第2話
「じ、術式は……大別して……」
悪夢でも見ているのか健輔は魘されたように寝言を言いながら寝返りをうつ。
ベットから落ちたテキストが休憩がてら横になって、そのまま眠りに落ちてしまったことを示している。
勉強しようという姿勢は悪くないが片手落ちというべきか。
この年代の男子学生には割とよくある光景だった。
その様子を無感動な、無機質な瞳で観察する影がある。
空中に投影されたスクリーンには冷たい表情の美女の姿。
画面の右端には何事かを示す時計がある。
設定された時刻になったのか、数字の色が赤に染まり、
『規定の時刻になりました。授業に遅れますので、速やかな起床を要請します』
機械的な女性の音声が部屋に響く。
感情を感じさせない知的な美女は眠る健輔をそのまま数秒黙って見つめる。
『起きてください、私の業務に差し支えます』
再度の警告、先ほどまでは感情を見せなかった顔に明らかに苛立ちの色が浮かぶ。
再び美女は一分間ほど、健輔が起きるのを待つが彼は何の反応もみせない。
『規定回数の警告を行いました。これより強制的に起床させます』
女性は今までよりも心なしか嬉しそうな声をだし、何かを起動させる手続きに入る。
『目覚まし術式起動。寝坊を撲滅します』
言葉と共に微弱な魔力波が部屋に流れる。
体内の魔力をいきなり刺激されて、無理矢理体を活性状態に移行させられた健輔は寝起きの割にはすっきりした表情でモニターに視線を向けた。
もっとも、0から行き成りフルスロットルにさせられた体を持てあましてもいるようだったが。
「……俺、普通に起こしてって頼まなかったっけ?」
『私はきっちりと、普通に、起こしました。しかし、身体のない私があなたに触れて起こすのは不可能です。ならば、この方法しかありません』
「……はぁぁ。……悪かった、ありがとうよ。でもさ、お願いだから普通に頼む。起きたばっかりなのに頭がハッキリしすぎるのは少し気持ち悪い」
『覚醒を確認しました。ご要望にはなるべくお答えいたしますが寮監の仕事が最優先です。自助努力を要請します』
セメントな対応の寮監AIに対して健輔は少しだけ不満げな表情を見せる。
だが、ここで文句を言ったところで時間を浪費するだけだと思い直しギリギリのところで言葉を飲み込んだ。
「……わかったよ。ご苦労さん、明日もよろしく」
『もうすぐご飯ですので早めにご用意の程お願いします』
その返答で認証が済んだのか、空間投影されたモニターが消える。
健輔はたった3ヶ月で慣れてしまって朝の光景に特別な感慨を抱くこともなく寮監AIの注意に従って、朝の準備を行ってから食堂へと向かうのだった。
『魔導技術』――魔素と呼ばれる大気中などに含まれる特殊粒子を魔力と呼ばれるエネルギーに変換して行われる事象、それらを用いた技術を総称したものの俗称である。
正式にはもっと長く学術的なものがあるのだが、まったく定着していない。
機械的な魔法、そこから発想を受けたある学者が魔導、とうっかりテレビで呼んでからそちらが主流になってしまったのだ。
今では少なくとも日本の公文書では堂々と俗称が載ってしまう有様だった。
そんな経緯を経て世に現れた現代の魔法と呼ばれる不思議な技術。
ここまでの概要を聞けば多く者はこう思うだろう、まさに魔法ではないか、と。
物事には何事も落とし穴があるものだが、この『魔導』にもしっかりと法則は適用されていた。
一見便利でなんでも出来るように見える『魔導』はその実、厳しい練習が必要であり、習熟にそれなりの時間が掛かる。
得られるメリットを考えればそれほど悪くないのだが、あることが魔導が主流となることに歯止めを掛けてしまったのだ。
魔導の根幹となる魔力、その大本たる魔素が限られた地域にしか存在しなかったのである。
現在では宇宙に豊富に存在していることが発覚して、そこから大量の魔素を集めるなどの改善点が用意されているがそれらが確立する間に大量のカウンター技術が開発されて人類の根幹になるほどの地位は得られなくなってしまった。
幾分魅力を減じてしまい、スタートダッシュを決めれなかった魔導だが、今はこうして少しずつ活気を取り戻している。
「そして、俺らは哀れなモルモット、か」
「健輔、そんな言い方はダメだよ」
「っ、とすまんね。そんなつもりはなかった」
「あのね、悪い印象もあるのは仕方ないけど、冴子さんも業務なんだから仕方ないだろう?」
「……べ、別に拗ねているわけじゃないからな!」
「はいはい」
寮の食堂で健輔は人当たりが良く爽やかで線の細い――健輔と接点があるとは思えない――俗に言うイケメンと食事を摂っていた。
高島圭吾――彼の幼馴染であり、同じ日、同じ場所で魔導師になることを誓った同志でもある。
運良く、何故か同じ寮に入ることが出来た彼らは地元からの腐れ縁の延長戦をこの魔導の学び舎『天祥学園』でも過ごしていた。
「あー、魔導の学校なのにめんどくさいのは一緒なんだよなー」
「よく言うよ。戦闘授業はノリノリじゃないか」
「数学とかさえなければ天国なのにな……」
「ここは軍人や戦士を育ててるわけじゃないんだから仕方ないよ。今でも子どもたちを戦わせている、とかいう焦点のズレたことを言う人がいるんだから」
「好きでやってるんだから、放っておけよな」
朝食を摂りながらの軽い雑談。
変わらない日常の光景がそこにはあった。
「っと、あんまり時間をかけるのもあれか。わりぃ、ちょっと身体検査するから先に行っておいてくれ」
「いいよ。別に急ぐわけじゃないし、待ってる。そっちは急ぎなよ? 問題があったら問答無用で遅刻が決定しちゃうよ」
「わかってるよッ!」
幼馴染兼親友に不貞腐れたように言い返し、健輔は簡易的な検査のため寮監を呼び出すのだった。
「で、問題はなし、と」
「そうそう問題があったら困るだろうが。実際、学校側が過剰にやってるぐらいで健康被害なんてほとんどないんだろうさ」
「ま、それはそうか。でも、健輔も僕も一応、斬られて空から落ちてるわけですから」
圭吾の言葉に苦い敗北の記憶が蘇る。
健輔が九条優香に敗北したのは先ごろの出来事だ。
まだまだ記憶に新しい。
力が足りない事に対する悔しさも敗北に涙したことも癒えていなかった。
「……ちょっと無神経だったかな?」
「ん、ああ、いや、別に気にしてないさ」
どこから見ても虚勢だったが、圭吾は深く突っ込むことなく。
「そっか……。ちょっと、あれだったね。ごめんよ」
「なんだよ、気にしなくていいさ。それよりも今日は何で学校に行く?」
「うーん、そうだねー……」
彼が通う『天祥学園』は日本国内における唯一の魔導教育機関である。
魔導を用いた都市生活のモデルケースとしても考えられており、様々な意味で特殊な面が多い。
例えば、交通手段。
ごく普通の車や電車、モノレールなどと言ったものの中に明らかに異色を放つ物が混じっている。
今、健輔たちが行おうとしているものなどはその最たるものだろう。
「――空で行くか」
「了解。いや、僕たちも慣れて来たね」
「初日に空を飛んでる学生を見た時は噴いたのにな」
「今では同類、だもんね」
空――人類が機械の力で踏み入れなければならなかったのももはや昔の話。
魔導師たちは生活手段の1つにしてしまうほど使い慣れている。
こういった部分も含めて、此処『天祥学園』は実験を兼ねてもいるのだった。
「いざ、行かん。我らが学び舎へ、ってね」
「配分ミスって落ちたら大変だから気をつけなよ」
「わかってるよっ、お前は母さんかよ!」
「おばさんには一応、頼まれてるからね」
些か特殊な光景だが、登校風景には変わりない。
彼らと同じように空を往く者、歩いて向かう者、電車を使う者。
多種多様な手段を用いて彼らは学校へと向かう。
その手段に特殊な部分はあろうとも、根本は何も変わっていないのだった。
「眠い……」
朝礼までの僅かな時間を思い思いに過ごす生徒たちの中で眠そうな表情の男子生徒が1人。
健輔は朝の強制覚醒による弊害をもろに受けていた。
急激にぶり返してきた眠気に必死に耐えながら担任の到着をただただ待ち続ける。
天祥学園の教育カリキュラムは『魔導』という特殊な技術を学ぶために些か変わった部分が多い。
その最たるものは『魔導』を語る上で避けては通れないもの、『戦闘カリキュラム』についてである。
魔導において1番伸びる時期は15歳~20歳の間と考えられており、この期間に極度の緊張状態――戦闘行為――に従事するのが1番成長に良いとの結論が出ていた。
無論、世界が荒れているとかならともかく少なくとも現在は安定した時期であり、人権だのなんだのを考慮をして年端の行かぬ子どもたちを強制的に戦場に叩き込むようなことはされていない。
発祥国はアメリカだが名目上とはいえ国連公認の国際プロジェクトでもある魔導研究にそこまで非道なことは行われていなかった。
戦争などの『殺し合い』ではなくスポーツのような『試合』に舵を取っているのはそのような理由があったのだ。
此処、日本校にあたる『天祥学園』もその基準からは外れていない。
世界基準、それも大学レベルに合わせているため学園の授業は大半が選択式となっており、これらの単位は大学部と互換しているものも多かった。
高校と大学を合わせた7年間で必要なことを学ぶ、というわけである。
しかし、戦闘行為が多い魔導にばかり傾倒されるのもまずいため、建前として担任などを設ける所謂『普通』の学校的な側面も残していた。
「みなさ~ん、おはようございます~」
眠気が限界に達しようとした健輔をのんびりとした声が現実に引き戻す。
亜麻色の髪を持ったほんわかとした美女。
彼女こそが健輔たちの担任教師であり、同時に戦闘カリキュラムなども担当する凄腕の魔導師の大山里奈である。
見様によっては健輔たちと同年代にも見える童顔の女性なのだが、実際は20代の後半くらいであり研究者としても有名な人物であった。
そんな裏事情は健輔を含む多くの生徒は知らず、ちょっと抜けたところのある可愛い女性と思われている。
人は見掛けによらないということの良い例であろう。
教壇までやって来た里奈はニコニコしながら生徒たちを見渡し、深く頷く。
「起立!」
それを合図にクラス委員が号令を掛けた。
全員が綺麗に立ち上がり、
「礼!」
『おはようございます!』
「は~い、おはようございます~。座ってくれて~いいですよ~」
「着席!」
里奈は全員が座るのを嬉しそうに見つめている。
その笑顔を見てる方まで幸せになりそうな素晴らしい表情であった。
「みなさん~、お元気そうで~何よりです~」
のほほんとした人柄に反して魔導師としての戦闘スキルは一級品である。
遠距離型のバトルスタイルは強力かつ派手あり、健輔も目を奪われたものだ。
それだけのものを持ちながら戦闘そのものはあまり好みではないらしく戦闘授業の時は微妙に涙目になっていたりする心優しい先生である。
生徒のために心を鬼にして戦う教師、といえば聞こえはいいだろうが相手をする生徒――特に男子にとっては――それだけではすまない。
涙目の美女――童顔で巨乳――を容赦なく殴り返せる男子高校生などそうもおらず、彼女の授業では数多の勇士がその実力を発揮しないまま沈んでいた。
1部よろこんで撃墜されに行く勇者もいるのだがそれは例外であろう。
男女どちらからも人気が高い美人な先生なのだが、しゃべっているのを見るとまったくそうは見えないから人間とは不思議な生き物である。
「――では~午後に戦闘カリキュラムを~受講する方たちは~また会いましょうね~」
伝達事項が終わったのだろう、数学の授業の用意を持って里奈は教室から出て行く。
里奈が出て行くのを見た周囲が少し騒がしくなったが、健輔は特に気にせず授業の準備を始めようと時間割を確認する。
最初は数学だったか、と教科書を取りだした時彼は回りが騒いでいた理由に気付くのだった。
「俺たちの数学担当、里奈ちゃんじゃないですか……」
偶にあるこういったポカミスを含めて可愛らしく、親しみ甲斐のある教師、それが健輔たちの担任、大山里奈という人物であった。
「里奈先生って本当に可愛らしいというか。年上とは思えないよ」
「そこがいい、とかいってるやつらも多いじゃないか。圭吾も最高、とか言ってたと思うんだけどな」
「そりゃ、美人だしね。話し出さなければできる女って感じなのと、ギャップがあるのがいいと思うんだ」
くだらない話をしながら、2人はグラウンドに向かう。
これから行われる魔導実習のように必修・選択を問わずにチームメンバーで受講することができるものは多い。
そしてここで言うチーム。
これこそが天祥学園並びにその姉妹校が持つ最大の特徴と言えるだろう。
――『チーム制度』。
異彩を放つ制度の成り立ちはカリキュラムの成立と時期を同じくする。
天祥学園には体育会系の通常の部活は存在していない、理由としては魔力の使用を前提としたスポーツがないためである。
天祥学園は魔導技術の専門校であり、研究施設であるため基本的に魔力の使用を前提とした活動が主とする必要があった。
既存スポーツをそのまま魔力を適応してやるのは本来の意義から外れているし、魔導の実践としても戦闘行為程の効率はなくあまり意味がない。
そういった問題点を解決するために生まれたのが『チーム制度』である。
部活動の代わりになり、かつ魔導の実践においても役に立つ。
それらを両立するために生まれたのだがこの制度であった。
わかりやすく言うならば部活の代わりにチームに所属を行い、魔導の技を競うためのもの、早い話が学内全体で1つの部活をやっているようなものである。
そこから後は普通の部活と同じだった。
どちらかというと部活というよりも大学のサークル方が近いかもしれない。
このチーム制度並びに魔導における様々なルールを『総合魔導学習指導要領』と言いその分野の戦闘競技を纏めたものを『魔導競技』と呼ぶ。
そのため学園の授業ではチーム単位の行動が多くなっていた。
曰く、連帯感を高めるため――である。
無理やりにでも帳尻を合わせた感じはあるが、この建前は有効に機能しており今日では『チーム制度』は学校の目玉にもなっているぐらいだった。
「健輔」
「おう、あそこだな」
健輔と圭吾も当然のことながらチームに所属している。
学内の内大体7割くらいはどこかのチームに所属しているため別段珍しくはないのだが健輔たちのように本気で魔導戦闘に取り組む1年生は現段階ではそこまで多くはない。
チームへの所属は年間を通して行える。
もうしばらくしてからという人間も多かった。
「……あれは」
「うん」
そんな健輔たちのチームメイト、上級生も存在しているが中には当然女子も居る。
1人は丸山美咲という子で後方の技術魔導師――所謂バックスに所属している子がいた。
出会った2ヶ月程の異性のため、健輔はまだそれほど話したことはないが丁寧で――どこか壁を感じさせる――礼儀正しい人物である。
そして、もう1人。
健輔を、正確には健輔を含んだ1年生3人を1人で粉砕した才媛が所属していた。
「っ……」
「なんか、空気が違うね」
多くの人間が集まっているところから少し離れた場所で彼女は1人で佇んでいた。
切れ長の瞳は閉じられていて、彼女が集中している様子を示している。
男子だけでなく女子ですら目を見張る美しさを持つ女性。
涼やかな雰囲気を纏いながら周りの喧騒など知らないといった様子は超然としたものを感じさせていた。
「……綺麗だな」
「健輔?」
「あっ、いや、なんでもない。ただ、その、綺麗だなってさ」
「ああ、うん、そうだね」
学年1の美少女、高嶺の華、いろんな呼び名がついているような美人。
健輔が今まで見たことのある異性の中でも格別に綺麗な人物だった。
そろそろ慣れてもいいだろうに今でも2人は彼女の美しさに溜息を吐くことしか出来ない。
「何度見ても空気っていうか、格が違うよね。流石、学園でも有名な天才美人姉妹の片割れだよ」
「……そうだな」
健輔としても同じ想いを抱いている。
しかし、だからと言ってチームメンバーに妙な敬いや、距離を持って接するのは何か間違っていると思っていた。
何よりも毎回チームメンバーに対して気後れなどしたくもない。
「……チームメイトなんだし、そろそろ慣れてもいいだろうさ。ほら、行くぞ」
「僕としては同じチームであることに、まず違和感を感じるんだよね」
「別に、上下関係があるわけでもないだろに。同じチームとして対等の立場なんだしそこまで気にしなくていいだろう?」
「そう普通に言えるのが、凄いってことなんだよ。美しく気高き、『蒼の閃光』にそんな気軽に話しかけられるかって云う学園生、結構いるもんだよ?」
「周りのファンのそういったことに、付き合う義理なんぞないだろうよ」
九条優香は佐藤健輔にとって今は勝てなくても、いつか勝ってやると身近な目標にしている人物である。
そこまで周りから持ち上げられているとはまったく知らなかったが、だからと言って別に目標も変えるつもりもなかった。
戦う前から気持ちで負けていては話にならないのだから。
「いつまでも一人にしとくのも可哀想だろ? 早く合流しようぜ」
「はいはい、健輔は本当にいいやつだよ。友達として誇り高いね」
「なんだよ、その言いぐさ」
「褒めてるんだよ」
付き合いの長い友人と軽口を叩きながら待ち合わせの場所へと駆け出すのであった。
「どうも、九条さん。お待たせして申し訳ない」
圭吾が殊更軽い感じで優香に声をかける。
親友の不器用な気の使い方に健輔は少しだけ笑みを零す。
声を掛けるのも畏れ多いとか言ってた割には軽い対応であった。
圭吾としてもチームメイト、特に同期生と妙な壁がある状況に思うところはあったのだろう。
続くように健輔も軽く声を掛ける。
「よ、今日はよろしく」
美しい、気後れするなどと言ったがそこそこ付き合えば相手も人間である。
表情が微妙に変化していることもわかるようになったし、噂ほど超然とした人物でないこともわかるのだ。
よく知らなければ毎日涼しい表情で物事をこなす天才にしか見えないが、人間味がないないわけではなかった。
先程、圭吾から声を掛けられた際に僅かにホッとした様子を見せたことを健輔はしっかりと視界に収めている。
「御2人とも今日もよろしくお願いします」
頭を軽く下げるだけでも品がある。
貴人という言葉があるが時代が時代なら彼女は間違いなくそう呼ばれる類の人物だっただろうと強い確信があった。
1つ1つの所作が庶民根性が染み付いてる健輔とは違う。
挨拶に美しいという形容詞が付くのをこの学園に入って初めて知った程である。
魔導の学校に入って最初に学んだことがそんなこととは4ヶ月前の健輔は夢にも思わなかっただろう。
「お、おう、お、お待たせてしまって申し訳ない」
「ぷッ、健輔なんでそんな妙に硬い返事なのさ?」
何かつぼにでも入ったのか。
唐突に圭吾が噴き出す。
そのまま笑いに耐えているのか、肩を震わしていた。
「なんで妙に受けてんだよ! 笑うな!」
「ごめん、ごめん」
圭吾は笑いながら謝罪すると、「向こうの方に美咲ちゃんが見えるから迎えに行ってくるよ」とまるでこの場から逃げ出すように去って行った。
必然、その場には2人が残されることになる。
「お、おい」
「……」
文句を言おうにも圭吾は素早く移動しており、強制的に2人になってしまうことは避けられない。
本当ならここで何か話しかけるべきなのだろうが、困ったことに共通の話題がわからなかった。
割と近い距離にいる優香から風に運ばれて薫る良い匂いに妙な気分になるのを押さえるのに必死で話しかける余裕などない。
いろんな意味でかなり焦っているのだがどうすればいいのか健輔は皆目見当もつかなった。
そんな時である。
悶々とした思いを抱えている健輔の耳に隣から、
「やっぱり、御2人は仲がよろしいんですね」
と言った言葉が聞こえてきたのだ。
健輔は一瞬、幻聴かと思ったのだが僅かに目線を緩めている優香が自分に視線を向けていることで話しかけられたことを理解した。
「えっ、あ、ああ。あいつとは幼馴染だから、さ。お互いの弱みは知り尽くしてるんだよ」
「少し羨ましいです、私は幼馴染とかいないので」
優香は健輔のいささかピントのずれた相槌を気にしたそぶりもなく会話を続ける。
「家が隣で小・中同じと来て高校まで同じところに来たからな。これはもう、完全に腐れ縁だ、って2人で話したことあるよ」
「ふふふ、いいことじゃないですか。私もそんなお友達がいたらって考えたことありますよ。物語みたいで素敵です」
「女だったらいいけど、男だよ? そんな気持ち悪い関係は勘弁して欲しいな」
やれやれという動きをする健輔に優香は優しく微笑む。
まるで、精いっぱい背伸びをする子どもを見守るかのような母性に溢れた表情だった。
優香の表情を見て、少しだけ胸が高鳴るのを健輔は感じる。
慈母の如き表情をした美少女はほんの少しだけ寂しそうな声色で表情に似つかない言葉を発する。
「本当に羨ましいです。家族以外で信じ合ってるっていう関係を作ったことないですから」
「九条?」
「あ、すいません。突然、重いことを言ってしまって」
意識して漏らした訳ではなかったのだろう。
健輔は漏れ出た言葉に天才と呼ばれる少女が抱える物を見たような気がした。
優香も誰かに言うつもりなどなかったのだろう。
僅かに不安そうな顔を見せた後は健輔の言葉を待つように静かに佇んでいる。
ここで彼がすべきことは踏み込むことではない。
「いや、すまん。何か言ったのか? ちょっと考えごとをしていて聞いてなかった」
珍しくも驚いたような顔を見せる。
少しだけ目を開いて健輔を見据えるという驚き方すら品が良いものだったが。
2人が目と目で対話した時間は数秒だったのだろうか。
それとも数分だったのか、健輔は高鳴る鼓動を抑えながら眼だけは背けなかった。
「そう、ですか。だったらいいです」
「そうか?」
「ふふ、ええ」
最後にクスッと小さく優香は笑う。
そこで会話は終わり、後は無言で圭吾たちの到着を待つことになった。
今まで、それこそ最初の頃は完全にこちらを遮断していた彼女だが、今はこうやって歩み寄りを見せてくれている。
まだまだチームというにはぎこちないが始まりはこんなものだろう。
少しだけ歩み寄れたのだ。
この先、この関係がもっと良くなれば良い。
健輔はそんな風に思う。
春から露に移り変わる授業の1つで、少しだけ距離が近づいた2人であった。




