私の悪い噂
とりあえず、問題がひとつ片付いた。しかし、問題は矢継ぎ早に発生する。
「ちょっと、あんた。待ちなさいよ」
ロッカー前で、息せき切って私を呼びとめたのは、カフェテリアで私にいちゃもんをつけたパンダ女の取り巻きの一人だ。あのパンダ女は、この学校のジョックスと仲睦ましき女子の最高峰、チアガールだった。クイーンビーってやつ。だから、取り巻きが大勢いるのだ。そして、取り巻きたちもたいがいパンダ。
取り巻きパンダがぱちぱち瞬きすると、冗談みたいに太くて長い付け睫毛が風を起こしそう。私はさっと顔を背けた。笑ってしまいそうだったからだ。
なんだ、その面白い睫毛。ジョークグッズを扱う店に行けば買えるの?
私は咳払いをする。名前で呼ばれたわけではないから、知らんふりをしようかとも思った。しかし、パンダ女が私の進行方向に回り込み、ロッカーに棒きれみたいな腕をついて行く手を遮ったから、そうもいかない。
私は渋々、パンダ女に顔を向けた。
「なに?」
「あの噂、本当なの?」
「私に関する悪い噂の大半は、お高くとまった私の態度の悪さが原因で悪意をもった連中が、私を誹謗中傷するために流したデマよ」
「あんたが、ハリー・オークウッドをふったって噂もデマ?」
「誰?」
樵みたいな名前だと思って訊くと、パンダ女は大きな鼻の孔をさらに膨らませた。
「うちの学校で、彼を知らない奴はいないわ。ハリー・オークウッド。アメフト部のキャプテンよ! クォーターバックの名選手」
話が見えてきた。つまり、その樵はジョックスの一員で、持ち前の過剰な自信と旺盛な差別意識から、私を落とそうとしたのだろう。そうして、一瞥もされずに振られた、と。
私は溜息をついた。ショルダーバックを肩に掛け直しながら、考えた。
この短絡的なパンダ女は、噂を聞いてすぐさま、私を探し出して捕まえたのだろう。女子生徒の中心にいれば、情報は真っ先に入って来る。つまり、私がハリー・オークウッドを振ったのは、最近の話だ。
そして、注目すべきは「私がハリー・オークウッドを振った」事実がそのまま噂として広まっている点だ。背丈と筋肉と自尊心だけが立派なジョックスが、自分の情けない話を広めるわけがない。広めるとしたら、私を侮辱する内容にすり替える筈だ。そういう被害は、過去に何度も被った。
恐らくは、オークウッドが私に振られたという事実を、第三者が目撃していたのだ。それも一人や二人じゃない筈だ。少人数なら、ジョックスが凄めば口止め出来る。口裏を合わせさせることも出来る。
つまり、昨日か今日、大勢のギャラリーの前で、私にちょっかいを出した自信過剰のバカ男こそ、ハリー・オークウッドだ。
私は忘却のダストボックスに放り込んだ記憶をさらった。ぐちゃぐちゃに丸めた記憶の欠片の皺を伸ばして確認する。一人、該当する男がいた。
今朝、一番の授業で私の隣に座った、岩石のような男のことを思い出す。傲慢不遜と差別意識のシンボルのような男だった。筋肉質の長身で、割れた顎は少ししゃくれている。厚い唇をしきりに舐めていた。自分ではセクシーだと思っているのだろうが、私の目にはさもしい野良犬みたいにうつる。
オークウッドは、私を際どい言葉で賞賛し、体を密着させ、しつこく遊びに誘った。下心が見え見えだったから、私はすっかり気分を害した。さりげないボディタッチが鬱陶しい。整髪料と汗の臭いが強くて、吐き気がする。
ぺらぺら喋る奴の言葉を遮って、私は言い捨てた。
「カッコつけて口説いてるつもりなら、相当まずいわね。好意的に見ても、盛りのついた獣の求愛行動としか思えない。見苦しいから、余所でやって」
オークウッドは目を剥いた。突然、足元で地獄の門が開いたら、人はこんな顔をするかもしれない。
ところが、あのバカ男は引き下がらなかった。あろうことか、私の肩を抱いて、耳元でこう言ったのだ。
「いいから、ちょっと付き合ってよ。君さ、バージンだろ」
続く言葉は想像がつく。
怖がらなくていい。俺に任せてよ。俺は慣れてるから、悪いようにはしないから。
そんな戯言に耳を貸す必要は一切ない。我慢してやる必要も。
私はシャーペンの先端を、オークウッドの割れた顎に突き立てた。オークウッドは大袈裟な悲鳴をあげて、のけ反って、椅子から落っこちた。床に転がるオークウッドを見下ろして、私は冷ややかに言った。
「誰が、あんたみたいな岩石を相手にするか。犬と付き合った方がまだマシだわ」
オークウッドは、顔を真っ赤にした。「イカれてるぜ」と捨て台詞を残して、先生と入れ替わりに教室を出て行った。
そうだ。そういうことがあった。私は納得して、パンダ女を見返した。パンダ女は視線で人を殺せるものなら殺してやりたい、という目つきで私を睨んでいる。
こういう女がいるから、オークウッドみたいなバカが調子に乗るのだ。私は大きな溜息をついた。
「それじゃ、私はモグリ確定ね。そもそも、興味ないし。あんた、こんなモグリと付き合わない方がいいよ。派手なお友達に、仲間だと思われたら困るでしょ」
パンダ女が絶句したので、私はその隙をつき隣をすり抜けた。
この悶着には決着がついたとばかり思っていた。しかし、低能の恨みと言うのは、実際にはなかなか根深いものである。
その日の授業が終わり、私は真っ直ぐ帰路につくことにした。放課後の予定はいつでも白紙だ。アルバイトをする必要はないし、他人に会うのは億劫だ。心のおもむくままに振る舞えないので、ストレスがかかる。
溢れかえる学生の間を縫って、無関心に通り過ぎて行く。その日はなんだか、女子が騒がしかった。なんでも、物凄いハンサムが学校の敷地内をうろうろしているらしい。
「彼、いったい何者?」
「誰も知らないって言うから、うちの学生じゃないと思う」
「アメフトやってそう。いい体してたもん」
「違うでしょ。全然日焼けしてなかったわ」
「歳は私たちと同じくらいね。入学希望者じゃないかな」
「こんな時期に? でも、そうだったら素敵よね。毎日、彼の姿を見られるわ!」
「ええ? ちょっと困る。あのグリーンの目に見つめられたら、骨抜きにされちゃう」
「安心しなさいって、あなたなんか相手にされないから。あのリジーが微笑みかけて挨拶したのに、無視したらしいの」
「うちのクイーンビーをシカト? いい男はやることが違うわ!」
「クールかもしれないけど……なんか変だったって。朦朧としてるみたいな」
「クスリキメてんの? フー! ますますクールじゃない。ラリってトんでて、クイーンビーが本物の蜂に見えたのかも。もしくは、ゲイ」
「そうでもなきゃ、あんなイイオンナをスルーする理由がないよね」
「なんか、どっかで聞いた話。ほら、入学早々、リジーに喧嘩ふっかけた、例の一年生。名前はそう、ミケイラ……なんてったっけ」
「知ってる。あの、くるくる巻き毛のブランド女。ちょっとモテるからって、勘違いして、いい気になってるんでしょ。そう言えば聞いた? ハリー・オークウッドが、そのミケイラとかいう女にふられたんだって」
「ええ? 嘘、ハリーもあの女の毒牙にかかっちゃったの? ショック! どこがいいのかしら」
「そりゃ、あんた。ルックスでしょ。それ以外に、いいところある?」
「えー? 綺麗かもしれないけど、性格の悪さが顔に出てるわよ」
何気なく耳を澄ませて盗み聞きしていると、話が私の悪口に変わってしまった。悪口なんて聞いても面白くないので、速足で女子生徒の集団を追い越す。一番声の高い女の肩に、思いっきり肩をぶつける。転んだ女の喚き声を背中で聞きながら、私は自分自身にうんざりした。かっとなりやすいところは私の悪いところだ。余計な敵をつくってしまう。
さっさとこの場を立ち去ってしまおう。後ろから凶器みたいに先の尖ったハイヒールを投げつけられる前に。そう思って歩調を早める。しかし、ド派手な赤い車が、派手なスキール音をたてて私の行く手を遮った。
「よぉ、ミケイラ」
運転席から現われたのは、オークウッドの日に焼けた巨体だった。驚いて固まってしまった私の腕を、オークウッドは無遠慮に掴む。私は我に返った。
「急いでるから」
「つれないこと言うなって。どうせ、この後の予定なんてないだろ?」
振り払おうとしたけれど、奴はびくともしない。伊達に、体格のいい男たちにタックルしたり、タックルされたり、振り払ったりしていないのだ。
力と体格差を脅威に感じる。覆いかぶさって来る親父に、怯えていた小さい頃を思い出してしまう。
私はきつい口調で言った。
「放せって言ってるの。岩石並みのIQじゃ、言葉が理解出来ない?」
オークウッドの米神が引き攣る。青筋を立てながら、無理に笑顔をつくった。
「そうだ、そうなんだ。だからミケイラ。賢い君に、ABC から教えて貰おうと思ってよ」