢は天ぷらやになることだ。
青春時代は風のようにあっという間に過ぎました。
気づけば俺は20歳。
天ぷら屋を経営しています。
経営している場所はギロッポンです。はい。六本木です。
借金して始めたお店だけど、順調ですねー。
毒草的な……、失礼。独創的な料理が奇跡的にヒットしたちまち俺の店は大ヒット。予約御礼で行列5時間待ちは当たり前。
で、最初は俺も皆に美味しい天ぷらを食べてもらいたいから頑張ったんですよ。寝る間を惜しんで天ぷらを作って提供して……。でもね、流石に一日2時間睡眠とかだと嫌気が差してきたわけですよ。で、俺は思った訳ですよ。何やってんだろうな俺ってね。人にばっかり幸せを揚げていて、失礼上げていて自分の幸せは? ってね。大ヒットって言っても俺は良心的な値段で天ぷらを提供していたから、結局の所、儲けはほとんどなかった訳ですよ。で、俺はついに倒れてしまったわけです。天ぷらを揚げている最中に。そして入院しましたよ。一週間ばかりね。でもね。一週間入院しても誰も見舞いに来ないわけですよ。今まで毎日のように俺の店に通っていた常連さんですら俺の見舞いに来ないわけですよ。「はあっ~」ため息は白くなってすぐに消えてしまったですよ。そうです。季節は冬の時でしたよ。そして決心したわけですよ。これからは人の為だけじゃなく、もっと自分にも幸せをあげようと。
退院するとすぐに俺はメニューの値段を吊り上げましたよ。ええ。100倍ほど。客は離れて行きましたよ。でもそれでよかったんですよ。俺はこれからは超高級天ぷらやを経営するって決めたんですから。
俺の作る天ぷらは世界中の誰にも真似することは出来ないんですよ。だからいくら値段を吊り上げたって大丈夫なんですよ。最高の天ぷらを食べたい富裕層なんて世界中に腐るほどいるでしょうからね。俺の作る天ぷらには価値があるんですよ。人間国宝並みの。使う食材はもちろん入院する前の食材よりも更に超高級食材を使うようにしましたよ。世界各国から取り寄せて。案の定値段を上げても自然とお金を持っている客が集まるようになってきましたよ。そうです。それが俺の狙いなんですよ。働く時間は昔よりも短くして、お金をたくさん貰う。貰った金で俺は自分自身にご褒美を与える。
ええ。今では田園調布に天ぷら御殿を建てることが出来ましたよ。
俺の天ぷらを食べに来るのは総理大臣とか海外の有名アーティストとかばかりになりましたねー。(自慢)
でも時が過ぎるのは早いですね。そうです。私はもう90歳でございます。
はいはい。そうですよ。まだぼけてはいないですが、もう余命あとわずかだというのは自分でも何となく自覚しています。でもね死ぬのは怖くないんですよ。なんだかんだ言って私は自分の好きなことをして生きてこれた人間なのですから。
「まだ2歳の時に初めて食べた天ぷらを思い出すなー」
私はついつい暮れなずむ夕日を見つめながら呟いていたのでございます。
「どうしましたか?」
介護師の由香子さんが私に声をかけてくれました。
「いえ、天ぷらのことを考えていたのでございます」
「ふふふっ。天野プロランさんったら……」
そうです。私の名前は天野プロランです。
「あら、今気づきましたけど天野さんの名前に天ぷらが入っていますね」
由香子さんが屈託のない笑顔で私に言いました。
へっ? 私の名前に天ぷらが入っているって? そ、そんな馬鹿な……。
しばし思考……。しばし思考……。
「ほ、本当だー!!!!!」
私は自分が90歳だということも忘れて、まるで童子のように大声で叫んでしまいました。
それほどまでに衝撃の事実だったのです。まさか私の名前に天ぷらが入っていたなんて。
何て運命。何て奇跡。生まれたことにマジ感謝。
いつの間にか私の体はラップのリズムを刻んでいたのでございます。
その時です。私の心臓が早くなるのを感じました。
年甲斐もなくはしゃいだからでしょうか。それともただ単に寿命が来ただけなのかそれは私には分かりません。もちろん由香子さんにだって分かるはずがございません。
「ど、どうしたのですか?」
私の異変に気づいた由香子さんが私に声をかけてくれました。私はもう汗が吹き出して。瞳孔も開いてきているのが自分でも分かりました。心臓はまるで暴れ馬のように激しく動いています。
「由香子さん。どうやら私の死期が来たようです。最後に私のお願いを聞いてもらってもよろしいですか?」
「お、お願い? そ、それより先生を今呼んできますね」
しかし私は先生を呼びに行こうとする由香子さんの腕を掴みました。と思ったらお尻を掴んでしましました。わざとではありませんよ……。もう一度いいますがわざとではありませんよ。
でもそんな些細なことはどうでもいいではありませんかどうせ、私はあと44分で死ぬのですから。
なぜあと44分で死ぬのが分かるのかって? それは私の目の前にいる死神に聞いたからですよ。至極単純な話です。ねっ。死神さん。
「どうも死神です!」
巨大な鎌を持ったフードを被った人間でいう15歳ぐらいの男の顔をした死神が言いました。
しかし、死神の声は私以外には聞こえないようです。
「あと43分っすー」
あらあら残りの寿命がどんどん縮んでいってますね。これは早くしないと……。
由香子さんはどうしていいのか分からないといったあたふたと取り乱した様子で私のことを見つめています。
「由香子さん。総理大臣を呼んで下さい」
由香子さんは私が総理大臣と繋がっているということは知っていました。なので迅速な対応で由香子さんは私のスマホを操作し、総理大臣を呼び出しました。
「はい。総理です」
「天野プロランさんが後少しで死にます。至急来てください。この病院は」
「な、何ですと? 天野プロランさんが? 大丈夫です。天野プロランさんの体内にはGPSが取り付けられていますから位置は把握しています」
「そうですか」と由香子さん。
「はい。なんたって人間国宝ですからね」
「そうですね」
由香子さんは何か違和感を感じながらも相槌を打ちました。
「そういえば、天野さん人間国宝だったんですね」
「そうそう」
私は30歳の時に人間国宝に指定されました。
死神が鎌に体を預けるようにしながら腕にはめている腕時計を眺め「あと残り40分ですねー」と言いました。
その時、ガチャーンという大きな音がして窓ガラスがぶち破られました。
「天野ちゃん!」
現総理大臣が駆けつけてくれたのです。
寝起きなのか目の下にはくまが、頭には寝癖が、上半身は裸で、ズボンのチャックは全開でした。よっぽど急いで駆けつけてきてくれたのでしょう。
「安ちゃん」
私は両手を大きく広げました。
安ちゃんは私の胸に飛び込んできました。
「ねえ、安ちゃん」
「何だい? 天野ちゃん」
安ちゃんの目には涙がうるうると溜まっていて今にも零れ落ちてしまいそうでした。
「私の最後の願いを聞いてくれないか?」
「いいよ。いいよ。何でも聞いちゃう!」
「私の人生ってさ。てんぷら一筋だったじゃん?」
「そうだね。そうだねっ」
「だから最後もてんぷらで死にたいんだよ」
「どういうことっ??」
「私が死んだらさ。私を天ぷらにしてさ、私を母なる海へと帰して欲しいんだよ」
「え? 天野ちゃんが死んだら天野ちゃんを天ぷらにして、海に捨てるっていうこと??」
「そうそう。いい?」
「いいよー」
「法律とかは大丈夫かな?」
「大丈夫大丈夫。特例で処理するから」
「そうかそうか。それなら安心だ」
楽しいことは時間が過ぎるのが早いと言うよね。本当にその通りだ。
「あと一分~~」
死神がかったるそうな声で言った。
「じゃあ俺あと一分で死ぬからさ。死んだらすぐに素材が新鮮な内に天ぷらにして海に放ってね」
「うん」
「終了~~」
死神が言った途端私はぱったりと痛みもなく死にました。死んだ瞬間私は人生をまっとう出来た満足からか笑顔でした。
「安らかに眠ってね。天野ちゃん」
天へと昇る最中、涙をぽたりと流す安ちゃんの哀しい顔が見えました。
『じゃあね。安ちゃん。また来世で会おうね』
私の魂は天へと帰って行きました。
総理大臣はすぐに準備を開始しました。
電話を色々な所にかけまくりました。
数分後には病院内に人間を揚げることが出来る天ぷらの器具が用意されました。
総理大臣は天野プロランの遺体に卵を塗り衣をつけると、180℃の油の中に天野プロランの遺体を放り込みました。
「今度は俺が天野ちゃんに恩返しをする番だ。この仕事は誰にも譲れない!」
固く決心したような口調で総理大臣は言いました。
そしてしばし時は流れ……。
「出来た! 出来たよ! 天野ちゃん!」
まるで子供のようにはしゃいで総理大臣は言いました。
すぐに病院のヘリポートにヘリコプターが到着しました。
そこに総理大臣と、カラッとジューシーに揚がった天野プロランが乗せられました。
すぐにヘリコプターは海へと向かいました。
海に到着すると総理大臣は天ぷらを海へと放りました。
「じゃあね。天野ちゃん」
ヘリコプターは官邸へと帰っていきました。
天ぷら天野は海へと深く深く暗い海の底へと沈んで行きました。
191、顎(最初のタイトルは復讐)
深夜道を歩いていたら、突然殴られた。
凄まじいパンチ力だった。一発ノックアウトだった。
気づいたらもう朝になっていた。
幸いなことにお金や身に着けていた物などは奪われていなかった。
殴った奴の顔は一瞬だったが、鮮明に覚えている。右目に傷がある奴だった。
「痛たたたっ!」
殴られた顎付近の場所を手で触る。手にうっすらと血が付いた。
私は鞄から手鏡を取り出した。
別に手鏡を持っているからと言って怪しいことに使う訳ではない。自分の身だしなみを整えるのは社会人としての常識だ。しかし、着ていた背広は道に倒れたことにより、土や砂埃がいたるところについていた。
私は手鏡で自分の顎の近辺を注視するように眺めた。
殴られた顎の近辺がうっすらと腫れていて、青あざも出来ている。
「くそっ。それにしても私を殴った奴は一体何が目的だったんだ?」
吐き捨てるように私は言った。
お金や物を取る訳でもない。一発殴ってそのまま去ってしまった。
念の為、私は自分の体の他の部分でどこか痛い所がないか触診した。
結果どこも異常は見当たらなかった。
「ただの通り魔的犯行か……まあ一発殴られただけで済んだので運が良かったことにしよう」
私はそう結論付け、自分を納得させた。
明日は久々の休日だ。どこに行こうか。本当はスポーツジムにでも行こうと思っていたけれど、そんな気分じゃなかった。自分の心を落ち着かせたかった。だから行ってみたかったけれどなかなか行く機会がなかった所へと行ってみよう。
私はそう思った。
そして私は動物園や、地元の壮大な自然を感じられる場所へと行くことにした。
休日、身支度をして動物園へと一人向かう。
動物園にはたくさんの動物がのんびりと活動をしていた。
ハリモグラやエミュー、カワセミやタカ、ツルやコアラ、鷲やヒクイドリ、ワニやヘビ、など数多くの珍しい動物を目にすることが出来た。ワオキツネザルを見た時、「Wow!」と叫んだら日本人の誰かが
笑っていたがよく分からなかった。
そしてその後、観光名所の岩に登った。
十分に休暇を満喫した私だったが、落ち着けば落ち着くほど、心の底から怒りがマグマのように沸いてくるのを感じていた。
何で、私が殴られなければならないんだ? 私はエリートだぞ? なぜ超下級戦士にやられなければならないんだ?
私は先日読んだばかりの、何とかボールという漫画のあるキャラクターに自分を重ねそう思った。
そして私は自分がもう二度とそんな目に遭わないように修行をすることを決意した。
ネットやゲームをするのを止め、漫画やテレビ、も見るのを止め全て自分への修行の時間へと変えることにした。近くだけじゃなく遠い所にもある様々な格闘技関係の門を叩き、入門した。
「この俺を舐めるなよーー!」
髪型もM字カットへと変え、服屋さんに戦闘服もオーダーメイドで作ってもらった。
数年が経過した。
私の体はムキムキで腹筋バッキバキになっていて、握力は100を優に超えた。
「ふふふ……はははははっ」
私は路上で空に向かって高らかに声を上げた。
その時、目の前にあいつが現れた。忘れるはずがない。数年前私を一発でノックアウトしたあいつだった。
「今こそ修行の成果を見せてやる!」
私は腰を低く落とし、構えのポーズを取った。
相手は私のことをまるで感情がこもっていないかのような冷たい目で見つめている。
私は勢い良く、大地を蹴り相手へと向かった。
右腕を力一杯引き、相手の顔面へとパンチを繰り出した。
「はあーーっ。死にさらせーー!」
しかし……相手のカウンターが私の顎に見事にクリーンヒットし、私は地面へと崩れ落ちた。
意識は何とか保っているが、再び起き上がることは不可能だった。
「ははははは」
自然と笑いが込み上げてきた。
上には上がいるもんだなあっ。
敵わねえや。完敗だ。見事に返り討ちにされた。
奴は私が修行をしている間、私よりも更に厳しい修行をしていたのかもしれない。
奴は踵を返した。
「おいっ!」
私は叫んで自分の右腕を奴に差し出した。
奴は顔だけ振り返り私のことを一度だけ見た後、再び前を向いた。
もっと強くなって俺に挑んで来いっていうことか……。
ふっ。
「私に止めを刺さなかったことを後悔させてやるからな……。今度会った時は必ずお前を仕留め、食べてやるからな!」
私は去り行く奴に向かって大声で叫んだ。
しかし奴は再び振り返らず、夕暮れの景色にまるで溶けるかのように去っていった。
私は奴が消えた後も、奴が消えた方向を眺め続けていた。
そしてふと、気づいた。
「あれっ。そう言えば、今闘った奴。右目を怪我していなかったな……」
どうやら復讐で闘っていたのは別のカンガルーだったらしい。
192、何かを大切にすること。
僕はとても物を大事にする男だ。
メンテナンスはいつも欠かさず、もし壊れた場合でもすぐに物は捨てたりはしない。
自分で修理出来る物は修理するし、修理出来ない物でも自分の払える範囲の額で修理をする。
それでも駄目な場合はその物が誰かの役にもしかしたら立つかもしれないので、オークショーンに出したり、誰か無料で引き取ってもらえる人を探す。
それでも駄目な場合にようやく僕はリサイクルに出す。
生ゴミだって必ずリサイクルするし、排泄物だって立派な肥料になる。無駄になるものなんてほとんどないんだ。
涙だって恋愛のスパイスになるし(臭っ!←)。実際に涙を僕は料理のスパイスに使っている。
でもいいでしょ。誰かに食べさせるわけではないのだから。自分が食べるだけなのだから。
僕は塩はほとんど自分の体から採っている。
汗と涙を出来る限り集め料理の塩分として使用している。
耳クソだってそうだ。
耳クソは臭いけれど、その臭いは何か僕の心に安らぎを与えてくれる。これは自分だけに効果のあるアロマテラピーだ。
だから僕は耳クソだって捨てたりしない。
鼻くそだってそうだ。
ああそうだ。鼻血だって、唾液だって、アメンボだって。みんなみんな生きているんだ、フレンドなんだ。
僕は心の中で童謡の替え歌を口ずさんだ。
世の中の8割の人は行っていると思うが、僕も皆と同じで爪や、自分の抜けた髪の毛を瓶に詰めている。
ただ僕はそれに加えて、鼻くそや耳くそ、そして汗や涙、精液などを溜めているだけだ。
そうだよ。僕は皆と何の変わりもない男なんだ。一般の男なんだ。一般ピープルなんだ。パンピーなんだよ。
ただ皆より、ちょっとだけ。そう。ほんのちょっとだけ自分の物を集めるのが多いってことだけなんだ。
皆だって自分の好きな作者の本や有名な本、CD、フィギュア、鉄道模型やアイドルグッズを集めたりしているだろう? そうなんだ。それと変わらないんだよ。
その夜の僕の晩御飯は質素な物だった。ご飯、味噌汁、サラダ、焼き魚、そして僕の大好物のゆで卵だ。毎日僕はゆで卵を必ず食べる。坂東○二とか言わないでおくれよ。頼むからさ。
僕は出来立てのゆで卵の殻を剥くと、すぐに自分の体、主に脇や首筋辺りに擦りつけた。
「ここが一番、塩が採れる場所なんだよねー」
僕は誰に言うともなしに呟いた。
多少臭いはついているけど、気にしない。だって自分の体の臭いだよ? どこか愛着じゃないけど感じるだろう?
そんなこんなで僕は毎日を過ごしている。
おやすみなさい。
もう11月30日だね。来月はクリスマス。それが過ぎればもう今年もあと僅か。一年って早いね。あっという間に過ぎ去っていくね。
僕は胸にどこかノスタルジックの感情を抱きながらその夜眠った。
「あのー、○○さん。あのー、○○さん。起きて下さい」
誰だよ一体、僕の肩を揺さぶる奴は……。僕は今熟睡中なんだよ。いい夢を見ている最中なんだよ。起さないでおくれよ。頼むからさ。
あれっ。でも僕が寝ているのは自分の家だったよな。
僕はぼんやりとした頭の中で考え、気づき、そしてゆっくりと目を開けた。
僕は電気を点ける。まだ目が光に慣れていない為か脳が完全に起きていない為かは分からないが、僕の目の前に立つ者の姿はぼやけている。
「誰だい? 君は……」
「私ですか? 私は世間では精霊と呼ばれている存在です」
「まじですか!!」
そう言われてみると、たしかに精霊にしか見えなくなる。
それにしてもなんて綺麗な精霊なんだろう。
まさに美少女としか形容できない。
陶磁のような白い肌に黄金色の髪に、ふんわりとした柔らかな髪質、見るものを魅了する碧眼、整ったスタイル、背中に生えた透明な透き通る羽。そして全裸。
ああここは桃源郷か、はたまた極楽浄土か、それともそれとも天国か、いやむしろ心が精霊に縛られ動けないので逆に地獄かもしれないなんて僕は考えたりした。
「あなたは何の精霊なんですか??」
僕は優しい口調で精霊に語りかけた。
僕の口から自然と優しい声が流れ出したんだ。
僕だって不思議だったさ、でも僕の心からなぜか自然と優しい声が流れてくるんだからさ。やっぱり目の前の精霊に出会ったことによって、僕の心は喜び、僕の心の奥深くの淀んでいた泉が浄化されたからかもしれない。これはまああくまで僕の予想だけれども。
「私は何の精霊かですか?」
目の前の美少女はえくぼを作り、僕に笑いかけた。
ああ、綺麗だ。なんて、本当になんて綺麗なんだ。
「私は鼻くその精霊です!」
うん? 僕の聞き違いかな??
「あの……何て??」
「私は、鼻くその精霊ですっ!」
聞き間違いじゃなかった。でもいいや、別に鼻くその精霊だろうがなんであろうが、精霊であることに変わりはないのだから。
「鼻くその精霊さん、あなたは一体なぜ僕の前に姿を現して下さったのですか?」
「あなたは普段から、普通の人なら捨ててしまう、鼻くそや耳クソ、唾液、汗、涙、精液を有効活用して下さいましたわ。だから私はそれらの精霊を代表してあなたにお礼をしに来たのです」
「お礼ですか。でもあなたの他にも精霊がいらっしゃるのですね」
「ええ。もちろんですわ。耳クソの精霊、唾液の精霊、汗、涙、精液などの精霊も皆あなたに会いたがっていましたわ」
「そうですか。それは嬉しいです。帰ったらよろしく伝えておいて下さい」
「はい、分かりました」
「それで、お礼というのは一体何をしてくれると言うのでしょうか?」
僕の胸はまるで新年を迎える瞬間の時のように高鳴った。
「はい。あなたのこれから出る鼻くそを100倍の量に増やそうと思います。あなたは本当に鼻くそに対して優しく、愛情溢れているので、私は本当に嬉しい限りですわ」
「そ、そうですか。鼻くその量を今までの100倍の量に増やして下さるのですか。う、嬉しいです」
僕は流石に固まった。マジかよ。これはお礼としてはどうなんだ?
そして次の日から僕の鼻くその量は本当に100倍になった。
そしてあまりの量に僕は流石に鼻くそをとっておけなくなり、鼻くそを捨て始めた。
家で、路上で、学校で、バスで、電車で、飛行機で。
そして僕は気が狂い始めた。
うへへへへ。鼻くそぴーん。
僕は鼻くその標的をついに生物にまで向け始めた。
まずは蟻んこに鼻くそぴーん。
次にミミズに鼻くそぴーん。
次にカタツムリにぴーん。
鳥にぴーん。
魚にぴーん。
蛙にぴーん。
動物園に行って、虎にぴーん、ライオンにぴーん、カンガルーにぴーん、アルパカにぴーん、サイにぴーん、キリンにぴーん。ぴーんぴーんぴーんぴーん。
ペットショップに行って、犬にぴーん、兎にぴーん、猫にぴーん。
「ちょっと! あなた何をしているんですか!」
店員にぴーん。
そして、僕は暴行罪で逮捕された。
僕は逮捕されてようやく改心した。
ああ、僕はやっぱり間違っていたんだ。鼻くそなんてとっておくものではなかったんだ。
一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべている鼻くその精霊の顔が頭に浮かんだが、もう僕に迷いはなかった。
僕は決心した。
そう、鼻くそ始めとする自宅に保管してあるコレクションの数々を捨てると。今までの僕だったら考えられないほどの重大決心だった。
だけど、人に害を及ぼすのなら、鼻くそなんてクソ食らえだ。鼻くそだけに。
僕は、釈放され家に帰ると、自分の透明な豪奢なコレクションケースに飾ってあった鼻くそ、耳くそ、唾液、汗、涙、精液、爪、髪の毛、その他の毛、垢、目糞の瓶の蓋を開け、豪快に自分の家の庭にばら撒いた。
ちょうど空からは雨がぽつぽつと落ち始めていた。
じきにこの雨は、それらを優しく流し、土へと還してくれるだろう。
僕の目からは自然と涙が零れ落ちていたが、それは悲しい為に流した涙ではなく、どこか晴れ渡ったすがすがしい涙だった。
僕はその涙を一指し指ですくうと庭へと優しく放り投げた。