月の恩返し
おれはプロのカメラマン。
三十歳のダンディな男だ。
今年出版した、おれの写真集が、ベストセラーになった。月の写真のみを集めたもので、二年かけて、世界中のあらゆる場所から撮影した大作だ。
癒し系ブームにうまくのっかったのだろう。その写真集をきっかけに、世間では月ブームが起きていた。
月の柄の入った服やバッグが流行し、テレビでも月に関するドキュメンタリーが何度も放送された。今年の秋では、多くの若者がお月見パーティーを行うという社会現象まで起きていた。
おかげでおれの写真集も、順調に重版をかさね、印税はいっぱい入るは、テレビに出られるは、女にモテるはで、まさにウハウハな日々を送っていた。
そんなある日の夜のことだ。
仕事場のマンションで、フィルムの整理をしていると、玄関のインターホンが鳴った。
誰だろうと思って、玄関へ行き、ドアを開けると、おれは目を丸くした。
ドアの前に、何やら巨大な球体が浮かんでいたのだ。
「何だこりゃあ?」
ぼうぜんとしていると、その球体から、きれいな女性の声が聞こえてきた。
「こんにちは、月です」
「はあ?」
「月です」
「え?」
「いや、だから月ですって」
「月?月って、あの夜空に浮かぶ月?」
「はい」
おれは混乱しながら、その球体をよく見てみた。確かに、表面にクレーターらしきデコボコがあり、その姿は、宇宙図鑑の写真なんかで見る月の形とそっくりだった。
「いや、でも、月が、こんなところにいるって、ええ?」
混乱がおさまらない。
「実は、あなたに大事なお話がありまして、体を小さくしてここへ来た次第です」
ますます混乱して頭をかかえていると、月と名乗る球体は、
「失礼します」
と言って、ふわふわと飛びながら、仕事場にはいってきた。
「あ、こら、勝手に入るな」
あわてて追いかけた。
月は、仕事場の真ん中で静止した。
「わたしが月だという証拠をお見せしましょう。ほら、窓から空を見てください」
言われたとおりに、窓から空を見上げて、おれは、どひゃあと大声をあげた。ついさっきまで、夜空に浮かんでいたはずの月が、消えていたのである。そのせいで街は、暗闇に包まれていた。
これは、つまり、本当に月がうちに来たということか?
おれは、頭を無理やり落ちつかせて聞いた。
「と、とりあえず、わけわからないけど、あんたが月だというのはわかった。それで、その月が、おれに一体何の用があるんだ?」
すると月は、球体をねじまげておじぎをした。
「実はわたし、あなたに恩返しをしにまいりました」
「恩返し?」
「はい、あなたが出版してくださったわたしの写真集のおかげで、世間では月がブームとなり、わたしは一躍注目を浴びるようになりました。それがとてもうれしかったのですね。これは恩返しをしなくてはいけないと思い、こうしてやってきたのです」
何だこの状況は?頭が痛い。
「恩返しって、何を?」
「それは」なぜか急に、声が色っぽくなった。「わたしはお金なんて持ってませんし、昔話のツルのように、ハタを織ることもできません。・・・・・・あるのは、この熟れた体だけ」
「・・・・・・まさか」
ものすごく嫌な予感がした。
月は熱っぽくささやいた。
「そう、そのまさかよ。・・・・・・男と、女のこと」
「いやいやいやいやいやいやいやいやいや!いや、無理だ!それは絶対に無理だ!だいいち、人間と、月が、そんな、どうやってやるんだ!無茶だ!不可能だ!」
あとずさるおれ。
月は、そんなおれを壁際にまで追いつめた。球体の表面が、赤くなっている。
「ダメよ!わたし、覚悟してきたんだから!ああ、思い出すわ!あなたがわたしを撮影してくれたときの、真剣な眼差し!あの鋭い視線を思い浮かべながら、わたしは毎晩、クレーターを熱く濡らしていたのよ!」
月は強い力で、おれにおおいかぶさってきた。あっさりと倒され、悲鳴をあげるおれ。
「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
そのあとのことは、書きたくない。
思い出すだけで、激しい頭痛がしてくるのだ。
作者も、どう書けばいいのかわからんと言っている。
勘弁してくれ。
数ヶ月後の夜、散歩している途中、ふと空を見上げて、おれは腰をぬかした。
夜空に浮かぶ月の横に、もうひとつ、ひとまわり小さい月が出ていたのだ。
どこからか、
「パパー」
という声が聞こえたような気がした。
おしまい