私の好きなひと
暴力行為が含まれます。身近な文房具が、間違った用途で使用されております。このような行為は犯罪です。決して真似はなさらないでください。
スノーウィは、目玉が零れ落ちそうなくらい、目を見開いた。ぱっと四つん這いになると、くんくんと甘えた鼻声を出して、私の周りをぐるぐる回る。親父はそんなスノーウィと、唖然としているシンクレアを見比べている。
ややあって、格子の前で腰を曲げて親父は、にっこりとシンクレアにほほ笑みかけた。
「ミスター・シンクレア。君は選ぶことができる。この子の犬になるか、それともこの犬畜生のように骨抜きにされてから、この子の犬になるか。好きなほうを選びなさい」
私はぱっと笑顔になった。親父さえ納得させられれば、シンクレアは私の物になったのも同然である。
シンクレアはスノーウィをじっと見つめている。憂いを含んだその眼差しは、私を慌てさせた。
スノーウィを痛めつけた私に腹を立てて、シンクレアが首を横に振るかもしれない。シンクレアが魂を引きぬかれて、ただの犬に成り下がるなら、こんな醜い犬、私はいらない。
私は跪き、格子にすがりついた。氷のようにかたくなに固まっているシンクレアに、懇願する。
「お願い。全部じゃなくていい。半分だけでいい。半分だけ、私のものになってください」
シンクレアは答えない。私は鉄格子に顔をくっつけて、訴えた。
「はっきりわかったんだ。私にはあなたが必要なんだって。あなた、言ったじゃない。私は可哀そうなんでしょ? それなら、私のものになって。私を慰めなさいよ!」
私はいかに彼を欲しているのかこんこんと説き、ついには泣き落としまで試みた。なりふり構わない口説き落としに、最初こそおもしろがっていた親父はそうそうに興ざめして、さっさと階段を上って行った。
私は明け方まで諦めずに彼を口説いた。声が枯れた頃、シンクレアはようやく固く閉ざした口を開いた。
「俺が君の犬になったら」
シンクレアの口から仮定とは言え妥協の言葉が出たことに、私は歓喜した。シンクレアは泣き腫らした顔を上げる。私と彼の間に、無理やり割り込もうともがいているスノーウィを見つめて、シンクレアは静かに言った。
「パパのようにはならないと、誓うか。その子の尊厳を認めると、誓えるか。君がその子を友達として慈しむなら、俺は……犬にでもなんでもなってやる」
シンクレアは大の大人の癖に、ウサギのように真っ赤な目をしている。笑ってしまえそうなのに、私は笑えなかった。
こんな男は初めて見る。誰もが私におべっかを使い、おためごかしを言い、私を利用しようとする。みんなが私を、守るべき、愛すべき子どもだとは思わない。
でもシンクレアは、私を普通のこどもと同じように見ている。何の得にもならないのに、私を憐れみ、私に説教をする。
こんな男は他にいない。私はシンクレアを自分のものにしなければならない。まるで天啓を受けたようだった。シンクレアを手に入れる為に、呼吸をするように嘘をつくことに、なんの躊躇いもなかった。
私はシンクレアの虜になった。彼の為なら、私はどこまでも寛容になれた。
私は彼に今まで通りの生活を許した。「私を何にも優先する」「パパの仕事の邪魔をしない」と言う制約を課し、発信機と盗聴器を持たせてプライバシーを奪ったが、たったそれだけのことでシンクレアは以前の暮らしを取り戻した。
親父の為に便宜を図らせるわけでもない。ただ、彼が進んで親父に敵対しなければ良いのだ。不都合な事実に目を瞑るだけでいい。手を汚す必要はない。
この慈悲深い条件にさえ、シンクレアは難色を示した。親父はこれ以上の譲歩は許さない。私が懇願すると、シンクレアは渋々、要求をのんだ。
私はシンクレアを解放し、自由にさせた。首輪にくくったリードの先は私の手の内にある。引けばすぐに私の元へ帰ってくる。
シンクレアと会う為に、その都度違うホテルのスイートを借りた。時間いっぱい話しをして、軽い食事をするだけだが、それは素晴らしい時間だった。
そこで、私は生まれて初めて「叱られる」という体験をした。ママに窘められることは、たまにだけれど、あった。だが、強い語調で間違いとされる行いや考え方を正そうとしたのはシンクレアが初めてだった。
「小鳥をくびり殺した? お前を噛んだから? 何を寝惚けたこと言ってやがる。お前が悪いに決まってるだろうが!」
「お前だって、初対面の奴にいきなり抱きしめられたら、驚くだろ。小鳥だって驚くんだ。お前と同じように、いろんなことを感じて生きてるんだからな」
「お前がしたことは、自慢できることじゃねぇ。いいか、生き物を傷つけるのは、絶対にしちゃいけないことだ」
「お前の気に触ることをしたら、みんな、片っ端から殺すのか? そんなことをしていたら、お前の周りじゃ、誰も生きていけなくなっちまうぞ」
「ひとりぼっちになりたいのか、ミケイラ?」
シンクレアは恐れを知っている。心のなかでは私を恐れている。それでも彼は、私を彼の思う「正しい道へ」と懸命に導こうとする。それこそ、命がけで。シンクレアの美学の好悪はともかく、捨て身で私の人生に食い込もうとする赤の他人は、どんな財宝より貴重だった。
「白い髪の男の子……あの子はどうしてる? ちゃんと、大切にしてるんだろうな?」
ある時、シンクレアが私にそう訊いた。私は「あの子は大切な友達だよ」と答えた。
私が平然と嘘をつくことを、シンクレアは察知していた。スノーウィを連れて来いと要求された。
私は「パパに聞いてみないと」と言って、返事は保留にした。
邸に帰ると、エントランスの絨毯を齧っていたスノーウィが、私の方へ一目散に駆けて来る。四つん這いで。私はスノーウィの肩を蹴った。スノーウィはいそいそと仰向けになる。無防備な腹を、私は自重をかけて踏みつけた。スノーウィが漏らした、ごく小さい苦鳴を聞きながら、私は項垂れた。
シンクレアが、スノーウィに会わせろと要求してくることは、予想していた。私だって、私の言うことなんて信じられない。
シンクレアを納得させる為に、私はスノーウィの再調教を試みた。人間のように振る舞わせたかったのだ。
しかし、スノーウィは人の言葉を話すことは愚か、二足歩行も出来ない。
つま先立ちになって、好物のステーキを頭上に吊るしてみても、スノーウィは立ちあがらない。くんくんと鼻を鳴らして私の足にじゃれつくだけだ。
幼児向けのABCの本を引っ張りだして来て、スノーウィに言葉を教えようとした。ベッドに上げてやり、傍らで伏せをするスノーウィに本を読みきかせた。
けれど、スノーウィは「私の後に繰り返せ」の命令をきかず、はっはっ、と荒い呼吸をするばかり。しまいには、唇をべろりと舐めてきた。
私はスノーウィの愚鈍さに失望し、頭にきていた。
調教師に頼めば問題は解決するだろうけれど、親父は承知しないに決まっている。親父は犬のスノーウィを気に入っている。蛇に唆されて禁断の果実を口にするような人間は信じられない。それが親父の信条だ。
私はスノーウィをベッドから蹴り落とした。
しばらくしてから、私は起きあがり、机についた。新しいテキストやワークブック、ノートに名前を書かなければいけなかった。スノーウィは当たり前に、私の足元に蹲り、靴紐を噛んでいる。
私の足首に頬ずりをして、のどかに欠伸をするスノーウィを見ていると、おさめた筈のイライラが再燃した。
どうしてシンクレアは、こんなバカな犬のことを気にかけるのだろう。私といるのに、このバカ犬のことを心配するなんて、酷い。
もしも私が、こいつを犬として飼っていると知ったら、シンクレアは怒るだろう。そして、バカ犬のことをもっと心配する。私のことを嘘つきだと嫌って、バカ犬を哀れむ。
気に食わない。シンクレアは私のことだけ考えていればいいのに。私のことだけ心配して、私の事だけ憐れんで、私だけのものになって欲しいのに。
私は椅子から立ち上がり、スノーウィの肩を蹴った。スノーウィが仰向けになる。私はスノーウィに着せているシャツを胸まで捲くりあげた。
学習道具を詰め込んだ鞄を漁る。目当てのものを探し出し、私はにんまりした。
「お前にぴったりな言葉を刻んであげる」
私が手にしたのは、コンパスだ。針のキャップを外す。柔らかい腹に、針の先端をあてがった。
垂直に、針を突き刺す。弾む肌に、針先が飲み込まれて行く。針を引きぬくと、血が玉のように浮かんだ。
スノーウィの顔を覗き込むと、スノーウィはきょろんとした目で私を見上げている。
つまらない。面白いお仕置きだと思った。泣き喚くかもしれないと。普通のペットなら、大騒ぎする。スノーウィには痛覚がないのだろうか。こういうところは、本当に可愛げがない。
でも、せっかくだから、出来上がりを見てみたい。私は気を取り直して、スノーウィの腹に針を突き刺し続けた