57.雪。
やっと腕の中にリリアを取りもどしたクロウ。だが、まだ危機は過ぎ去っていなかった。
クロウはリリアの体をしっかりと抱きかかえ、激流の中を泳いだ。冷たい水がクロウの体力と指先の感覚を容赦なく奪っていく。ほんの一瞬でも気を抜けば、あっという間に激しい流にリリアは奪われてしまうだろう。
クロウは気力だけでなんとか岸へたどり着く。肩で息をしながらぐったりとしたリリアの体を冷たい水の中から救い上げる。すでに手足の感覚はなくなっていた。重い足を引きずるようにして、リリアを乾いた岩の上に横たえさせる。青白いリリアの頬に手を添え、飲んだ水を吐かせようとして、クロウは顔色を変えた。
(! 息をしていない……?)
「リリアッ!」
切羽詰まった表情で、急ぎ彼女の胸元に耳を当てる。
微かではあるが、弱々しく打つ鼓動がリリアはまだ生きていると告げていた。
「リリア! リリアッ! リリアーッ!」
クロウはリリアの体を掻き抱き、狂わんばかりに彼女の名を何度も叫ぶ。
だが、腕の中の小さな体からは僅かな反応も返ってこない。血の気のない青白い顔を見れば、焦りだけが募っていく。
これほど近くにいるというのに彼女の目は固く閉ざされたまま、心を甘く揺さぶる翠緑色の瞳がクロウの姿を映すことはなかった。クロウはリリアの冷え切った頬を両手で包み、必死で彼女の名を呼び続ける。
(どうすれば……)
絶望がクロウを捉えようとその触手を伸ばしてくる。それを振り払うように頭を振れば、ふいに脳裏をかすめたのは、横たわる子供に息を吹き込むリリアの姿だった。クロウは救いを求めるように記憶の中のリリアの姿を追う。
「死なせは、しない!」
再び岩の上にリリアの体を横たえさせ、クロウは片手で彼女の顎を少し持ち上げた。わずかに開いたリリアの唇は紫色に変わってしまっている。その唇にクロウは自分のそれを重ねた。その冷たさに胸が締め付けられる。
逸る気持ちを押えながら、クロウはリリアの口へ強く息を吹き込む。
ゴホッ、……ゴホゴホゴホッ
どれほどの時が流れていったのか、突然リリアの胸がせり上がり、飲んだ水が吐き出される。その途端、リリアは酷く咳き込む。呼吸が戻った証だ。
「リリア……」
歓喜に震える声で愛しい名を呼ぶ。
「──────────ク……………、クロウ………?」
花の蕾のような唇から自分の名前が紡ぎ出されると、クロウはたまらずリリアの華奢ば体を強く抱き締めていた。存在を確かめるように柔らかな頬へ自分のそれを擦りよせる。
何度も、何度も。
「リリア、リリア、リリア……」
伝えたい思いが体の奥底から湧き上がってくる。
だが、胸が焦げるように熱く、まるでうわ言にように愛しい名を呼び続けることしかできない。
「!」
突然、クロウはびくりと体を揺らした。目を大きく見開く。震える小さく白い手が、自分の頬へ触れていた。堪らなくなったクロウはその手を取ると、自分の額に押し当てる。
大切な者を失ってしまうという恐怖は、己が死ぬかもしれないと感じる以上に恐ろしいものだった。
リリアを胸に抱きしめたままクロウは空を仰ぐ。
「森の王よ! 精霊達よ! 感謝する!」
まるで叫ぶように、大いなる者達に感謝の気持ちを伝える。言わずにはいられなかった。ここに至るまで、何度も彼らの存在を感じる瞬間があった。リリアをこの腕に取り戻すことができたのも、おそらく彼らの救いがあってのことだ。
再びクロウは腕の中の愛しい少女の顔を真っすぐに見つめる。
「リリア」
美しく神秘的な光を宿す瞳が揺れていた。その美しい瞳から溢れ出た澄んだ雫が頬を伝うと、クロウは指先でそっと拭う。
「……おかえりなさい」
その声はとても小さく、掠れていた。
だが、しっかりとクロウの耳に届いた。心臓が痛い。この言葉にどれほどのリリアの思いが込められているか。クロウは痛感する。
「──────────ただいま」
他愛ない言葉のやり取りなのかもしれない。
だが、目頭が熱くなる。何も言わず去ったクロウの事を、リリアは待っていてくれたのだ。クロウが戻る場所はここなのだと。
しかし、感動の再会はつかの間の事だった。安心したのか、リリアの澄んだ瞳が再び長い睫毛の向こうへと消えていく。
「リリア……?」
不安を隠せない声でリリアの名前を呼ぶ。
けれど、彼女からの返答は無い。慌てて呼吸を確認し、眠っているのだと分かり、安堵する。
その時、ふと視界の端に白いもの過ぎった。
「!」
弾かれたように顔を上げたクロウの黒い瞳に、はらはらと舞うように天から降ってくる白く儚げなものが映る。
「雪……」
とうとう雪が降り始めたのだ。
濡れたままの二人を急激な寒さが襲う。
(このままでは、さらに体温が奪われてしまう)
やっと一命を取り留めたリリアだった。
だが、命の危険はまだ去ってはいなかった。クロウはリリアの体を抱え上げると、険しい表情で辺りを見回す。
そして、少し先に洞穴があるのを見つけると、すぐさま歩き出した。
(戦闘はどうなっている?)
洞窟へ向いながらクロウは上流へ顔をむける。
今、クロウの耳が捉えることができる音と言えば、唸るような河の流れる音だけだった。それ以外聞こえてくるものは何もない。随分と下流へ流されてしまっていた。こんな状況下では、砦の状態を知る手段は何も無く、助けを期待することもできそうにない。自力でこの状況を切り抜けるしかなかった。
突然、どこからか馬の嘶きが聞こえてきた。僅かに離れた木々の間を黒い影が走る。
クロウは動きを止めた。全身に緊張が走る。
(追手か?)
ガサガサと音をたてて茂みから飛び出して来たのは、大きな黒い毛並みの馬だ。一瞬、クロウは幻を見ているのかと思った。
「! シェーン……?」
名前を呼べば、嬉しそうに黒馬が駆け寄って来る。紛れもない彼の愛馬、シェーンだった。驚くことに、あの戦場から抜け出し、主人の姿を追ってここまでやって来てくれたのだ。
さらに、有難いことにシェーンの背には荷物だけでなく、クロウが脱ぎ捨てたマントも引っ掛かっていた。
「シェーン、こっちだ!」
リリアを抱え直し、再び歩き出したクロウの後を、シェーンが大人しくついてくる。
やっとの思いでたどり着いた洞穴は、想像していたよりも奥が広くなっていた。シェーンごと身を隠すことが充分にできる。
クロウは穴の最奥にリリアをそっと横たえさせると、急いで乾いた木の枝や枯葉を拾い集め、火を付ける。紅く燃え上がった炎が不安を僅かに和らげてくれる。もちろん、これで安心できるわけではなかった。
クロウはシェーンに括り付けていた荷物から自分の着替えを一式取り出す。シャツはリリアの着替えとして使い、クロウは濡れた服を脱ぎ棄てると、下履きだけを履き替えた。
そして、彼のシャツですっぽりと覆った小柄なリリアの体を抱きかかえ、焚火の前にマントにくるまり座る。
クロウの素肌に触れているリリアの頬は冷たいままで、なかなか体温が戻ってくる気配が感じられなかった。リリアは昏々と眠り続けている。不安と焦りがクロウを苛む。
(このまま意識が戻らなければ? 再び彼女の中の精霊が目覚めてしまったら?)
リリアの傍を離れてしまったことを、クロウは酷く後悔していた。
(あのまま、リリアを攫ってどこか遠くへ二人で逃げれば良かったのだろうか?)
王城でクロウの名を必死で呼んでいたリリアの姿が思い出された。クロウは胸の疼きに耐えながら、リリアの体に回した手に力を込める。
(もう手放したりしない。二度と……)
まるでその誓いに応えるように、腕の中のリリアが僅かに身動ぎした。ほんの少しだが体温も戻り始めている。
「リリア」
安堵の声と共に、クロウは穏やかな表情で眠っているリリアの額にそっと口づけを落としたのだった。
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