71.幻。
ジェラルドの奇襲部隊が出撃する少し前、ベルンシュタイン国の王都からの援軍は、東の砦から二日の距離にある荒野にいた。
「霧が出てきましたね」
軍の先頭で馬を進めていたユーリック・オークスが、隣で手綱を握る男へ声を掛けた。男がユーリックへ視線を向ける。松明に照らされた整った顔は、病み上がりらしく少し瘦せていて、顔色もあまり良いとは言えなかった。
だが、男の目の覚めるような青い瞳には、力強い光が宿っていた。
眠り病を発症し、一命を取り留めたベルンシュタイン国の王シュティル、その人だった。
アルビオン領からの援軍の要請に、やっと起き上がれるようになったばかりのシュティルは、無理を押して自ら兵を率いて東の砦へと向かっていたのだ。
「……このまま全軍を進めるのは危険ではないでしょうか?」
ユーリックが僅かに困惑した表情を浮かべ呟く。
「行けるところまで進める。だが、これ以上濃くなるようであれば一旦兵を休ませる」
「承知致しました」
ユーリックは近くに居た近衛騎士団の一人に国王の指示を各部隊へ伝えるよう指示を出す。駆け去る団員の後ろ姿を見送ると、シュティルはふうっと息を吐きだした。
「! 陛下、具合が悪いのではないのですか?」
「……大丈夫だ。まだ体力が戻っていないだけだ」
「どうか無理はなさらないでください」
「ああ」
ユーリックの気遣う視線を感じながらシュティルは前方に目を向ける。奇跡的に眠り病から生還することは出来た。
だが、思いのほか体力を奪われている。元のようになれるまでにはどうやらかなりの時間を要すると思われた。
「……リリアは無事であろうか」
思わずこぼれ出た言葉であった。シュティルはほとんど心情を吐露することはない。それほどに、リリアの身を案じていた。自分の命より大切な娘が、疫病の蔓延する中で、ボルドビア軍の襲撃を受けているのだ。
「陛下、王女殿下はきっとご無事でいらっしゃいます。あの御方はアルフレッド陛下の御代から何度も危機を乗り越えて来られたのです。この度の未知の疫病に我が国が立ち向かう事が出来ているのも、王女殿下のお力です。私はあの方に不思議な力を感じているのです」
「……そうだな。今は、あの子を守る精霊の加護を信じよう」
シュティルが自分に言い聞かせるように呟いた。
「!」
突然、シュティルに緊張が走った。これまでに感じた事のないような気配を感じたからだ。ユーリックも気づいたのか、息を飲む気配がする。
次の瞬間、前方で風が巻き起こった。その風で霧が晴れるどころか、真っ白な濃い霧がまるで生き物のようにベルンシュタイン軍に襲い掛かり、あっと言う間に飲み込まれてしまう。恐怖に慄く兵士達の声に怯える馬達の嘶きが混じり、ベルンシュタイン軍は一瞬にして恐慌状態になる。
「全軍止まれ!」
「皆の者! その場から動くな!」
シュティルの声に反応した隊長達が『進軍停止!』と叫び、波のように隊列全体へ伝わっていく。
「陛下……」
「ユーリック、動くな」
動揺しているユーリックへ声を掛ける。すでに隣にいるユーリックしか見えない状態になっていた。いつのまにかまわりの音までも一切消えている。まるで大雪が降った後の明け方のような静けさだ。
「!」
前方の濃い霧の中に人影がぼんやりと浮かび上がる。シュティルを庇う様にユーリックの馬が前に飛び出した。
「誰だ!」
ユーリックの緊張した誰何する声が霧の中に吸い込まれていく。
「お義父様」
霧の中から、鈴を転がすような声と共に一人の少女が姿を現した。その姿にシュティルは鋭く細められていた目を大きく見開く。心が望むあまり見せた幻かと思った。近づけは消えてしまう幻なのではないかと。
だが、シュティルは躊躇うことなく馬から飛び降りた。許しを請うように少女へ向けて両手を伸ばす。そうせずにはおれなかったのだ。一度失って、再び取り戻す事が出来た大切な存在。
「リリア……」
シュティルの唇が少女の名を紡ぐ。リリアは一瞬、躊躇うようなそぶりを見せた。
しかし、すぐにシュティルの胸へ飛び込んで来た。その小さな体を思いのまま強く抱き締める。
「ああ、温かい。……リリア」
幻でないことに安堵するシュティルの腕の中で、リリアは体を震わせる。
「お義父さま……」
腕の中から聞こえて来た自リリアの声は涙で濡れていた。
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