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私は性悪ミストレス  作者: 銀ねも
ミストレスの章
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私の突然の別れ

暴力行為が含まれます。身近な文房具が、間違った用途で使用されております。このような行為は犯罪です。決して真似はなさらないでください。

「……出来た」


 私は少し遠ざかって、スノーウィのお腹を見る。くすくす笑いがこみ上げてきた。スノーウィの腹には


『私はバカ犬です』


 と刻まれている。だらだらと流れた血が良い感じだ。ホラー映画のタイトルロゴにつかえそう。


 出来栄えに気をよくした私は、スノーウィの両腕を引っ張って、上体を起してやった。腹が圧迫されて、血が噴き出す。ちょっと見づらくなってしまったけれど、スノーウィに見せてやった。


「これは良い。よく似合う」


 そう言うと、スノーウィは褒められたと勘違いした。調子に乗って、私の顔を舐める。私はコンパスの針で、スノーウィの手の甲を思いっきり刺した。


 スノーウィはその後ずっと、お腹の刺し傷を見つめていた。時々、腹筋で体を起こし、傷跡をぺろぺろと舐める。スノーウィは私が掘った侮辱の言葉を気に入ったらしい。私は唇を尖らせる。


「お前はいかれてる。これじゃ罰にならないな。殴られても蹴られても、刺されても食事を抜かれても、放置されても平気そう。お前がされて嫌なことってなに?」


 スノーウィは目をぱちくりさせる。四つん這いでとことこやって来て、私の足に額を押し付けた。


 呆れてスノーウィを眺めていた私は、良い事を思いついた。スノーウィのお腹の傷を写真に撮る。その写真をシンクレアに見せた。泣きながら。


「私が、スノーウィを連れて出かけたいって言ったら、パパが怒ったの。このバカ犬が、お前を唆したのかって。それで、スノーウィにこんな、ひどいことを……」


 真っ赤な嘘だ。けれど、私の迫真の演技にシンクレアは騙されてくれた。演技というより、こどもの涙は武器なのだ。女の涙より強力である。捻くれ者でなければ、子どもの涙を疑わない。シンクレアのような人間なら、尚の事。

 シンクレアは、泣きやまない私を宥める為に、頭を撫でてくれた。彼に触れられると、びっくりするくらい嬉しかった。もっと触れて欲しいと、生れて初めて思った。


 私は上機嫌だった。スノーウィをベッドに上げてやった。スノーウィは私の隣で、仰向けになっている。


 スノーウィの頭を撫でて、私は言った。


「不都合なことは、ひとのせいにすればいい。それが賢いやり方。バカなお前にはわからないだろうけど」


 スノーウィは私をじっと見つめて、私の掌に頭を擦りつけた。


 私は得意になっていた。だから気が付けなかった。ママがドアの隙間から、こっそりと私のしたことを覗いていたことにも、ひどく心を痛めていたことにも。


 そして、事件は起こった。


 シンクレアには友人が多くない。たまの休日も仕事にあてるか、映画館で映画鑑賞をするか、図書館に籠るか。いずれも一人で事足りる。

 それは私にとって好都合だった。シンクレアの休日は、私の為だけに存在できるのだから。シンクレアの仕事柄、休日返上になることも少なくなかったけれど、そこは我慢だ。シンクレアから仕事を取り上げたら、かわいそうだから。


 風が強い日曜日。その日もシンクレアに会える筈だった。それなのに、ママは私が部屋から出ることを禁止した。試験勉強に集中しなさいと言う。

 私はびっくりした。ママがこんな風に、私に何かを強制することは、今まで一度だってなかったのに。


 その上、ママはスノーウィを空き部屋に閉じ込めるように私に言いつけた。スノーウィが一緒だと、気が散るだろうと言って。私はスノーウィを連れて行って、部屋の中に入れた。ママが用意したパンとミルクを与える。スノーウィが食べ終わると「待て」と言って扉を閉めた。


 部屋に戻って、私は溜息をついた。なんて日だろう。シンクレアには会えない。スノーウィがいなければ、憂さ晴らしも出来ない。私は仕方なく机に向かった。 


 夕方になって、ママが私の部屋にやって来た。

 やっと解放される。私は溜まりにたまったストレスを発散したかった。ママにスノーウィはどこ? と訊く。スノーウィの背中に的を書いて、ダーツをして遊んだら楽しそうだと、勉強に飽きた私は考えていたのだ。


 ところが、ママは涼しい顔で言った。


「スノーウィは逃げてしまったの。もう、あなたのもとには戻らないわ」


 あり得ない。あのスノーウィが、私の言いつけを破るなんて。


 でも、ママは逃げたのだと言い張った。窓が開いていて、たぶん、そこから逃げたのだろうと。


 それこそ、あり得ない。スノーウィに、ロックを解除して窓を開けるなんて芸当は無理だ。ボールを手でキャッチすることすら出来ない。


 私の言い分は正当だったけれど、ママは一切聞いてくれない。私がちゃんと「待て」をさせなかったのが悪いとまで言った。


 親父はスノーウィが逃げたとママから聞くと、ふぅん、と気のない返事をしただけだった。じっと私を見つめたけれど、何も言わなかった。


 ママが故意にスノーウィを逃がしたことは明らかだ。でも私は、親父に告げ口しなかった。


 私が迂闊なことをして、スノーウィを逃がしたということにしておいた方が良い。そうでなければ、うちは明日から父子家庭になりかねない。親父と二人きりなんて嫌だ。スノーウィが家に来てから、親父は私の部屋に足を運ばなくなったけれど、スノーウィがいなくなって、ママまでいなくなったら、これまでを上回る頻度で、来るようになるかもしれない。


 ママがスノーウィを逃がしたのは、ママが小心者だからだ。親父は「あれは綺麗だが脆すぎる」と、よく言っている。大方、私の遊びがエスカレートすることが、怖くなったのだろう。


 スノーウィは本物の犬のように鼻がきかない。耳もよくない。普通の人間よりは五感が優れているけれど、本物の犬には敵わない。

 何処へやられたのか知らないけれど、もう、戻って来ないだろう。本物の犬なら、戻って来ることも出来ただろうに。


 少し惜しい気がしたが、諦めることにした。スノーウィがいなくても、私にはシンクレアがいる。


 翌日も、シンクレアと会う約束をしていた。私はめかしこんで部屋を出る。すると、慌てた様子で、黒服がやって来た。


 シンクレアが失踪した。発信器も盗聴器も壊されていた。


 私は半狂乱になった。なんとしてでも、シンクレアを探し出せと喚き、当たり散らす。


「連れて来なさい! 今すぐだ。今すぐ連れて来ないと許さない!」


 黒服たちは血眼になってシンクレア宅を家探しした。


 部屋は綺麗に片付いていたそうだ。職場や、故郷に残した両親に宛てた、遺書めいた手紙が見つかった。シンクレアは、私には一言も残してくれていなかった。


 私は打ちひしがれた。もしかしたら、シンクレアは私という存在の恐怖に耐えかねて、自ら命を絶ってしまったのだろうか。


 しかし、それらしい死体があがったという話しはない。黒服たちはシンクレアの行方を探し続けた。

 三日後、ここから車で五時間ほど離れたガソリンスタンドの、定点カメラがとらえた映像が、私の許に届けられた。私は目を疑った。


 シンクレアがおんぼろのミニクーパーを運転している。後部座席には、犬のように四つん這いになった男の子が、落ち着きなく動きまわっていた。スノーウィだ。


 突如、私の前から消えたふたりが、一緒だった。だけどそれ以上に、私に衝撃を与えたのは、バックミラー越しにスノーウィを見るシンクレアの表情だ。


 愛情深い笑顔だった。あんな顔、見たことがない。

 耐えがたい侮辱を受けたと思った。震えがとまらない。


 私と言う人間は、恵まれている。体は健康だし、顔はちょっときつめだけど可愛い方だし、頭だって悪くない。

 世の中を愉快に過ごす為の力は、親父がすべて手に入れている。順調にいけば私はそれを、そっくりそのまま受け継ぐことが出来る。


 私は完全無欠だ。そう信じていた。しかし、そうではなかった。一番欲しいものが手に入らない。


 さかしらがっても所詮、私はガキだった。怒りとか、悲しみとか、嫉妬とか、やるせなさが嵐みたいに私をもみくちゃにして、木端微塵になってしまった。


 私は泣いた。贅肉にたるんだシンクレアの腹に顔をおしつけて泣きじゃくり、彼の胸を拳で叩きたい。分厚く湿った手で背中をさすって欲しい。抱きしめて宥めて欲しい。


 私は生まれて初めて、悔し泣きをした。シンクレアは、本当はちっとも私のものになっていなかった。どうしようもなく悔しかった。あんなに一緒にいたのに、私はこんなに好きなのに、シンクレアは一度顔を合わせただけのスノーウィを連れて、私から逃げてしまった。


 シンクレアの追跡を続ければ、遅かれ早かれ、見つけることが出来ただろう。しかし、私は捜索を打ち切った。私がそうしなくても、近いうちに、親父が待ったをかけただろう。親父は、あんなにスノーウィを気に入っていたのが嘘のように、興味をなくしていた。


 私は、大切なものがすっぽり抜け落ちた事を自覚して、私の日常に戻った。ママとは口をきかなくなった。


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