24.愛しい人。
リリアは膝を抱えて座っていた。
膝に頭を乗せ、まるで春の穏やかな日差しの下でまどろむように目を閉じている。暖かな光がリリアを包み、深い眠りに誘う。
『わたしが、守ってあげる』
どこからか聞こえてくる鈴が鳴るようなかわいらしい少女の声。その声に聞き覚えがないというのに、心のどこかでとても懐かしいと感じている。
「……誰の声なのかしら?……私、何か大切なことを忘れている気がする。とても大切なことを……」
徐々に薄れゆく意識の中で、閉じた瞼の裏に長い髪の女の人の姿が浮かび上ってきた。髪はリリアと同じ淡い金色で、薄青い瞳のとても気品のある美しい人だった。一目見ただけで、高貴な人であることが分かる。そんな人がなぜかリリアを慈愛に満ちた眼差しでじっと見つめてくる。その表情はどこか憂いているようにも見えた。
戸惑いを感じつつもリリアはその女の人の事がとても気になっていた。だが朦朧としている状態では彼女に意識を向け続けることが出来ない。
「……あなたは、だれ?私を知っているの?どうしてそんなに辛そうにしているの?……ああ、どうしてかしら……とても……眠い……少しだけでいいの、眠らせ……て──」
再び意識を手放しかけたリリアの耳に、別の声が飛び込んできた。張りのある少し低めの男性の声。その声ははっきりとリリアに眠ってはいけないと言う。
まるでその声に引き上げられるように意識が声に向かう。いつのまにか背の高い男性が先ほどの美しい女の人を支えるようにして立っていた。目を引く秀麗な顔立ちの青年だった。蜂蜜のような金色の髪に、目の覚めるような青い瞳がとても印象的で、凛とした目はリリアのすべてを包み込んでしまうかのように優しい。その眼差しはとても温かく、リリアのことをまるで幼子を見る様に愛おしげに見つめている。
「……あなた達は、誰なの?どうして私をそんな目で見つめるの?」
二人がリリアの事をとても心配していることが痛いほど分かるのに、リリアには二人が誰なのかさえ分からない。ひどくもどかしく思いながら、リリアはもっと彼らのそばへ近づきたいと強く願っていた。だがその思いを打ち消そうとするかのように、さらに強い睡魔がすべての感覚を飲み込んでいく。
『リリアッ!』
突然聞こえて来た力強い若い男性の声が、途切れかけていたリリアの意識を繋ぎ止めた。心に訴えかけるような声に、リリアの心臓がどくりと大きく脈打ち、胸に走った鋭い痛みがリリアを目覚めさせる。
『俺は、ここにいる。おまえの傍にいるんだ!リリアッ!答えてくれ!』
「誰かが、私を呼んでいる。……この声は、誰?……思い出せない。…………思い出すのが怖い。……怖いの!」
意識がはっきりと浮上していくのが分かる。だがそれに伴い、襲って来たのは胸を締め付けるような自己嫌悪とまるで押しつぶされてしまいそうな後悔の念。リリアは突然襲って来た胸の苦しみに、理由も分からず泣き叫びたくなる。
『心が痛いのは生きているからだ』
どこからかおじいさんの声が聞こえたような気がした。大好きなおじいさんの優しい声だった。
『恐れに向き合ってみなさい。大丈夫だ。おまえは一人ではない』
懐かしいおじいさんの姿を求め、強く閉じていた瞼を開いた。不安な眼差しで周りを見回し、リリアは愕然とした。
「……ここは、どこなの?」
淡い翠色に輝く光の球体の中にリリアはたったひとりでいた。まるで大きな卵の中にいるみたいだ。その外側は真っ暗な闇が広がっていて、何も見えない。
とても不思議な場所だった。
(私は、夢を見ているのかしら……)
『リリア!俺の声に答えてくれ!リリアッ!」』
呆然と見上げるリリアの耳に、再び彼女の名を呼ぶ若い男の声が聞こえてきた。その声はどこか縋るような響きがして、リリアの心は激しく揺さぶられた。湧き上がってくるこの気持ちは何だろう。リリアは声に突き動かされるように立ち上がっていた。生まれたばかりの小鹿のように足が震えている。ふらつきながらも、声がした方へ向かって手を伸ばす。心のどこかで、手を伸ばせばきっと力強い手が彼女の手を掴み取ってくれると期待している。
本当は思い出すことがとても怖い。不安で仕方がない。でも、おじいさんの声が励ましてくれたように、怖がっているだけでは駄目なのだ。自分が恐れ、逃げようとしているものに向き合おうと心に決める。
『俺の名を呼べ!リリアッ!』
その声が引き金となった。心に被さっていたものが一気に吹き飛んだような感覚が体中を駆け抜け、まるで湧き水のように愛しいと思う気持ちが溢れてくる。恋しく思う人の名と共に。
リリアはその名を声の限りに叫ぶ。
「クロウ──ッ!」
閉じ込められていた記憶の数々が、まるで水門を開いたかのようにものすごい勢いで流れ出し、過去の情景が走馬灯のようにリリアの脳裏に次々に浮かんでは消えていく。そして、最後に浮かんできたものは、リリアを逃がすため、左肩に矢を受けて倒れるクロウの姿だった。
心臓を鷲掴みにされたような激痛が走る。喉を熱い塊が塞ぐ。鼓動は壊れそうなほど激しくなっていく。
リリアは全てを思い出していた。
「私はどうしてこんなところにいるの?早くクロウのところへ!急いで手当てをしなくては、手遅れになってしまう!私のせいで、クロウが死んでしまう!」
倒れたクロウの姿が目に焼き付いている。焦燥感がさらに痛む胸を焦がす。
「クロウ!クロウ!クロ──ッ!」
愛しい人の名を叫びながら、彼女は転びそうになりながらも駆け出していた。
だがすぐに光の幕が固い感触を伴い、障壁として彼女の行く手を阻む。温かく感じていたはずの光が今は酷く冷たい。
リリアは光の壁を拳で何度も何度も叩いた。
「お願い!クロウのところへ行きたいの。お願いよ、行かせてっ!」
光の壁はリリアの切な願いを拒み続けている。翠色の瞳から零れ落ちた涙の滴がリリアの足元で淡く輝く翠色の光に吸い込まれていった。
「あっ!」
突然、リリアの周りを取り囲んでいた光の壁が音も無く粉々に弾けた。
彼女の体はとても暗くて深い闇の中に容赦なく放り出され、どちらが上かさえ分からない混沌とした闇の中をまるで見えない力によって押し流されていく。
真っ暗な世界の中で、砕け散った光の破片が夜空に瞬く星のようにきらきらと輝きながら大きな渦の中心に向かって流れていく。やがてリリアの体もその渦の中に飲み込まれた。流れに翻弄されながらもリリアの瞳は、彼女を取り巻く混沌としていた暗闇が徐々に濁りが消えていく様子を静かに映している。
さらに激しさを増していく流れに身を任せながら、彼女は不思議と恐ろしいとは感じていなかった。リリアを取り囲んでいるものは愛しい人の瞳の色。
流れの先に小さな光が見えている。その光を中心にして黒く澄んだ渦が徐々に形を変えていく。リリアの想いを形にするかのように。
「……リリア──」
黒水晶のように美しい黒い瞳がリリアを覗き込んでいた。小さな光はクロウの瞳の奥で輝く魂の光だった。
「……クロウ?」
名前をそっと呼べば、まるで縋るように強く抱き締められた。
クロウは何度もリリアの名前を呼びながら、まるで彼女の存在を確かめるように淡い金色の髪に彼の頬をすり寄せている。
長い夢から目覚めたばかりのように、ぼんやりとしながらクロウに身を任せていたリリアだったが、状況を把握したとたん蒼褪めた。
「クロウ!肩に、矢が!早く手当てを!」
リリアはクロウの腕の中で、ひどく狼狽えていた。だがクロウはそんなリリアの姿を見て、まるで労わるように見つめてくる。
「大丈夫だ。おまえが心配するようなことは何もないんだ。何も──」
溶けてしまいそうなほど優しい声で囁きながら、再びクロウはリリアを抱きしめる。その腕の強さと温もりに、リリアはクロウの元へ戻ってこられたのだと心から感じる事が出来た。
だが、彼の左肩に深々と突き刺さった矢をリリアはしっかりと見ていた。何ともないはずはないのだ。
「……本当に、大丈夫なの?傷は?どこも痛くはない?」
なおも心配するリリアに、クロウは少し困惑するような眼差しを向ける。
「本当だ。何ともないんだ。おまえのお陰だよ」
おもむろにクロウは自分の左肩をリリアが見える様に傾ける。確かに彼が言うように、そこには矢はおろか血で汚れた痕跡もなかった。少し破れている箇所からクロウの肌が覗いているが、傷らしいものは見当たらない。
「本当に、傷が無いわ……」
呆然としながらも、リリアはクロウの無事が確認できたことで、やっと安心することができた。心が緩んだせいで、いろんな思いが駆け巡る。何よりもクロウが生きて傍にいてくれる事がただただ嬉しくて、ぼろぼろと泣いてしまった。しゃくり上げながら泣くリリアの背中をクロウは優しく撫でてくれる。
「もう大丈夫だ」
優しくて力強いクロウの声が何度も耳元で聞こえる。彼の声を聞きながら、以前にも泣いているリリアの背を彼が優しく撫でてくれたことを思い出す。
全身を彼の温もりに包み込まれ、愛しい思いがさらに増していく。涙で濡れた目をクロウに向ければ、彼の静かな眼差しに捉えられた。
とくんと、甘い痛みが胸を過る。
いつのまにかクロウの纏う気が変わっていた。以前の彼にはどこか危うく、人を寄せ付けないところがあったのだが、今はしっかりと大地に根をはったような安心感と、揺るぎない気高さを感じる。
リリアは今更ながらどきどきとしてしまい慌てて視線泳がせれば、彼の傷だらけの手の甲が目にとまった。よく見れば服もあらゆる場所が切り裂かれている。まさに満身創痍な状態だった。
リリアは傷が増えたクロウの手にそっと触れる。
「クロウ、……ありがとう。ずっと傍にいて守ってくれていたのね」
ただそれだけしか言えなかった。言葉は便利なようで不便だ。クロウへの感謝の気持ちをうまく言い表せる言葉が見つからない。どうすればこの気持ちをちゃんと伝えることができるのだろう。思い悩みながら見上げれば、クロウの顔から輝くような笑みが零れていた。
クロウの過去はとても辛いものだった。そのことが彼に暗い影を落としていた。まるで自分は幸せになってはいけないと思っているようなところがあった。だが今の彼からは生きていることを幸せだと感じているように思える。
「礼を言うのは俺の方だ。ありがとう、リリア」
でもなぜ守られていたリリアが礼を言われたのかさっぱり分からなかった。だがクロウの言葉には言葉以上の想いを感じる。言葉でも気持ちを込めれば想いは伝わるのかも知れない。
『人の想い合う心というものは計り知れぬものだな』
不思議な響きのする声が聞こえて来た。驚いたリリアがクロウに身を預けたまま、その声の方へ顔を向ける。そこには神々しい光を放つ美しい青年が立っていた。彼の瞳の色に、リリアの目は釘づけになる。彼女は初めて同じ翠色の瞳を持つ者に出会えたのだ。だが彼はリリアとは違って、吸い込まれてしまいそうな不思議な目をしていた。
クロウは唖然としているリリアをまるでその青年から隠すようにさらに深く抱き込み、その青年に挑むように顔を向けた。
「リリアは戻って来た。どうか彼女を信じて欲しい」
とても力強い声だった。強い光を放つクロウの眼差しをその青年は怯むどころか、まるで包み込むように受け止めている。二人の間に漂う緊張感にリリアは思わずクロウの胸元に縋り付く。
突如、全身が自分の体ではないようにずしりと重く感じ、うまく手に力が入らなくなった。必死でクロウの服を掴んでいるのに、ずるずると落ちていく。だがすぐに大きな手がリリアの手を掴んだ。クロウはそのまま気遣うように手を握り緊めてくれた。
「力が入らないのか?」
「……クロウ──」
今まで二人のやり取りを静かに見守っていた青年がじっとリリアだけを見つめているのに気付いた。泣きたいような、微笑みたいようなそんな相反する不思議な気持ちが心の奥、リリアの心とは少し違う場所から湧き上がってくるのを感じた。ふいに目眩がして目の前が真っ暗になってしまった。クロウのリリアを心配する声が聞こえる。
リリアの意識はそのまま途切れてしまった。
「リリア?!」
腕の中のリリアの体がふいに重くなった。気を失ったのだと分かった。
『大丈夫だ。心配はない。ただ眠っているだけだ』
心配するクロウを安心させるように精霊の王は告げる。だが、その眼差しはリリアから逸らされることはない。
突然リリアの体から淡い翠色の光が溢れ出し、人の姿になっていく。まるで陽炎のように揺らめくその姿は、クロウが精霊の王に見せられた過去で出会った精霊の娘によく似ていた。
彼女は精霊の王を見つめたまま、まるで蝶が羽を広げるようにゆっくりと両手を広げながら膝を折り、精霊の王へ優雅にお辞儀をする。
『我が君。お久しゅうございます。長き時をお傍から離れておりますことを、どうかお許しください。わたくしは、人の魂に寄り添うことを選んでしまいました。後悔はしておりません。どうかわたくしの身勝手をお許しください。どれほど貴方様の御傍を離れていようとも、わたくしの敬慕する方は貴方様お一人。どうか御身を大切になさってください』
『そなたは、それで幸せなのだね』
『はい』
人のように心のこもった笑みは光と共に徐々に薄れ、光の粒子となって輝きながら再びリリアの魂に戻って行った。その様子を見届けると、精霊の王は翡翠のように美しい瞳を静かに伏せる。
『……我が一族の者と共に、その娘はそなたに託そう』
精霊の王の発した言葉に、クロウははっと息を飲んだ。
王は穏やかな表情でクロウに頷いてみせると、おもむろに右手を掲げ、クロウとリリアに向けた。
『この場で起きたことはすべてそなた達の記憶の中から消し去るとしよう。あちらで倒れている者達も同様に──』
「待ってくれ。俺の記憶だけは消さないでくれ」
クロウは慌てながら精霊の王の言葉を途中で遮った。だが、精霊の王は怒るでもなく、興味深そうに目を細める。
『ほう。人ならざる者の力を知ったままその娘の傍にいて、そなたは怖しくはないのか?』
「本当に恐ろしいのは人間のほうだ」
クロウがすぐさま答えると、精霊の王は人間離れした美しすぎる顔に初めて笑みらしいものを浮かべた。
「俺は今後、彼女にその力を使う事がないようこの命を懸けて守っていきたい。だから、俺の記憶は消さないでほしい」
『ふっ。そうか。なかなか面白いことを言う。ならばそなたの記憶だけは残しておくとしよう』
精霊の王の面白がるような声が、突然吹き突けてきた風に乗って聞こえてきた。思わず目を閉じたクロウは再び目を開け、瞠目する。
無惨に崩れていた大地がまるで時間を戻すかのように元の姿に戻っていく。大地から長く伸びあがっていた白い木の根のようなものも、しゅるしゅると音を立てながら地中へと消え去り、もとに戻った大地には、取り残されたように男達が横たわっている。
これが精霊の王の力。
「……あれ?俺はどうしてこんなところで寝ていたんだ?」
ルイの呑気な声がする。彼は半身を起こし、不思議そうに目をこすっている。その横ではシャイルが額に手を当て、釈然としない表情であたりを見回していた。ガルロイも意識を取り戻したとたんすぐに起き上がり、伸びている黒い服装の男達を縛り始めた。
クロウは眠っているリリアを起こさないよう慎重に抱え直すと、心から信頼できる仲間達の元へ向かってしっかりとした足取りで歩き出した。
固い決意を心に秘めて。
読んでくださりありがとうございます。待っていてくださった方々、大変お待たせいたしました。なんとか今月中にアップ出来ました。次で最終話になる予定です。遅くとも年内には完結できるよう頑張るつもりですので、どうか最後までお付き合いくださいね。よろしくお願いします。
*2/9 次で最終話ではないです。まだ続きます。すみません。




