また僕のシャーペンの上でハエが交尾している
僕はハエが嫌いだ。
どうして嫌いなのか。その理由は誰に語らずとも理解されるものと思う。
万一、『どうして嫌いなのかわからない!』『犬や猫は好きなのにハエだけなんで!?』『奴らが何か悪いことをしたのか。これは差別だ』『ハエが可哀想!』と声高に叫ぶ者がいたならば、逆に聞きたい。『キミとハエの間に何があったのか?』と。さらに万一、こちらの目をじっと見つめながら種の壁を超えた愛をまじめに語り出す者がいるとしたら、僕は逃げるだろう。どこまででも逃げるだろう。
それからついでに言えば、僕は人前でいちゃつくカップルも嫌いだ。
『どうして嫌いなのか』って? 正直に言う。恐らくは僕に彼女がいないから妬んでいるのだと思う。
しかしながら、仮にいつか僕に彼女ができたとしても、人前でいちゃつくという行為を実際にしたり、それを好ましく思うようにはなりたくない。僕はそんな身勝手な大人にはなりたくない。でも彼女はほしい。できれば隣の席の矢野さんみたいな子がいい。矢野さんは素晴らしい。ショートカットの似合う、天真爛漫な女の子である。
◇
一時間目は国語だった。
授業が始まるとすぐに漢字の小テストが行われ、教室の中ではシャーペンの走る音だけがそこかしこで響いている。
奴らと出会ったのは、僕が残り時間を二分ほど残して全ての解答欄を埋めた時だった。
音もなく左右から同時に飛んできて、僕の目の前で合流。
そのまま流れるようなドッグファイトを繰り広げたかと思えば急降下し、僕の右手が握っているシャーペンの上へ。シャーペンの上部に備え付けられた小さな消しゴム。それを覆うプラスティック製のキャップの上で合体した。
つまり今、僕の持つシャーペンの上ではハエが交尾をしていた。あのハエが、僕の目の前で交尾をしているのだ。
僕は反射的にブチ切れそうになった。やつらの愛の巣を支えている右手はそのままに、余った左手を机の中へ。適当な教科書を取り出し丸める。
呪詛の言葉を吐きながら振りかぶり、二匹を絶命させようとした瞬間だった。
「おい、原! 何やってるんだ」
教師に自分の名を呼ばれ、僕は咄嗟に動きを止めた。小テストとはいえ、テスト中だということを忘れていた。
「なんだその教科書。カンニングか? あぁ?」
「いや、その……」
僕はしどろもどろになりながら弁明する。
「ハエが……して……いたんです」
交尾という単語は思春期まっただ中の中学生(僕)にはなぜだか恥ずかしく、クラスの視線が集まる中ではなおさら口には出せなかった。
「なんだ、おまえ。ハエ叩こうとしてたんか」
僕がそれを肯定すると、教師は煩わしそうに頷いて、それ以上何も言わなかった。クラスのあちこちから忍び笑いが漏れる。矢野さんも隣で笑っていた。シャーペンの上に視線を戻すと、あの二匹のハエはすでに姿を消していた。二匹が姿を消してしばらく経っても、二匹に対する殺意は消えそうになかった。
◇
二時間目は数学だった。
今日は朝からついていない。先ほどの恥ずかしさを思い出してため息をついた。
だが、塞ぎこんでいても何も変わらない。ネガティブな気分の時は考え方を変えなければいけないと思う。
先ほど本日の不運は使いきったのだから、きっと今日はもういいことしかない――。
「原、答えろ」
自分の世界に入り込んでいた僕に、教師が苛ついた様子でチョークを向けていた。
「……わかりません」
回答はおろか、何を聞かれているのかさえわからなかった。
「ぼけっとしてんなよ」
「すいません」
クラスのあちこちからくぐもった嘲笑が聞こえる。その中に小さく『ハエ』という単語が聞こえたような気がした。
くそっ。
僕は羞恥に耐えながらも、ノートに板書を始める。
その時だった。シャーペンの上におぞましい二匹の影が舞い降りた。
素直に言うと、嬉しかった。諦めていた復讐のチャンスが向こうからやってきたのだから。
だが、また教科書で叩こうとはしない。今はただでさえクラスで浮いているのだ。無駄な動きは一切控え、素早く確実に殺す。
ボクシングのジャブの要領だ。拳は軽く開き、脇の高さへ。脇を軽く締めた状態で構える。
――たまにハエを見かけると反射的に手で追いかける人間がいるが、そうそう捕まるわけがない。なぜなら手を出しながら考えてしまうからだ。本当に掴めてしまったらどうしようか、と。それは間違っている。
僕の両目がシャーペンの上で交尾を始めたハエ共に集中する。複眼を見つめ、僅かに震える羽のリズムに呼吸を合わせる。二匹のハエの、一瞬緩んだ気配を察知した。
――確かにハエはそうそう捕まらないが、掴もうとすることが間違っているのではない。自らの手を血に汚す覚悟もなく掴もうとすることが間違っているのだ。短い休み時間をまるまる潰して手の洗浄消毒を行う覚悟が必要なのだ。
僕の左手が蛇のように鋭く風を切った。
――森羅万象すべからくそうだ。覚悟のないものには掴めない。栄光も。ハエも。
ハエの前方から、逃走経路を塞ぐ形で手首を利かせて握りこむ。奴らの育んでいた愛も生まれてくる未来も全てを手中にする。今頃奴らは短い生涯を走馬灯のように振り返っているだろう。僕は無慈悲にそれさえ断ち切る。すでに握っている拳を手の甲に骨が浮くほど握りしめる。
僕は手のひらから伝わる感触を全て無視した。
殺生による興奮が過ぎ去り、胸中には一瞬の静寂が訪れた。
僕は神様に誓った。休み時間になりこの手を入念に洗うまでは、現世の一切の物に触れない、と。特に左隣に座る矢野さんの持ち物を汚すような愚はすまい、と。
それから確認をする為、眼前に左の拳を持ってきて開こうとする。
だが、待て。僕は先ほどこの世のあらゆる物を汚すまいと誓ったばかりである。この空気は汚していいのか? 僕が手を開けばハエの残骸があらわになる。例えばその血液や匂いが大気に混じり矢野さんの体内を汚すことになりはしないだろうか。
僕が逡巡していると、足元から小さくカシャっと音がした。左足の脇に、小さな可愛らしいペンケースが落ちていた。隣の矢野さんが落としてしまったのだろう。僕は反射的に左手を伸ばし、そして固まった。
――しまった。今の僕の左手は不浄の手。掴めない。ならばどうする、右手で行くか? いや不自然だ。右手を伸ばすスペースなんてないし、ここまで来て体制を立て直していれば矢野さんが拾ってしまう。矢野さんは拾ってあげようとして突然やめた僕を見てどう思う? 傷つくに決まっている。左手で拾うしかない。出来る限り汚れないように配慮して拾うんだ。象は鼻でも物を掴めるというではないか。二本の指があれば拾える。親指と――最も掌の中心から遠く、なおかつ表面積が少ない指――小指だ。
僕は落とさないように慎重に、彼女のペンケースをつまみ上げた。
笑顔で差し出す僕に、彼女がひどく落ち込んだ顔をしながら受け取った。僕は彼女の表情を見て自分の失敗に気づいた。汚さないようにとペンケースをつまみ上げる僕の行為は、事情を知らない彼女からすれば、落ちた汚いペンケースにあまり触れないように拾っているように見えるのだ。
僕は慌てた。
「あ、違うんだ、そうじゃない。そうじゃなくて、今僕の左手がね――ハエで……」
慌てて弁解しながら左手を開く。開きながら自分が彼女に何を見せようとしているのか気付き、頭が真っ白になった。
真っ白になった僕の目の前を、二匹のハエが仲睦まじく飛んでいった。
それが良かったのか、良くなかったのか。僕にはわからない。多分永遠にわからないだろう。
もしかしたら、僕には覚悟が足りなかったのかもしれない。開いた僕の左手には、何もなかった。
そして隣では矢野さんが怪訝な顔をしているので、僕は小さくゴメンと謝った。
◇
三時間目は体育だった。
みんなでサッカーをやった。
楽しかった。
◇
四時間目は理科だった。
授業が始まってすぐのことだ。
隣の席の矢野さんが、僕に話しかけてきた。
二時間目のことで怒っているんじゃないかと思ったが杞憂だったようだ。
「悪いんだけど、シャーペン一本貸してくれない?」
「うん、いいよ」
「本当にごめんね。さっきペンケース落とした時に壊れちゃって。予備もなかったからさ」
恥ずかしそうに言う彼女に、僕は右手で持っていたシャーペンを手渡した。
「ちゃんと殺菌して返すからね!」
「さ、殺菌?」
「うん、私って汚れてるみたいだから……」
矢野さんは悲しみに若干の怒りを混ぜたような固い笑顔を浮かべていた。僕がペンケースをつまみ上げてしまったことは、きっちり根に持っているようだ。
「いや、だから違うんだよ。僕のさっきのは、そういうことじゃなくて――」
その時だった。教室の上空に二匹の悪魔が顕現した。
僕は咄嗟に右手のシャーペンを見た。一時間目や二時間目とほぼ同じ時間に現れた。となれば、奴らがまたこのシャーペンを目指して来る可能性は高い。
そして、気がつく。しまった。奴らの愛の巣は、今僕ではなく矢野さんの手中にある。
僕は意を決して矢野さんに向き直った。
「矢野さん、申し訳ないけど、さっき貸したシャーペンじゃなくてこっちのシャーペンを使ってくれないか?」
矢野さんはきょとんとした。
「あ、そうだよね。いつも使ってるのを私なんかに汚されちゃ嫌だよね」
「違う! そうじゃない、そうじゃないんだ……」
奴らが僕らの周囲を旋回しながら、徐々にその半径を小さくしている。
「じゃあどうし――」
言いかけた矢野さんが目を見開いた。例のシャーペンを持ったままの矢野さんの右手を、僕は両手で握っていた。
「ほら。僕は矢野さんのことを汚いなんてこれっぽっちも思ってないよ。わかってくれ。時間がないんだ……」
僕の両手の中で矢野さんの右手が固くなるのがわかった。
だが急がなければならない。彼女に汚い物を見せたくない。彼女の右手の上でハエが交尾をするというのは、なぜだか僕には耐え難かった。
それは彼女が嫌な気持ちになってしまうからというのももちろんあるが――本当のところ、僕は彼女が好きでほとんど神格化してしまっているようで、なので『彼女』と『ハエ』と『交尾』なんてのを一緒に視界に収めてしまうとそれだけで彼女が彼女でなくなってしまうような気がしたのだ。実際に彼女の前でハエが交尾をしようが現実に大したことは起きないのだろうが、そんな気がしてしまって仕方ないのだ。
「わかんない。私、原くんが何考えてるのかわからないよ……」
握られたままの右手を抵抗することもなく、かと言ってシャーペンをこちらに渡す気配もなく、矢野さんは小さくそう言った。
「矢野さん。全部ハエが悪いんだ」
「またハエ……今日の原くんちょっと変だよ。一時間目からハエのことばっかり気にしてるみたいだった」
僕は矢野さんの手を握っていた両手を離すとため息をついた。
「そうだよ。今日はあいつらのせいで散々だった」
「ねえ、教えてよ。原くんとハエの間に何があったの?」
「あいつらは……」
僕は少し迷った。言うべきか、言わざるべきか。二匹のハエにたかられているなどと説明すれば、不潔なイメージを持たれやしないだろうか。決まって目の前で交尾しているなどと、矢野さんに言うのは恥ずかしすぎやしないだろうか。
逃げそうになる僕の目を、矢野さんの真摯な眼差しがまっすぐに捉えていた。
――言おう。
「その……僕のシャーペンの上で、こ、交尾をするんだ。……変な意味じゃなくてね。うん……一時間目も、二時間目も僕のシャーペンの上に来てて……今もほら、そこを飛んでる……だから、きっと……またそのシャーペンの上で――」
僕は驚いて言葉を止めた。話を聞きながら、矢野さんは薄く笑っているのだ。
「ふふ……あはは、なるほど。なるほどね。でも、原くん。原くんはもしかしたら重大な勘違いをしているのかもしれないよ」
「勘違い? 僕が?」
「そうだよ。もしかしたら、その二匹のハエは原くんのシャーペンの上を気に入っているんじゃなくて、原くんの右手の上を気に入っているんじゃない?」
「そ、そんな。いや、でも……」
「ね、だから。私がこのシャーペンを使ってても大丈夫だよ」
「でも、もしそれでそっちにハエが止まったら……」
「あはは、大げさだね。じゃ、賭けをしよう。そこを飛んでいる二匹のハエが、今私の持っているシャーペンに止まったら、なんでも言うことを聞いてあげる」
「え? じゃあもしこっちのシャーペンに止まったら?」
「うん、私の言うことを何か一つ聞いて?」
あどけない笑顔に、僕は思わず頷いてしまった。
その時、僕の肩口で羽音が空気を振動させた。いつの間にか、奴らがこんなに近くに……!
「来たよ、原くん。追い払うのは反則だからね!」
「う、うん」
奴らは二人の机の接地面を中心に、円を描くようにして少しずつ高度を落としていた。明らかにこれまでとは違う動きだった。
僕に二匹がどう動くのかわからないように、敵もまた迷っているようだ。
やがて、ふいっと二匹は僕から離れるとまっすぐに矢野さんの持つシャーペンに急降下していった。
それまで余裕を浮かべていた矢野さんの表情がふっと消えた。慌てず騒がず、ガラス球のようになった目でじっと自分の右手を見ている。
とうとう二匹が着地するかと思われた刹那、原さんの右手の中でシャーペンが鋭く回った。
目で追い切れないほどの一瞬の出来事だった。小さく何かが弾けるような音がした。
矢野さんはふうっと一つ息を吐くと「……ハエさんどっか行っちゃったね」と硬質な声で小さく言った。
矢野さんの言う通り、多分ハエさん達はずっと遠くに行ってしまったんだろう。そして、もう二度と戻っては来ないのだろう。
僕の想像を裏付けるようにシャーペンのロゴの部分には二つの小さな血痕がこびりついていた。
◇
日直の号令で一日の授業の終わりが告げられた。教室の中は慌ただしく帰る生徒達で途端に賑やかになった。
隣の席の矢野さんも同様だ。いつものようにささっと帰り支度を済ませると、特に何か言うでもなく教室を出て行く。
やはり少し寂しさを感じた。四時間目のやりとりでは少しは距離が縮まったような気もしたのだが。
二人で盛り上がったあの時間はあっという間に風化し、何事もなかったかのように日常が流れていく。
僕は恨みがましくシャーペンを見ると、それを筆箱にしまった。部活に向かう生徒を尻目に教室を後にする。
下駄箱で靴を取り出し履き替えた所で、後ろから声を掛けられた。
「原くん!」
見れば、矢野さんが緊張した面持ちで僕を見ていた。
驚いて、すぐに言葉が出なかった。
「ご、ごめんね……。よ、四時間目の勝負は……私の反則負けだよね」
「う、うん」
「あの……ごめんね。負けるって思わなくて……。なんでもするって言っちゃってたし……私……」
「や、矢野さん……」
初めて見る表情だ。緊張しているのは間違いない。その表情の中に少し憂いているような、照れているような半端な感情を混ぜ合わせていた。
「でも、うん。もう大丈夫。か、覚悟できたから! な、なんでも言うこと聞く……よ?」
彼女の緊張が言葉を通して僕に乗り移った。何を言うべきか、頭では迷いながらも口はすんなり動いた。彼女にして欲しいことなんて、四時間目が終わった時点で決まっていたのだ。
「そ、そっか……じゃあ、言いにくいんだけど……」
僕は自分のスクールバッグを下ろすと、中から筆箱を取り出した。それを開けながら、お願いをする。
「言いにくいんだけど……これ、ハエ潰した時の血痕が残ったままだから……その……」
矢野さんは何か言いたそうな表情をしたが、やがて顎に手を当てて何かを考える素振りをし、それから大きく頷いた。
「うん! ごめんね!! うっかりしてた! ちゃんと洗って返すよ!」
「いや、ちょっと拭いてくれればいいよ?」
「分解するよ! 漂白もするよ! 熱湯につけるよ!」
矢野さんの口調が不思議とムキになっているような気もする。
「う、うん? そこまでしないでいいよ?」
プラスチックだから熱湯はよくないと思うし。
僕の言葉が聞こえているのか、矢野さんは僕の手からシャーペンをむしりとると「またね!」と叫んで昇降口から外に駆け出していった。
短い階段を二段飛ばしで彼女が駆け下りる。
……怒っているんだろうか? 僕には彼女のことがよくわからない。
まだまだ僕と矢野さんの間には距離がたくさんあるのだろう。
何か知る度に勝手なイメージを裏切られて勝手にショックを受けたりもするのだろう。
それでも、今日のような日を重ねていっていつかわかりあえればいいと思う。
今日のような日か……。
僕は一日を振り返り、小さく小さく奴らに感謝を告げた。
矢野さんが駆け下りていった昇降口をゆっくりと歩きながら外に出る。
見上げると、空は雲ひとつない快晴で……。
僕の一メートル上空を、二匹の瀕死のハエが互いを支え合うようにして飛んでいた。