19.リリティシア王女
リリアとクロウのお話です。
朝日に照らされた部屋の中はとても静かだった。
リリアはクロウの腕の中で、安心しきった様子で目を閉じていた。聞こえてくるのはクロウの鼓動と自分の鼓動の音だけ。
どちらも生きていると告げている。
「きゃっ!」
突然、クロウに横抱きで抱え上げられ、リリアは驚きのあまり小さな悲鳴を上げた。
「怖いなら、俺の首に掴まっていろ」
鼻が触れそうなところから優しく見降ろされ、リリアの顔は真っ赤に染まる。
「あの、下してくれませんか?……なんだか、私……」
「却下だ」
「え?!」
どうしてもクロウの顔を直視できなくて、おろおろと視線を彷徨わせながら彼にお願いをしてみたのだが、あっさりと断られてしまった。
驚きのあまり目を真ん丸にして見上げれば、彼は『くす』っと、小さな笑い声を漏らした。その笑顔はとても優しいものだった。
これまでにリリアに見せてくれたどの笑顔よりもどこか艶めいて見える。
「大丈夫か?」
ついクロウの顔に見とれて、ぼうっとしていたリリアは、心配した顔でさらに覗き込まれ、『ひやっ』と変な声を出してしまった。
以前の彼はリリアに対してどこか戸惑っているようなところがあったが、今の彼からは全くそのような様子は感じられなくなっていた。
まるで何かが吹っ切れたかのように真っすぐに見つめてくる彼の熱を帯びた眼差しに、なぜだがリリアの方が戸惑ってしまい、クロウの側から逃げ出したくなってしまう。
だが、クロウに抱き上げられた状態では、どこにも逃げる事が出来ない。
「あの……でも……」
リリアはあたふたと狼狽える。
「リリア、おまえは足を捻挫している。それに、……血の味がしたんだ」
「!」
クロウが発した言葉に、リリアの視線は無意識に彼の唇の上で止まった。
彼女の脳裏に柔らかな唇の感触がまざまざと蘇り、本当に火が出るのではと心配になるほど顔が熱くなる。
とても恥ずかしくなって、思わず両手で顔を覆う。
「口の中が切れているのだろ?おそらく身体もそうとう痛むはずだ。だが、奴らが仲間を集めて戻ってくることも考えられる。本当は無理をさせたくないのだが、すぐにここを離れたほうがいいんだ」
クロウは気遣うような目でリリアを見つめ、強引に抱き上げた理由を説明しはじめた。
リリアがこくこく頷けば、彼は少しほっとした表情を見せ、しっかりとした足取りで歩き出した。
「俺の抱え方で痛いところはないか?……エルバハルの屋敷に、打ち身に効く薬があればいいのだが──」
リリアの頭の上から、あれこれと気遣うクロウの声が降ってくる。
時間が経つほどに、リリアの体のあちこちがずきずきと鈍い痛みを感じ始めていた。彼が心配していたとおり、かなり激しく身体を床に打ち付けてしまったようだ。
おそらく、足首の捻挫が一番酷いかもしれない。揺れるたびに痛みが増してきている。きっとかなり腫れてきているにちがいなかった。
自分の足で立つ間もなく、すぐにクロウに抱き上げられたので、捻挫をしているという自覚さえなかったのに、彼は気付いていたのだ。
彼は出会ってからずっとリリアを気にかけ、とても大切にしてくれている。
ふとリリアが視線を上げると、クロウの頬にうっすらと血がにじんでいるのが目に止まった。そっと指先で触れれば、血はすでに乾いているようだった。
「どうした?」
驚いた表情を浮かべ、クロウがリリアを見た。黒曜石のように黒く澄んだ瞳にリリアの今にも泣きそうな顔が映っている。
「クロウ……」
告げたい思いが溢れてくるのにうまく言葉に出来なくて、リリアはわずかに唇を噛んだ。
大勢の敵を相手にし、これだけの傷だけですんだのはクロウが本当に強いからだ。だが、もしクロウを超えるほどの剣の使い手と戦っていたらどうなっていたのだろうか?
彼はリリアのために命を落としていたのかもしれないのだ。
「気分が悪くなったのか?」
足を止め、心配そうに尋ねるクロウの首にリリアは思わずしがみ付いていた。
「助けに来てくれて、ありがとう。……クロウ」
「……どこにだって、どんなところにだって、おまえが待っているなら、俺は必ず助けに行く」
抱きしめてくれる腕の力と同じく、力強くクロウに断言され、リリアは胸の奥から熱いものがこみ上げてきて呼吸が苦しくなる。小さく頷けば、クロウはリリアの頭上にまるで誓うように口付を一つ落とし、再び歩き出した。
大好きなクロウの腕の中で、リリアは幸せだと感じる以上に不安を強く感じていた。自分がクロウの側にいる限り、彼を危険な目に遭わせてしまうことに気付いたからだ。
リリアは自分のためにクロウが傷つくことがとても恐ろしいと感じていた。
薄暗い建物の中からクロウによって連れ出されたリリアは、朝の澄んだ空気に触れ、心が少し落ち着くような気がした。
昨日の雨が嘘のように、夜が明けたばかりの空には雲一つ無い。
クロウはリリアを抱いたまま、草が伸び放題の荒れた前庭を通り抜け、頑丈な鉄製の門扉のわずかに開いた隙間から一歩足を踏み出した。
「クロウ?」
リリアは不思議そうにクロウを見た。
クロウが突然立ち止まると、ゆっくりと数歩後ろに下がり、門扉の内側へ戻ったからだ。
彼は黙ったまま鋭い眼差しを正面に向けている。リリアも彼の視線の先を追う。前方はうっすらと朝靄に包まれ、道の両端に木々が生茂る森がぼんやりと見えるだけだった。
「……出てきたらどうだ?」
突如、クロウのよくとおる低めの声が朝の空気を震わす。
すると、朝靄の中からまるで浮かび上がるように一人の男が姿を現した。
「あっ! あなたは!」
商人の服装をした小柄な初老の男の顔を目にしたリリアが、思わず驚きの声を上げた。見覚えのある顔だったのだ。
男はリリア達を待ち構えていたのだろうか、驚いた様子もなく、ただ人のよい笑みを浮かべている。男の名は確かサンタンと言っていた。彼はリリアが馬車に乗る時にとても親切にしてくれた人だったのだ。
「私を覚えておいででしたか?」
「ええ、馬車ではとても親切にしてくださいましたね。あの時は本当にありがとうございました」
和やかに言葉を交わすリリアとサンタンとは対照的に、クロウは鋭い眼差しを向けたまま一言も言葉を発しない。
心配になったリリアがクロウの顔を覗き込んだ。
「クロウ? サンタンさんですよ。同じ馬車に乗っていた方です。覚えていませんか?」
サンタンを見据えているクロウの眼差しはとても険しく、彼がひどく警戒しているのが分かる。
「……オアシスからずっと俺達を探していたようだが、何の用だ?」
「え?」
クロウの言葉に驚いたリリアはサンタンを見た。
「おや、さすがですね。気付いておられましたか」
驚いたような口調ではあったが、サンタンの声はあまりそんなふうには聞こえなかった。では、クロウが言うようにサンタンはリリア達をずっと探していたといのか?
何のために?
「伯爵様はどうなさったのですかな?」
「伯爵?」
「この廃墟のような屋敷の中で、そのお嬢さんと一緒にいた男ですよ」
「……死んだ」
すると、サンタンは耐えられないとばかりに『くくく』と喉の奥で笑ったのだ。
その瞬間、リリアの背をぞくりと冷たいものが走り、咄嗟にクロウの服を強く掴んでいた。
「それは、それは、欲深い伯爵様は当然の報いを受けたようですね」
サンタンの薄く笑む目はとても冷たいものだった。
彼はゆっくりと辺りを見渡し、再びクロウへ視線を戻した。
「たった一人で、ここへ乗り込まれたのですかな?」
「おまえには関係ないことだ」
「確かに関係はないかもしれません。ですが、おおいに関心はあるのですよ。たとえば、あなたが大切に腕に抱いておられる、その目に翡翠の輝きを持つお嬢さんのこととか。その方がどれほど高貴な身であるか、クロウ殿はご存知なのですかな?」
「おまえも精霊信仰か?」
「この国の者はみな精霊を畏怖し、崇めておりますよ。ですが、現実的な意味で、ご存知なのかと?」
「興味はない。そこを退け」
まったく話に取りあわないクロウの様子にさすがにサンタンは焦りを感じたのか、とても気になることを口にし始めた。
「このまま王都へ向かえば、そのお嬢さんは殺されてしまう運命ですが、それでも興味がないと?」
「……勿体つける言い方だな」
クロウの声に苛立ちが混じる。
身も心も傷ついているリリアに向かって突然『殺される』などと、不安になるようなことを口にするサンタンという男に対し、クロウは怒っているようだった。
すでに得体のしれない恐怖がリリアの小さな体を小刻みに震えさせていたのを、抱き上げているクロウが気付かないはずはなかったのだ。
「申し訳ございません。どうしてもこのような言い回しなってしまうようです。私は商人なものですから、つい……。ですが、別に情報をあなたに売ろうとしているのではありません。ただ、私はあなた方のお役に立ちたいと思っているだけなのです」
喋れば喋るほどうさん臭さが鼻に付き、これ以上どんな話も聞きたくはなかった。だが……
「……おまえが知っている情報とは何だ」
クロウが少し興味を示した。
すると、サンタンは笑みを深くする。
「実は、私も先ほど手にしたばかりの情報なのですよ」
サンタンがリリアを見る目はまるで値踏みしているように感じられて、初めは優しいと思えていた彼の目が、今はとても恐ろしかった。
「私も聞いた時にはとても驚きました。そのお嬢さんは先王アルフレッド様の忘れ形見、亡くなられたとされていた王女リリティシア様だったのですから!」
「嘘よ! それは何かの間違いだわ! 私が王女であるわけがないもの!」
大袈裟に両手を広げ、驚いたと訴えるサンタンに向ってリリアは思わず叫んでいた。
「嘘などではありませんよ。さらに恐ろしい事に、あなたを取り巻く陰謀まで明らかになったのです。今やあなたは現王であられるシュティル国王陛下にとっては足元を揺るがす恐ろしい存在なのです。現にあなたを消すため、ひそかに探しておられたようですな」
思わずリリアは耳を塞いだ。だが、その瞬間『王都へは行ってはいけない』と言ったシャイルの声が耳の奥で響く。
(シャイルは本当のことを知っているの? おじいさんが大切な友達に会えなくなったのは私のせいなの? この私が王女だというの? 教えて! おじいさん! お願いよ!)
心の中でどれほどおじいさんに呼びかけても、リリアはもうおじいさんの優しい声さえ聞くことはかなわないのだ。
読んでくださり、ありがとうございます。初の連続アップです。やっとリリアは自分が王女であることを知りました。ヒロインとヒーローが今まで知らなかったことが不思議です。知らないままよくここまでこれたものだと感心しています。そして、サンタンがこれほど悪い男だったとは自分で書きながら驚いていました。次回もリリアとクロウの話は続きます。楽しんでいただけると嬉しいです。




