7.気付いた想い。
リリアは夢を見ていた。
六歳のリリアがマーサおばさんの所でおじいさんの帰りを待っていた日の夢だ。
おじいさんはいつでもどんな時でもリリアの側にいて片時も離れる事がなかったのに、その日だけはリリアをおばさんに預けリリアが眠っている間にどこかへ出かけてしまった。
薬草を取りに行く時でさえどんな山奥へでもリリアを連れて行っていたおじいさんが初めてリリアを置いて行ったのだ。
おばさんは優しい人だったし、『おじいさんはすぐに戻って来るよ』と言っていたが、とても不安で、寂しくて、悲しかった事をいまだに鮮明に覚えている。
日はとっくに沈み、窓の外が真っ暗な暗闇に包まれた頃、おじいさんは一人の少年を連れて帰って来た。
「先生、おかえりなさい。リリアは、お利口に待っていましたよ」
マーサおばさんを含め、村の人達はおじいさんを『先生』と呼んでいた。
「マーサ、遅くなってすまなかったね。リリアをありがとう。ただいま、リリア。何だ?泣いているのか?」
帰って来たばかりのおじいさんにしがみ付き、リリアは声を出して泣き出してしまった。そんなリリアをその頃六十代前後だったおじいさんはいとも簡単に抱き上げ、優しくあやしてくれた。
おじいさんはとても背が高く、白髪まじりの茶色い髪をいつも後ろで一つに束ねていた。この国では珍しくはない茶色の瞳は穏やかで、その優しい眼差しに見つめられると今までの不安や寂しさはすぐにどこかへ消え去っていた。
「先生が迎えに行っていたのは、その子供なのね?」
マーサおばさんがおじいさんの隣で立っていた男の子に、優しい笑顔を向けていた。
その男の子は緩いくせのある赤茶色の髪で、女だと言われれば信じてしまうほどキレイな顔立ちをしていた。けれど、リリアをじっと見つめる冬の湖のような薄い青味を帯びた灰色の瞳には光はなく、なんだか空っぽに見えて、リリアまで悲しい気持ちになってしまうような暗い眼差しをしていた。
だが、リリアはこの男の子の顔を覚えていた。
昨日、街でおじいさんに声をかけてきた男の子だ。だが、昨日の彼の少し吊り上がった目はもっと違う印象的を与えていた。
『ねえ、おじさん。俺といい事しない?』
駆け寄って来た男の子に、珍しくおじいさんが険しい表情を向けた。
その男の子が彼だった。
彼はその時笑っていたが、その目は以前森で遭遇した狼の目に似ていた。
『あの狼はお腹を空かせた子供の為に必死で獲物を狩っているのだ』とおじいさんは言っていた。
『他を当たってくれ。わしにはそんな趣味はない』
『あんた、よく効く薬を持っているんだろ?ねえ、頼むよ。俺を買ってくれよ。それで、あんたの薬を分けてほしいんだ』
『……店からつけて来たのか。誰か病気なのか?』
『母さんだよ』
おじいさんはほんの一時男の子をじっと見ていたが、すぐに彼に案内をするよう告げた。そして、リリア達が訪れたのは街の外だった。薄い板で建てられた家がいくつもあって、その中でも今にも倒れそうな家が彼の家だった。
戸口でリリアは口に布をあてがわれると、その場でぴたりと足を止めた。病人がいる家ではいつもそうするのが決まりだったからだ。
戸口と言っても一部屋しかなく、その部屋の奥に痩せこけた女の人が一人眠っているのが見えた。その女の人が男の子のお母さんだった。彼はおじいさんが母親の症状を調べている間、ずっと不安そうに見つめていた。
『これを飲ませてあげなさい。痛みは取れるはずだ』
『この薬をくれるの?母さんは元気になるよね?』
『……今夜が峠だ。意味が分かるか?わしに出来るのは、おまえの母親をずっと苦しめている痛みを取り除いてやれるだけだ。今日はこのままずっと傍にいてあげなさい』
彼は小さく頷いた。その姿が急にとても小さく見えた。
その日は家に戻る道中だけでなく、家に帰ってからもおじいさんとリリアはあまりしゃべらなかった。
「この子の名前は、シャイルだ。年齢は十四歳だそうだ。今日からリリア共々よろしく頼むよ」
おじいさんがシャイルの背中に手を添えマーサおばさんへ紹介すると、彼はゆっくりと深いお辞儀をした。
「シャイルです。よろしくお願いします」
リリアに新しい家族が増えた瞬間だった。
次の日から、シャイルはおじいさんに付従い、色んな事を教わり始めた。
薬草の事、文字や計算、剣術まであらゆる事をおじいさんから学んでいた。彼は乾いた大地が水を吸い込んでいくように知識と経験を身につけていった。
リリアが九歳になる頃には村では彼の事を『若先生』と呼び、おじいさんとシャイルは空いた時間に村の子供達に読み書きなどを教えるようになっていた。 そして一番変わったことは、おじいさんがシャイルにリリアを任せ、一人で遠くまで薬草を取りに行ったり、病人の所へ行くようになった事だ。
シャイルの深くて暗い穴のようだった目はいつからか澄んだ湧き水のように光が溢れていた。
「シャイルばかり狡い。私も薬草の事を教えてほしいわ」
いつものようにおじいさんが一人で出かけてしまった後、シャイルと二人で留守番をしていた。
薬草を煎じているシャイルの側でリリアにしては珍しく不満を漏す。リリアも薬草の事を学びたかったのだ。そして人の役に立ちたかった。
だが、おじいさんには言葉使いや行儀については厳しいほど教えられたが、剣術や薬草については『危ないから』と触れることさえ許されなかった。
「そうねぇ~。リリアの気持ちも分かるけど、剣術を習うより、あなたの場合は危険だと思ったらとにかくすぐに走って逃げたほうがいいのよ。それに薬草には毒を持つものもあるからね。軽い気持ちで扱うものではないわ」
シャイルは右手の人差し指を自分の唇に当て、考えるような仕草をした。彼はいつのまにかおねえさんのようなしゃべり方をするようになっていた。理由は『男言葉をリリアが真似ると困るから』と言っていたが、髪も長く伸ばしたままで、なんだか動きまで女の人のようだった。おじいさんは笑っていたが、その事については何も言わなかった。
「軽い気持ちなんかではないわ。知らない事のほうが危ないと思うの。そう思わない?シャイル」
シャイルは少し首を傾け、リリアのペンダントに指先で触れる。この中には毒消しの薬が常に入っている。
「先生は、リリアをどんな些細な事からも守りたいのよ。確かに時々神経質すぎるのでは?と思う事もあるけれど……まあ、毒消しの薬を持たせるくらいなら、きちんとした薬草の知識を身に付けて、上手く扱えるようになった方がいいという考え方もあるわね。でもね、あなたは彼にとっていつまでも小さくてとても大切なお姫様なのよ」
『私にとってもね』とリリアに向け片目を閉じて見せた。
なぜかその仕草にリリアはいつもどぎまぎとさせられてしまう。
そしてリリアが十四歳になった時、シャイルがおじいさんに掛け合ってくれたおかげで、リリアも薬草について教えてもらえるようになったのだ。リリアは念願が叶って、一生懸命に教わった。
だがその翌年、年が明けるとすぐに流行り病で村人がバタバタと倒れていった。リリアとおじいさんは一度かかった経験があるので大丈夫だったのだがシャイルも感染してしまい、おじいさん一人で対応に追われることになってしまったのだ。リリアも手伝ったのだが、たった一年の知識では特殊な病気に対し足手まといにならないだけで、おじいさんを助けるまでには至らなかった。
みんなが元気になった頃、おじいさんは疲労から風邪を拗らせ、そのまま帰らぬ人となってしまった。
『おじいさん!おじいさん!目を開けて!私を置いて行かないで!』
どんなに泣き叫んでも、おじいさんは再び目を開ける事は無かった。あの優しい眼差して見つめてくれることももうないのだ。
「……ア、……リ……ア、リリア」
誰かがリリアの名前を呼んでいる。
彼女を気遣う優しい声だ。
頭を撫でる大きな手がとても心地いい。
「……シャイル?」
リリアはゆっくりと目を覚ました。
目の前に心配顔で覗き込むクロウの顔があった。その澄んだ黒い瞳をとても長い間見ていなかったように思う。
「大丈夫か?かなりうなされていた……」
額の上に濡れた布を置いた後、彼はリリアの目もとを拭ってくれた。
どうやら夢の中で泣いていたらしい。またクロウに心配をかけさせてしまったのだろう。
「だ、大丈夫。少し怖い夢を見ただけ。心配かけて、ごめんなさい」
「……」
かすれて小さな声しか出せなかったのでリリアの声が聞こえなかったのか、クロウの反応が全く無い。ただ黙ったままリリアを見下ろしている。
「……シャ………………」
「え?」
「あ、いや……何でもない」
クロウは何か言おうとしたようだが、途中でやめてしまった。
「クロウ?」
彼の何か思いつめた様子が心配になり、リリアが声をかけると、突然クロウは立ち上がりそのまま部屋から出て行こうとする。
「クロウ」
「……リリア。熱は下がったようだが今は無理をするな。何かおまえが食べられそうな物をもらってくる。もう少し眠っていろ」
それはまるでリリアの事を避けているようにさえ見えた。
去って行く後ろ姿を見つめ、リリアの胸がぎゅっと掴まれたように苦しくなった。
そして、今頃になってやっと気付いたのだ。
(私は、クロウの事が好き)
だが、その思いを告げる前にいつのまにか嫌われてしまったのかもしれない。
後ろ手に閉められた扉を見つめ、リリアの瞳から一滴涙が流れた。




