私の運命の出逢い
ママの足音が聞こえなくなったのを確認してから、私はベッドから抜け出し、自室からも抜け出した。ベッドの傍らの寝床で丸くなっていたスノーウィが、四つん這いでついてくる。追い払っても遊んでもらっていると勘違いして楽しそうについてくる。待て、と命じれば一発だが、考え直して、好きにさせておくことにした。
スノーウィは、忠実な犬だ。私の命令には絶対服従する。ならば、傍につけておいて、不都合なことはない。
親父は眠る時にも、枕の下に拳銃を隠しておく。邸の中が安全だとは言い切れない。黒服たちが味方だとは、言い切れないからだ。
親父の周りは敵だらけだ。親父が敬われているのは、単純に、親父の後釜を狙う連中より、親父が賢くて強いから。そのパワーバランスが、いつまでも崩れない保証はどこにもない。
「俺たちは綱渡りをしている。ここが細い一本のロープの上だってことを忘れるな。少しでもバランスを崩せば、ワニが大口開けて待ち構えている川にドボン。ジ・エンドだ」
物心ついた頃から、寝物語でそう言い聞かされてきた。
スノーウィを連れていれば、いざと言う時に役に立つだろう。盾くらいにはなる。だってスノーウィは私のことが大好きで、私の為ならなんでもするのだから。
親父から地下牢の鍵を預かっている。思いたった時にいつでも、かわいそうな連中の末路を見学出来るように。付き添いが必要な、なよなよしたこどもではないことが、親父と、私自身の自慢である。
地下牢の一番奥に、シンクレアはいた。すすり泣く声と、ぐすぐすと鼻をすする音でそうと知れた。あえて足音を殺さずに牢の前に立つ。シンクレアは来訪者に怯えて隅で息をひそめていたが、私だとわかると、目を瞠った。
「きみ、きみは……」
シンクレアは目をきょときょとさせている。口をもごもごさせて、やっと言った。
「まだ起きていたのかい」
嘘みたい。この男は本気で、私をただの子どもだと勘違いしているのか。
そうではないと、わからせてやった方が良さそうだ。私は親父の真似をして、肩を竦めて笑った。
「パパはとっておきのシャンパンをあけてはしゃいでいるよ。面白い殺し方を思いついたんだと思う」
「それは……俺の?」
「もちろん」
シンクレアが項垂れた。薄茶色の染みが、点々と項に落ちている。みじめな男は、かわいそうこどもと侮った私を前にしても、体裁を取り繕えない程におののいているようだ。
少しばかり溜飲がさがる心地がするが、決定的にではない。私はシンクレアを見下ろして、追い打ちをかけた。
「どうして、私に見られたくないなんて言ったの? 私はひとが死ぬところなんて、見慣れている。大きくなったらパパの跡を継ぐことになるからね。パパと同じようにするようになる。だから、おじさんが殺されるところを見ることくらい、私にとって、特別な出来事じゃなかったんだよ」
重ねる言葉はまだ用意してあったが、シンクレアが嗚咽を漏らしたのでそこでやめた。あやまちを悟るには、十分だろう。シンクレアは判断ミスをした。かわいそうなのは、お前だ。この私を憐れむなど、屠殺される家畜にはおこがましいことなのだ。
私は満足して、踵を返しかけた。足元にまとわりつくスノーウィに躓いて、転びそうになる。忌々しい仔犬は私のスリッパをくわえ、青い首輪につなげたぴかぴかの鑑札を振りまわして頭を振っている。
腹立ちまじりに蹴り飛ばすと、きゃん、と哀れな鳴き声をあげる。格子の向こうでは、うずくまった男がさらに不快な泣き声を漏らした。
「かわいそうに。まだ、まだほんのこどもなのに」
私は冷ややかに男を睥睨した。スノーウィのことを言っているのだと思った。目の前でスノーウィを甚振ってやったら、もっと泣くだろう。私を侮ったことを、きっと後悔する。
良い思いつきだ。しかし実行にうつす前に、シンクレアがおかしな呻きを漏らした。
「かわいそうなお嬢ちゃんだ……あの野郎の娘だってだけで、陽の下で生きる、明るい人生を取り上げられちまった……そうと知らずに悪事を働くようになっちまう……かわいそうに……」
私は戦慄した。毛衣の水気を振り払う獣のように身震いした。
シンクレアには、言葉が通じない。この男と私の価値観には大きな隔たりがある。この男は、生きながらその身を細切れにされ、その一部始終を私に嘲笑されたとしても、私を憐れんで涙するのだろう。
私の悪意が通じない。分厚い壁に阻まれて届かない。私は震えそうになる声を励まして、強気に言い返した。
「私は、かわいそうなんかじゃない。かわいそうなのはおじさんだ。おじさんは死ぬんだよ。パパにうんといたぶられて、殺されるんだ。かわいそうなのはおじさんだ。私はかわいそうなんかじゃない!」
信じられないことだが、死を待つばかりの無力な男に、私は恐怖すら感じていたのである。反駁する声は上ずり、語尾は悲鳴と変わらなかった。
シンクレアはのっそりと頭をもたげた。スノーウィが格子の隙間に鼻先をさしいれ、はっはとせわしなく息を弾ませている。
シンクレアは老いぼれた牛のように、のたのたと這い進む。スノーウィが飛び退いた。頭を低くし、鼻先に皺を寄せて、低く唸りシンクレアを威嚇する。
シンクレアの円らな目に涙が溢れた。ぶよぶよした体を大きく震わせて、嗚咽を漏らす。
「なんてこった……君たちは人でなしでも、犬でもない。何者でもない。これから、何者にでもなれる。……それなのに、なんて酷いことを……こんなに可愛い子たちから、未来を奪っちまうなんて……」
ブラックジャックでがつんと殴られたように、私の頭はくらくらした。犬にされたスノーウィと、あらゆる面で恵まれたこの私を、目の前の豚は、同列に扱ったのだ。
シンクレアは頭がおかしい。この私がかわいそうなんて。こんな屈辱は生れて初めてだ。
それなのに、私はシンクレアが流す涙に見入られている。ママが持っている、どんな宝石よりも、きらきらしていて綺麗に見えた。
醜い顔が私を見上げる。シンクレアは不器用に笑顔をつくっていた。その輪郭はぼんやりとほのしろく光っている。
「せっかくのバースデイ・パーティーに水を差して、すまなかった。お誕生日、おめでとう」
私は金縛りにあったように身じろぎもできなかった。いつのまにか背後に親父が立っていたが、私は驚くこともままならなかった。
親父は冷たくずっしりと重い手で私の肩を掴んだ。機嫌が良い。楽しめそうな獲物を捕まえたときは、いつもこうだ。
「ミスター・シンクレア。君の晴れ舞台が決まったぞ。ミケイラ、残念だがお前は仲間にいれてやれないよ。約束を反故にするわけにはいかんからな」
親父は獣が舌舐めずりするように言うと、私の顔を覗き込んだ。私はシンクレアを凝視していた。シンクレアはひどく怯えているけれども、その心は折れていない。強い気持ちが背骨を強くしているようだった。
うらなりの中心に通った芯の強さは、奇跡的に美しかった。ぞくりと細胞が沸き立つようだ。これほどのものは、この世に二つとないに違いない。私はとっさに言った。
「このひとがいい」
振り向きざまに親父にすがりつく。私が自発的に親父に接触することは、まずないことだ。親父は目を丸くした。私はたたみかけて言った。
「プレゼントは、このひとがいい」
「その子がいるだろう。可愛い可愛いスノーウィ。犬はいいぞ、犬は決して主人を裏切らない。特に、この犬は」
親父は私の足元でちょこんと座っているスノーウィを指さす。私は押しのけるようにして親父から体を離すと、右手を振りあげた。渾身の力をこめて、スノーウィの横面を張る。スノーウィはぽかんと口を開いた。私を凝視する。私の怒りの理由がわからなくても、私の怒りが自分に向いていることはわかったらしい。きゅうん、と情けない泣き声を上げて、床に伏せた。
親父は困り顔で私を見た。表情と裏腹に、その目はきらきらと輝いている。こどものように面白がっている。私は分別のある大人の裂け目に勝機を見た。牢の中で竦んでいるシンクレアを指さし、もう一度言った。
「犬なんかいらない。プレゼントはこのひとがいい」