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私は性悪ミストレス  作者: 銀ねも
犬の章
42/44

黒い犬

残酷な描写、グロテスクな描写があります。ご注意願います

 ***


 俺は藪に身を潜める猛獣のように、ミケイラを待ち構えた。


 馴染みの面子が出たり入ったりする。一人静かに杯を傾ける奴もいれば、数人でテーブルを囲み談笑する奴らも、カードゲームに熱中して騒ぐ奴らもいる。

 中には俺の同業者もいて、カウンターに身を乗り出し、日々の仕事の口を探している。


 この店の馴染み客には、俺の邪魔をするバカはもういない。俺がどういう奴か、皆わきまえているので、余計なちょっかいをかけてくることはしない。下手に俺を刺激したらどうなるか、見て聞いて体験して、知っている。


 今日も今日とて、見飽きた顔が揃っている。クマのような毛深い男もまた、決まった時刻に来店した。


 色情狂でとにかく気が短い男だ。気に入った相手はすぐに、ベッドに連れ込もうとする。無鉄砲な若者らしく、恐れるものは何もないといった顔をしている。無節操なバイセクシャルでもある。俺も声をかけられたことがあった。


 俺はミケイラの他の人間には、塵ほどの興味もない。女に言い寄られても、鬱陶しいだけで迷惑だ。男に迫られるのは、迷惑どころではない。男に触れられるのは嫌だ。客をとらされていた頃を思い出して、発作的に死にたくなる。


 無視を決め込んだのだが、クマが逆上して殴りかかって来たので、顎を殴りつけた。ギャラリーが昏倒したクマの懐から財布を抜き取り、酒盛りを始めた。


 それきり、クマは懲りたようで、俺と目も合わなくなった。しかし、クマは毎週月曜日に来店する習慣は変えなかった。


 そうして、クマが獲物を物色している真最中に、ミケイラが来店した。


 支配人は俺が言った通り、ミケイラを俺の指定席の隣に誘った。俺は陰から、ミケイラを見つめていた。

 落ちつかずにきょろきょろするミケイラは、小動物めいた愛らしさがある。高飛車で堂々としている彼女が好きだが、こういう意外な一面も愛しい。ミケイラに思いもよらない一面があったとしても、俺の愛は変わらない。俺はミケイラのすべてを愛する。


 俺は隠れてミケイラを見ていた。こんなに近くから彼女を見るのは、久しぶりだ。俺の胸は否が応でも高鳴る。


 そうして案の定、クマはミケイラにちょっかいをかけた。最初こそ穏便に済ませようとしたミケイラだったが、すぐに我慢の限界に達して、辛辣にクマを袖にした。こういう、短気なところは昔と変わらない。俺は嬉しくなった。

 だが、喜んでばかりもいられない。クマは他愛なく頭に血をのぼらせる。あろうことか、ミケイラに手を上げようとした。


 俺は弾丸のように飛び出して、クマを取り押さえた。


 クマは俺を忌々しげに睨んだが、逆立ちしても俺に敵わないことは骨身にしみている。すごすごと退散して行った。


 こうして俺は計画通り、最良のかたちでミケイラとの「出会い」を果たした。


 俺は初めて、人間の男としてミケイラと話した。この運命の日の到来を決めてから、俺は何度も何度も、想像の中でミケイラとの会話をシュミレーションしてきた。しかし、その成果は捗捗しくなかった。


 ミケイラはとても綺麗だ。良い匂いがする。彼女という存在は、俺を酩酊させてしまう。気取った話し方をする彼女の美声を、俺は夢見心地で聞いていた。


 ミケイラだ。本物のミケイラが俺の目の前にいる。顎を少し上げて、低い位置からでもこちらを見下ろすような、つんけんした話し方は、小さな少女の頃のままだ。愛おしい。挑発的な物言いもそうだ。こんなに小さくて華奢なのに、女王のように振る舞ういじらしさも変わらない。ああ、なんて愛おしいのだろう!


 ミケイラは変わりつつあるのだと思っていた。成長という彼女の変化は寂しかった。俺を置き去りにしてしまっていると思ったからだ。


 けれど、実際にこうして会ってみれば、ミケイラには昔と変わらないところがたくさんある。俺の知っている小さい可愛いミケイラだ。俺のミケイラだ。俺は感動した。


 俺はミケイラと話をした。辛うじて平静を装っていたが、実際は殆どパニックに近い状態だった。体中の細胞が炭酸みたいに弾けている。くすぐったくて、それが心地よい。完全に上ずっていて、足の裏が数インチ浮かんでいるようだ。


 何を喋ったのか、よく覚えていない。とにかく、ミケイラに警戒されないように、好感をもたれるように、注意を払っていたことは間違いない。俺は俺がこれまで排除してきた無礼な男どもとは違うのだと、必死でアピールしていた。


 話しているうちに、ミケイラは少しずつ肩の力を抜いてくれた。それがとても嬉しかった。ミケイラは男が嫌いだ。それなのに、この俺に付き合ってくれている。やはり、俺とミケイラは運命の二人なのだ。俺は有頂天だった。


 会話の切れ目で、ミケイラはふと口を噤んだ。瞳が心許なさそうに揺れる。儚げな気配は彼女をどこまでも可憐に見せて、俺は見惚れるばかりだ。


 そして、ミケイラは信じられない言葉を口にした。


「あんたには助けられた。……あんたが守ったのは、あんたの席なんだろうけど……ついでに私も助かったの、その一杯は私が奢るわ。……ありがとう」


 ふんわりと微笑んだミケイラは、俺に未知の感情を与えた。これはなんだろう。俺という人間の根本を揺るがせる……原始的な恐怖というのだろうか。


 俺は涙を堪えることが出来なかった。


 ありがとう、なんて。ミケイラは言うべきじゃない。俺はクマがあなたに絡むことを知っていて、ミケイラをここに呼び出させた。俺がミケイラに好かれる為にそうした。


 それなのに、どうして俺に感謝するんだ。俺にはそんな資格はない。俺はミケイラを手に入れる為に、ミケイラを不幸のどん底に叩き落とそうとしているんだぞ。


 ミケイラの誠意が俺の心に爪をたて、ずたずたに引き裂いている。愛憎が痛みとなって俺の総身をかけめぐった。


 ミケイラの感謝は、こんなに軽いものだったのか。出会ったばかりの男に、惜しげも無く饗される程度の安物だったのか。


 それならばどうして、全身全霊を賭して尽くしたスノーウィには、何も感じなかったのだ?


 ああ、ミケイラ。あなたは間違っている。あなたの優しさは、スノーウィにこそ与えられるべきだった。あなたはすれ違うだけの人間に、優しく出来る。ならばなぜ、スノーウィにその優しさを、ひとかけらでも与えてくれなかった? 


 俺は、俺は優しい言葉が欲しいんじゃない。優しく撫でて欲しかったんじゃない。いや、本当は欲しかったさ。だが、俺はそこまで高望みはしなかった。


 ただ、俺を傍に置いてくれれば、それだけで良かった。そうしたら俺は見返りも求めずに、ひたすらあなたに尽くしたのに。


 それなのに、どうして俺を捨てたんだ!?


 激情の竜巻に揉みくちゃにされ、俺は木端微塵にされる。更地に残るのは、俺の胸にじんわりと暖かく息づく、幸せな記憶だった。


 ミケイラの柔らかい掌が、恐る恐る俺の頭を撫でる。愛らしい顔にはにかんだ笑顔を浮かべて、小さなミケイラがスノーウィを褒めてくれる。


『よくやった、スノーウィ。偉いぞ、良い子』


 ミケイラ。俺のミストレス。俺の最愛の主人。どうしようもない俺に生きる喜びを与えてくれた。あなたの犬でいられた俺は世界で一番幸せだった。


 俺は人間でいたいと思っていた。でもミケイラと出会ってから、そんなことはもう、問題ではなくなった。ミケイラの傍にいられるなら、犬であろうが人間であろうが、どっちでもよかった。同じように幸せでいられた。


 感謝なんて、されなくても良かった。ミケイラが俺を必要としてくれるなら、俺は満足だった。


 俺はミケイラのものでいられて、本当に幸せだった。それなのに、ミケイラは俺を捨てた。


 ミケイラは去った。地獄の門をくぐって行った。引きとめるなら、最後のチャンスだ。しかし、俺は引きとめなかった。


 俺はミケイラが地獄に堕ちると知っていて、黙って見送った。


 気高いミケイラが散々蹂躙されて、襤褸雑巾のように捨て置かれたのを、俺は見ていた。亡霊のようにふらつきながら家路につくのを後ろから見守っていた。


 病院で医者にかかり帰って来たミケイラは、魂のない人形のようだった。心が壊れてしまったのかと、俺の方が恐怖に震えあがった。


 ミケイラが膝を抱えて、閉じこもっているだろう部屋の閉ざされた窓を見つめていた。


 ミケイラが心配だった。ミケイラは深く傷ついてしまった。ミケイラは不幸になってしまった。女神のようなミケイラが受けるべきではない、恥辱の極みを味わってしまった。


 俺がそうした。すべて、俺のせいだ。俺は七転八倒して、悶絶して、苦しみ抜いた。


 俺は身も心もボロボロになった。だが、ミケイラはもっとボロボロだ。ちゃんと食べているのだろうか? ちゃんと眠っているのだろうか? まさか、死神の訪れを心待ちにしては、いないだろうか?


 本当なら、俺はミケイラの許へ飛んでいきたい。しかし、それは出来ない。その前に、俺は生まれ変わる必要がある。


 俺はフィリップ・ターナーを呼び出した。親しいひとの葬儀に参列したような暗い表情で呼び出しに応じたフィリップ・ターナーを、俺は正面から殴り倒して昏倒させた。


 フィリップ・ターナーは、スノーウィとして死ななければならない。


 俺はフィリップ・ターナーを切り裂きながら、優しいと言って良い口調で語りかけた。


「大丈夫。お前の妹には手術を受けさせる。お前は自分の命で、妹の命を買ったんだ」


 フィリップ・ターナーが俺の言葉をちゃんと聞いたかどうかは、甚だ疑問だ。最期まで、俺に殺されるという事実を理解出来なかったようだった。奴はずっと、「なぜ?」と叫んでいた。


 なぜと言われても、困る。これは必然だとしか答えようがない。


「なにはともあれ、妹の為に死ねるんだ。お前も本望だろう?」


 俺がそう言った時、フィリップ・ターナーは既にこと切れていた。


 こうして、俺は生まれ変わった。ミケイラがくれた新しい名前は、ブラックだ。


 ミケイラの誕生日から一月後。俺はフィリップ・ターナーの携帯電話から、ミケイラに電話をかけた。ミケイラは通話に応じた。そうするだろうと予測して電話をかけておいてなんだが、俺の心中は穏やかではない。


 妬く必要なんかないだろう? フィリップ・ターナーという男はミケイラの前には現われなかった。あれはスノーウィだった。ミケイラが愛したのはスノーウィだった。


 ミケイラが衰弱していることは、電話口からでもわかった。俺の心は壊れそうだ。今すぐにミケイラの許へかけつけて、彼女を抱きしめたい。しかし、それは時期尚早だ。まだまだ時間をかけなければならない。


 ブラックという男は、ミケイラの唯一の男となる為に生れて来た。彼女の信頼を勝ち得ていかなければならない。


 ミケイラは面白いくらい、俺のつくった「真実」を鵜呑みにしていた。そんな素直で迂闊なところも愛おしい。


 スノーウィの死を告げられたミケイラは取り乱した。俺は歪んだ喜びを噛みしめる。


 あのミケイラが、スノーウィの死に動揺している。どんなに強がっても、俺にはわかる。彼女は確かにスノーウィの死に打ちひしがれていた。


 狼狽するミケイラに、クズ男どもから贈られたメールを転送して追い打ちをかける。メールに添付された写真を見たとき、俺は涙がとまらなかった。その足でクズどもの塒を襲撃し、隠れ家に連れ込まずにはいられなかった。


 メールを読んだと言ったミケイラはきっと、顔面蒼白だっただろう。それでも必死に強がっていた。俺は彼女を抱きしめたい衝動にかられながら、決意を表明した。


「俺がこの男たちを殺す」


 男たちの心臓はまだ、動いている筈だ。


 ただし、目は見えず耳も聞こえず口もきけない。歩けないし、掴めない。三人とも、仲間のケツに口を縫いつけた状態で放置してある。俺がこれ以上手をくわえなくともいずれ、ふさわしい汚辱に塗れて死ぬ。


 俺の迅速な対応など露知らず、ミケイラは苛立たしげに舌打ちをした。


「ふざけないで。私にとっては、深刻な問題なの。事と次第によっては、本当に人が死ぬかもね」

「俺は大真面目だ。あなたの力になりたい。あなたの敵を殺したい。俺はあなたを愛しているんだ」


 言ってしまってから、愛を伝えるには早すぎただろうかと、少し後悔する。しかし、本当のことだ。俺はミケイラの存在を知った瞬間からずっと、ミケイラを愛している。


 ミケイラは何やら思案を巡らせていたようだ。やがて、推し量ろうとするかのように、ゆっくりと言った。


「何が望み?」

「あなたを愛している。あなたのものになりたい」


 ミケイラは俺の発言に驚いたようだ。俺も驚いていた。


 ミケイラのものになりたい? 俺は何を言っているんだ? 俺はミケイラを俺のものにしたい。もう、犬なんてまっぴら御免だ。それを言うに事欠いて、あなたのものになりたい? 俺はまた舞い上がっているようだ。わけのわからないことを口走っている。


 幸いなことに、ミケイラは俺の失言をさほど気にとめていないようだ。俺に「とってこい」と命令した。


 俺は二つ返事で快諾した。通話を切った後も、俺の興奮はなかなかおさまらなかった。これで、ミケイラとの繋がりをもつことが出来た。これから始まる。ミケイラとブラックの新しい世界が。


 翌日、俺はミケイラにメールを送った。クズ男どもの汚らわしい末路をおさめた写真を添付して。俺は携帯電話を握りしめ、返事を今か今かと待ちわびる。


 ところが、一週間たっても音沙汰がない。俺はやきもきした。ミケイラは気に入らなかったのだろうか。生ぬるかったか。もっと趣向を凝らすべきだったか。


 俺は悶々と悩んでしまった。何も手につかない。仕事なんか出来ない。クズ男の死体の始末も出来なかった。寒い季節とはいえ、さっさと片付けないと目も当てられないことになると、わかってはいるのだが。


 気をもんでいると、待ちかねていた連絡が入った。ミケイラからの電話だ。「よくやった、偉いぞ、ブラック」


 ミケイラの声は、以前よりしっかりしているように聞こえた。俺は素直に嬉しかった。少しは食べているのだろう。眠ってもいるのだろう。本当に良かった。


 それに、褒められた。ミケイラの「よくやった」は本当に堪らない。俺を天国に運んでくれる。


 喜びを噛みしめてから、俺はとってつけたように抗議した。


「俺は犬じゃない」

「でも、あんたってまるで犬みたいよ」


 ミケイラがくすりと含み笑う。吐息が電話越しに俺の耳朶をかすめたようだ。俺の体の芯に甘い痺れがはしる。


 俺の沈黙を間違って解釈したらしいミケイラは、苦笑して言った。


「はいはい、あんたは犬じゃない。わかったから、怒らないでくれない? 私って一応、かよわい女なの。あんたみたいなデカブツに凄まれたら、ぶるぶる震えがくる。おわかりかしら?」


 そう嘯くミケイラには怯えた様子はない。少しもない。ミケイラは笑みを含ませて言った。


「あんたは、出来る子ね。せっかくだから、もうひとつ頼もうか」


 俺ははりきって頷いた。ミケイラが望むなら、たとえ魔王の首でもとってくる。

 しかし、ミケイラの望みは俺の想像とはまったく違った。


「ケイン・シンクレアという男の居所をつきとめて。私をそこへ連れていきなさい」


 その瞬間、俺の世界は音と光を喪失した。


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