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私は性悪ミストレス  作者: 銀ねも
犬の章
43/44

犬の亡霊

 ***


 俺はミケイラに時間が欲しいと言った。ミケイラは承知したが、あまり長くは待たないとも言った。


「これくらいの願いを叶えられない愛なら、受け取る価値がない」


 そう言った彼女の悪戯な笑声を、俺は息を呑んで聞いていた。


 シンクレアが今、どこでどうしているのか。俺は知らない。俺とシンクレアは一切の連絡を絶っていた。


 姿を眩ませるように、俺がすすめたのだ。シンクレアが加担していると知ったミケイラの怒りが、彼の一身に向く可能性がある。


 そう告げたとき、シンクレアは寂しそうに笑って「俺のことを心配してくれるのか」と言った。俺はむっとした。

 別に、シンクレアがどうなったって構いやしない。俺はただ、ミケイラのどんな執着も、俺以外に向くのが許せないだけだ。


 俺は悩んだ挙句に、ミケイラをシンクレアの旧住居へ連れて行くことにした。もぬけの殻だと確かめて、一歩遅かったようだと言えばいい。


 俺はミケイラに、シンクレアの居所を突き止めたと伝えた。ミケイラはすぐにでもそこへ連れて行けと俺に命じた。


 シンクレアが住んでいたのは遠い街だ。列車とバスを乗り継がなければいけない。ミケイラにとっては、過酷な移動だ。耐えられるだろうか。

 

 俺の懸念を聞いたミケイラは、呆れた。


「あんたバカ? 私がそんな不潔な乗り物に乗るわけがない。車、出しなさいよ」


 そうは言っても、俺は車なんて持っていないし、運転も出来ない。正直に白状すると、ミケイラは呆れ果てた。


「使えないわね……わかった。私が車を出して、運転する。あんたは案内するだけでいい。いい? ナビゲーションも出来ないなんて、言わせないから」


 あまり自信がなかったのだが、俺は請け合ってしまった。これ以上、ミケイラを失望させるのはまずい。俺はほとほと、情けなかった。


 こうして、俺とミケイラは車で遠い街に出かけることになった。大任を帯びた俺は緊張していたが、それ以上に、ミケイラと二人きりで、出かけられることに浮かれていた。

 まるで恋人同士のようではないかと、思わずにはいられない。浮かれ過ぎて、うっかりサングラスを忘れるところだった。


 小さな青い車で迎えに来たミケイラは、顔と手の他の肌を隙間なく覆っていた。ニット帽をかぶり髪も隠し、サングラスまでかけていた。


 俺は少し残念だった。ミケイラはどんな格好をしても美しいが、ありのままの姿が最も魅力的なのは、まちがいない。


 それに、ミケイラは随分と痩せていた。もともと華奢だったのに、今は触れただけで折れてしまいそうだ。痛々しい姿を見ていると、胸が痛む。


 ミケイラをこんな目にあわせた奴は八つ裂きにしてやりたい。しかし、それは俺だ。俺は致命的な矛盾を抱えたまま、頭を抱えた。


 俺が助手席に乗り込もうとすると、ミケイラはとても失礼なことをされたかのように憤慨した。


「思いあがらないで! あんたなんか、後部座席で荷物に埋もれていなさい!」


 従って、俺はミケイラの大荷物を抱えて後部座席におさまった。発車した車内で、俺はしまったな、と思った。てっきり日帰りだと思っていたので、何の荷造りもしてこなかった。ミケイラは何泊する予定でいるのだろう。これだけの大荷物だ。少なくとも、一週間分はある。


 聞いてみると、ミケイラはルームミラー越しに俺を睨んで、眉を潜めた。


「なんで、私があんたなんかと泊らなきゃいけないのよ。泊る必要があるくらい遠出になるなら、先にそう言いなさいよね」


 ぷりぷり怒ってしまったミケイラに、俺は何も言えない。とりあえず、ミケイラの乱暴な運転で荷物が崩れないように大事に抱えて、押えていた。急停車、急発進で首をがくがくさせながら、可及的速やかに車の運転を覚えなければと心に決めた。


 俺は胸がときめくようなドライブを想像していたが、道中はそんなに甘いものではなかった。ハンドルを握ると、ミケイラはいつにもまして怒りっぽく、クラクションを乱打し、周囲の車に罵声を浴びせかける。一時でも油断すれば荷物がふっとび、首がすぽっと抜けてしまいそうな運転に堪えること、三時間余り。シンクレアが住んでいた家に到着した。俺は我慢が得意だが、到着した頃は疲労困憊だった。


 ヴィーナスが誕生したホタテ貝のように、真っ白な化粧漆喰の外壁をもつ家が建っている。その実、この家にはヴィーナスどころか、そもそも女性が暮らしている事実はないのだが。


 前庭の芝生は露を含んで重く冷たい。ポーチには木の揺り椅子がふたつ、ぽつんと置かれている。あれはシンクレアのお手製で、俺と二人で並んで、夕日を眺める為に西向きに置いたのだと言っていた。俺はそんな暇があったら、人間になる訓練にあてたかったので、数える程しか利用しなかった。いらなくなったから、置いて出たのだろうか。


 横手の庭には、夜露を含んで重く垂れ下がった洗濯物が、外壁と柵に渡されたワイヤーに一列に並んで垂れ下がっている。

 シンクレアは基本的に几帳面だが、しばしば洗濯物を取り込むのを忘れていた。今の住人もシンクレアと同じなのだろうか。


 胸騒ぎがする。なぜだ。この家はあまりにも、シンクレアが住んでいた頃と変わらない。まるで、シンクレアがまだここに住み続けているかのようだ。


 杞憂であってくれと俺は願った。しかし、俺は勘が良い。そして悪い予感ほど、的中するジンクスをもっている。


 家から出てきたのは、見覚えのある肥満体だった。脂ぎって光る禿げ頭、丸っこい脂肪の塊。遠くからでも、荒い息遣いが聞こえてきそう。あれは、シンクレアだ。まちがいない。


 シンクレアは、道の反対側に停車した見知らぬ車に注意を払わず、郵便受けからダイレクトメールの束を無造作に取り出すと、すぐに家に引っ込んでいった。


 俺は静かな混乱に戦慄していた。


 なぜ、シンクレアが未だここにいる? とっくにこの家を引き払って、遠いどこかへ高飛びしている筈ではなかったか? まさか、俺が振り込んだ金を全て、フィリップ・ターナーの妹にやってしまったのか? 残りはあんたの分だと、メールで送った筈だ。低能な豚め、字が読めないのか!?


「ふふ。シンクレア、ちっとも変わらない」


 ミケイラの笑い声で、俺は現実に引き戻される。俺のなかでさまざまな言葉が渦を巻いて、互いに互いを押しのけて、唇から外へ飛び出そうと争っている。なかなか、決着がつかない。


 俺はルームミラーでミケイラの表情を窺った。そして、目を見開く。


 ミケイラの綺麗な顔には、どこまでも透き通るような、郷愁だけがあった。


 俺は当惑した。ミケイラはどういうつもりだろう。少なくとも、シンクレアに復讐してやろうという腹ではないようだ。まさか、未だにシンクレアに未練があるのか?


 俺の嫉妬には簡単に火がつく。ミケイラを捕られて堪るか。たとえ豚が相手だろうと、ミケイラは渡さない。誰にも渡さない。ミケイラは俺のものだ。


「私とシンクレアの関係は、私の都合で、強引に一方的に始まった」


 ミケイラの言葉は、動きかけた俺に急ブレーキをかけた。ミケイラの声調はなんとも言えないものだった。例えるなら、年老いた老婆が、輝かしい少女時代に思いを馳せているかのような。ミケイラの若くみずみずしい肌に覆われた横顔には、彼女にふさわしくない、深い皺のような陰影がつけられている。


 ミケイラはしみじみと語った。


「シンクレアは歯車のなかで諦めずベストを尽くそうとした。親の権威を傘に着た分別のないガキは、完全武装したサイコパスみたいなものよ。私に積極的に関わることは、恐ろしくしんどかっただろうな。彼の心労を慮れば、私は彼の前から潔く消えるべきだ。彼は私の顔なんか、二度と見たくないだろうから」


 ミケイラの声はソフトで、木枯らしのように寂しかった。彼女はうっすらと微笑んでいたが、分厚いセーターに包まれた肩が、暑いくらいの車内で震えている。


 それは違うと、言うことは簡単だ。しかし、俺は嘘をつくことは出来なかった。聡明なミケイラを騙すことが出来るほど、嘘がうまくもない。


 俺はシンクレアを恨んだ。どうして、ミケイラをもっと大切にしなかった。俺なんかではなくて、ミケイラを大切にすれば、シンクレアの献身も報われただろうに。


 俺は懐かしい家の閉ざされたドアを見た。虚しい問いかけは届かない。届いたとしても、答えは得られないと思う。


 ミケイラはそっと自らの体を抱いた。


「シンクレアが私から離れてしまうことは、幼い私にもわかっていたわ。いつかその日が来ることは確約された未来だった。だから、ずっと恐れていたの。人はいつまでも騙されるものじゃない。どうやって引きとめればいいのかわからない。だからと言って、諦めるのは絶対に嫌だった」


 俺は無意識のうちに心臓を押えていた。掌に狂ったような鼓動を感じる。


 人はいつまでも騙されるものじゃない。どうやって引きとめればいいのかわからない。だからと言って、諦めるのは絶対に嫌だ。


 ミケイラも俺と同じなのだ。俺の天上の女神が、俺と同じような焦りを感じていた。

 

 ミケイラの心にはぽっかりと穴があいている。俺はその穴を埋めたかった。でも、それは出来なかった。俺は手を尽くさなかった。俺自身の前に限界の線を引いて、そこを飛び超えなかった。


 ミケイラは滔々と言葉を紡ぐ。


「シンクレアが私から放れていったのは、仕方のないことだった。スノーウィのせいじゃない。でも、認められなくて、ぜんぶあいつのせいにした。あいつは、私を恨んだ筈だ。それでも、最期まで……私のことを愛していた。報われなくても、裏切られても、私を愛してくれた。あんなことが出来るのは、たぶん、あいつだけ」


 かちん、と金属音がして、ミケイラはシートベルトの金具を外した。体ごと、振りかえる。


 俺はミケイラの濡れた瞳に見入られた。痛い程に、彼女は真摯に俺と向き合っていた。


「ブラック、あんた、私のこと愛してるって、言ったわね」


 ミケイラは固くこわばる喉を反らせて、声を絞り出す。


「なら、あんた……私のスノーウィに……私の犬になれる?」


 俺は心臓が大きく跳ねた。


 犬になれるか、だって? 何を言っているんだ、ミケイラ。だって、君には犬なんて、必要ないだろう? だからスノーウィを捨てたんだ。スノーウィの愛なんて、君にとっては何の価値もないだろう?


 どうしたんだ、ミケイラ。いったい、どうしたって言うんだ? どうして今更、そんなことを言うんだ?


 ミケイラは俺の視線に耐えかねたように俯いた。ほっそりとした頭顱で、弱弱しいおくれ毛が震える。


「私は空っぽなの。何も成し遂げていないから、生まれついて備わっているもの以外には、自力では何も手にしていない。失ったら、どうやって取り戻していいのかわからない」


 俺は叫びたかった。そんなことはない! ミケイラは俺の女神だ。素晴らしい女性だ。あなたが空っぽだとしても、それはあなたのせいじゃない。あなたという器は、完璧なのだから。


 それでも、俺の喉には何か大きな塊が閊えて言葉が出て来ない。


 何故だ? 俺の目の前にいるのはミケイラなのに、どうして俺は、鏡の前に立っているような錯覚にとらわれている?


 不意に、小鳥が羽ばたいたようだ。と思ったら、ミケイラの吐息だった。ミケイラは笑っている。無理をして笑って、言った。


「私を愛してくれるのは、可哀そうな犬だけなの」


 ミケイラは笑いながら泣いていた。俺はようやく悟った。ミケイラは、もう限界なのだということに。犬でもなんでもいいから、愛してくれる何かに縋らなければいけない程に追い詰められている。


 追い詰めたのは他の誰でもない、この俺だ。


 ショックで朦朧とする俺のなかで、誰かが俺を嘲弄する。


 やったじゃないか。全部お前の思い通りになった。おめでとう。おめでとう、クズ野郎。おめでとう、バカ犬。


 俺は心の底から、ミケイラがかわいそうだと思った。誰にも愛されなくて、可哀そうだ。自信をなくしてしまって、可哀そうだ。俺みたいなゴミ屑に騙されて、可哀そうだ。


 でも、俺は嬉しかった。安心した。涙が土石流みたいに流れ出して止まらなかった。赤ん坊みたいに声をあげて大泣きした。泣きながら、俺は呆れた。俺の涙はカランを捻ると出てくる水道水と同じくらいありがたみがない。シンクレアの涙と同じだ。


 俺は弾かれるようにシートから身を起こした。弾みでサングラスが飛んで行ったが、構っていられない。俺は泣きながら、運転席のシートを挟んで、ミケイラを背から抱きしめた。


 そうだ。俺はずっとこうしたかった。ミケイラを抱きしめたかった。そうして、ミケイラを全ての不愉快なものから、怖いものから、守りたかった。ミケイラには、幸せでいて欲しかった。


 俺の命はミケイラに拾われたものだ。俺は肉体も魂も、ミケイラのものだ。ミケイラは俺の幸せそのものだ。


 俺はミケイラに捨てられた。ミケイラを愛していたから、それだけ恨んでいた。俺は憎しみにかられて、ミケイラを俺のものにしようとした。俺はミケイラを愛していた。ミケイラの幸せが俺の幸せだった。あの純粋な愛情は嘘じゃなかったのに。俺の愛はいつのまにか、酷く変質していた。


 今、はっきりとわかった。俺は間違っていたのだ。だが、俺が己の過ちを悟ったときには、全てが終わっていた。


 もしも、俺の父さんがケインみたいな人間だったら、俺はこうはならなかったかもしれない。

 いや、それは言いわけだな。俺がこうなったのは、結局のところ、俺の選択だ。最後の決断は、いつだって俺自身に委ねられていた。


「俺はあなたを愛している」


 俺は涙声で言った。俺は幾度も心の中で繰り返して来た、しかし一度も伝えたことは無かった、聖なる誓いの言葉だった。


「あなたの為ならなんにでもなる。なんだって出来る。俺は生きている限り、いいや、死んでもあなたを愛し続ける。俺があなたを守るから……だから、もう、大丈夫だから。だからお願い、もう泣かないで」


 俺はミケイラを強く抱きしめた。はじめから、こうするべきだったと、今更ながら気が付いた。


 俺はミケイラを愛している。俺は誰よりもミケイラの寂しさを理解している。ミケイラの寂しさは、俺によく似ていたから。


 だから、俺には出来る筈だった。全ての障害を踏み超えて、震える彼女を抱きしめる事が出来る筈だった。


 しかし、俺は自分の居心地の良さを優先して、犬の立場に甘んじた。それが、そもそもの間違いだった。


 ねぇ、ミケイラ。今からでも、間に合うかな? 今からでも、俺はあなたを愛していいだろうか? 俺はあなたに、幸せになって欲しいんだ。あらゆる不幸から、俺があなたを守ると誓うから……だから、あなたの傍にいてもいいかな。


 俺はミケイラを抱きしめた。俺の体温をミケイラとわけあいたい。俺がもっているものはなんだって、ミケイラのものだ。ミケイラの為に俺は生れて来て、そうして生きていく。


 ミケイラが凍りついたように動かないことに、俺は気が付かなかった。洟を啜って顔をあげた時に、俺はその理由を知った。


 ルームミラーには、目玉が零れ落ちそうなほどに目を見開いたミケイラがうつっている。ミケイラを抱きしめているのは、俺では無かった。


 死んだスノーウィが、凄まじい形相で俺を凝視している。血塗れの顔の中で、瞳が緑色の炎と化して燃えていた。


「……スノーウィ?」


 ミケイラが半ば呆然として言った。はっと気がつくと、ルームミラーにはミケイラと、俺の素顔がうつっている。


 そしてミケイラは、射るような眼差しを、この俺に向けていた。




≪END……?≫


「私は性悪ミストレス」の本編は、これにて完結になります。長い間お付き合い頂きまして、誠にありがとうございました。


今後、番外編「カエルの王様の章」を連載予定です。本編で語りきれなかった部分を捕捉していきます。

よろしかったら、そちらもお付き合い頂けますと、幸いです(’-’*)♪

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