第272話
部屋の空気が妙に重い。
発生源は珍しい人物、九条優香である。
1年の付き合いになるが、不機嫌な表情など数えるほどしか見たことがない。
それも身内、と言ってよいのかクォークオブフェイトのメンバーがいるところでしか見せた記憶がないのだ。
それをほぼ初対面に等しい人物がいるところで見せるのは、珍しいを通り越して異常事態だった。
「ど、どうしたんだよ、優香。あの人に何か嫌なことでも言われたか?」
「いえ……。貴重な忠言をいただきました」
言葉では否定しているが、顔は不本意です、と大きく書いてある。
わかりやすい相棒に苦笑しつつ、健輔は自分の左隣に座る女性に視線を移す。
「で、真相は?」
「さて……。さっぱり、心当たりがありませんね」
涼しい顔で惚けるフィーネに健輔は顔を歪めた。
「……狸め」
「どちらかと言えば、狐ではないでしょうか? 正直、そちらの方が嬉しいですね。コンコンっ?」
「……恥ずかしくないか?」
「ちょ……ちょっとだけ」
狐の真似をするフィーネに健輔は真顔でツッコミを入れる。
1本取ったとニヤリと笑ったのだが、次の瞬間に健輔はフィーネのさらに左から物凄いオーラを感じて、そちらに視線を移した。
「げ……」
小声で呟くが、バッチリと声を拾っていたようでイリーネから物凄い目力で見つめられる。
私たちのリーダーに何を言った。
視線がそういう風に問いかけている。
健輔はスルーすることを決めて視線を逸らした。
怒っている女性はある種の自然現象だ。
逆らうだけ無駄である。
およそ1年になろうとしているクォークオブフェイトの生活で、健輔もその辺りの機微は完全にマスターしていた。
周囲がどいつもこいつも女傑なので、自然と対応方法が身に付いてしまっている。
「……なんとも微妙な技能だよ」
嘆きは一瞬で、直ぐに意識を切り替える。
この辺りの切り替えも既に熟年の技のような冴えを見せていた。
葵の気分に対処するために見つけた健輔の処世術は年代も違うし、国籍も違う相手でも効果を発揮している。
本人は欠片も嬉しくないが、これもある種の鍛錬の成果だった。
「そうやって、逃げるから紳士としては落第なんですよ」
まだ恥ずかしいのか頬を赤くしたままの状態で、フィーネはぽつりと呟いた。
フィーネの反撃に苦しいとわかっていながらも言葉を返す。
「……逃げとか言うなよ。処世術だよ」
「逃げ、ですよ。変なところで腰が引けますね。試合ではあれだけ激しく私にあなたを流し込んだのに」
「ちょ、言い方! 言い方が悪い!」
「健輔さん?」
フィーネの物言いに異議を申し立てると、声が大きかったのだろう。
隣に座っていた優香が不思議そうに首を傾げる。
健輔が素早くフィーネに視線を移すと、くすくすと品良く笑っていた。
「は、嵌めたな……」
「人聞きが悪い。一体何を想像されたんですか? よろしければ、ご教授くださいませ」
「ぐっ……」
「ふふっ、まだまだですね」
年上の女性は本当にやり辛い。
健輔はプライベートで勝てた試しがなかった。
その中でもこの銀の女神は最強の難敵だろう。
試合中よりも勝てる気がしない。
より言うならば、勝てるビジョンが思い浮かばなかった。
「今日は厄日だな」
「あら、私たちに勝ったのに?」
「……そこで運を使い果たした」
「まぁ、それなら良いでしょう」
健輔とフィーネの慣れたようなやり取り。
それを端に座る1年生たちが、それぞれ複雑な表情で見ていることに健輔は気付かない。
彼の意識はフィーネをやり過ごすことと試合の開始へと既に振り分けられていた。
そんな罪作りな男にもう1度、フィーネは大きく溜息を吐く。
「健輔さん、本当に刺されてもしらないですよ」
「はぁ? 試合でなら何回も刺されたじゃん」
「……これは難敵ですね。察しがよさそうなのに、そっちは小学生ですか」
「何か、そこはかとなくバカにされている感じが……」
漫才のようなやり取りをしている間に、時間は試合開始時刻になろうとしていた。
スクリーンの中から上がる歓声に、全員が集中をそちらに向ける。
健輔の目には既にそこしか映っておらず、あまりにも素早い切り替えにフィーネは感心するよりも先に呆れてしまった。
強さの一端などはここにあるのだろうが、代わりに日常生活での何かを犠牲にしているようにしか感じられない。
凸凹4人組は、観戦室で試合を見守る。
奇妙な空気が生まれているのだが、その中心だけは気にしないよくわからない状況となっているのであった。
今回選択された戦闘フィールドは砂漠。
両チームを転移させて、配置することで準備は完了していた。
砂塵舞う戦場で両者は開始の合図を待つ。
「……ふん、全てが前衛か。考えることはわかりやすいな」
『速攻だろうね。まあ、彼らのチーム特性的に当然じゃないかな。むしろ、普通に戦おうとしないだけマシだと思うんだけど』
「不服があるわけではない。むしろ、高く評価しているさ」
クリストファーは遠くを見つめるが、その視界にラファールは映らない。
視力強化などの諸々の能力では並みの魔導師程度しかないのだ。
少なくとも、『今』はそれが事実だった。
『作戦は予定通り?』
「ああ、変更はない。――蹂躙する」
『あいあいさー! いや、はや、頑張って欲しいものだよ、戦いは長い方が楽しいしね』
試合開始の合図と共に、空間展開を行う。
一瞬にしてフィールド全土を覆い尽くし――フィールドは彼の領土となる。
「行け、我がレギオン」
一瞬で形成される魔力体。
模擬戦の時は魔力が人型を取っていただけが、今度はしっかりと人の姿――ラファールのメンバーの姿をしていた。
彼の空間展開のもう1つの能力。
それは魔力体に空間展開の範囲内にいる魔導師の能力を完全にコピーする能力である。
魔素に己の色を付けてしまうことで、そこから魔導を発動した者の性質を写し取ってしまうのだ。
自分たちと同じ、もしくは僅かに劣る程度の力を持つ無尽蔵の軍団。
そして、無機質な動きは指揮者によって人の物へと変わっていく。
『さて、僕の戦術行動も中々のものだよ。こんな感じで、捨てゴマも豊富だしね』
「あまり良い言い方ではないな」
『いやはや、これは失敬! でも、事実だしね。こっちは復活がありで、向こうはないじゃ、あのバグ女みたいな感じじゃないと君には勝てないよ』
「……進めろ」
『おっと、すまないね!』
欧州最速の名に恥じぬ軍団が進んでいく。
皇帝の洗礼。
あくまでもその第1段階に過ぎない。
「ここで終わるなら、それまでだ」
思うところはない。
一昨年も、去年も世界、国内を問わずにそうやって粉砕してきた。
第1段階すらも、ましてやジョシュアの人形遊びすらも突破出来ないようでは話にならない。
「こい、『疾風』。その名に恥じぬ力を、俺に見せてみろ」
ジョシュアと違い、彼は敵のチームにいつも感心している。
今年はもう戦うことはないが、シューティングスターズなどにも期待を寄せていた。
激闘を、血沸き肉躍る戦闘が出来ると思っていたのだ。
敗れてはしまったが、新たな希望がやってきている。
これは彼らに向けての挑戦状でもあるのだ。
自分はこれだけ強い、という誇示を行っている。
「……潰れるか、超えてくるか。是非、後者であって欲しいものだな」
皇帝の独白は疾風には届かない。
しかし、その戦意だけはしっかりと伝わっていた。
男同士だからこそわかる挑発。
荒ぶる風は迫る偽物を前にして、不敵な笑みを浮かべる。
両チームのエースはお互いの戦意に呼応して力を高めるのであった。
「早々に第1段階解放ですか。ラファールを評価しているのか、あなたたちに対する挑発なのか微妙なラインですね」
「煽ってるし、評価してるんでしょうよ。なんとなくですけど、ここまで来いって挑発されてる感じはしますしね」
「なるほど。ジョシュア・アンダーソンは詰まらない男ですが、流石に皇帝は一廉ですね」
「……わかってて、聞いたでしょう?」
「さて、なんのことだか、わかりませんね」
試合開始早々にラファールが追い詰められる展開が健輔たちの前で行われている。
実況など聞くまでもない、わかりやすいほどの力。
冬に初めて聞いた時に、健輔もこの反則能力には文句を言いたくなったものである。
シンプルに完成されすぎていて、突くべき穴がほとんど存在しない。
火力で押すのが、普通に考えればベストなのだが、問題が残っている。
あの能力は皇帝が記憶している魔導師ならば、空間展開内に存在せずとも再現できるのだ。
無論、強さは記録段階のものだが、去年の桜香でも召喚されるだけで危険である。
あくまでも基本的にコピー出来るのはスペックのみで、記録再現では固有能力まではコピー出来ないのが救いだが、それでも視界を埋め尽くす桜香など考えたくもない。
「あれ、あなたならどう対処を?」
「ヴァルハラを展開して、早々に一騎打ちに持ち込みますよ。私と彼の相性はそこまで悪くないですからね」
「それもコピーされますよね?」
「ですから、早々に、と付けました」
固有能力も空間展開内に存在する場合はコピー出来る。
コピーというと正確には正しくないのだが、結果的に起こる事象は同じであるため問題はないだろう。
皇帝が再現出来ないもの、となるとこれが難しい。
彼が知らないものは再現できないし、同時に能力の類によっては再現できないものがある。
健輔が知る限りでコピー出来ないのは、香奈子の能力とおそらくほぼ同格に至っているであろう桜香の能力であった。
皇帝の固有能力は創造系の基本に極めて忠実であり、同時に極めているからこそ突破が難しい。
己の領土と定めた範囲内なら、魔導に関する事象を自在に操る能力。
そんな出鱈目が可能な固有能力なのである。
「創造系の1点突破。結果として、あなたすらも凌駕する万能性ですね。範囲内に限って、ですけど」
「健輔さんなら対抗は出来ますか?」
「まあ、可能ではあるな。俺限定になるけど」
規模とやっていることは出鱈目だが、同時に創造系の限界を超えているわけではない。
全ての系統を導入すれば、戦うことは可能だった。
基本的に皇帝は判明している能力ばかりである。
だからこそ、健輔は国内大会での勝利がほぼ決まった時から入念に調べていた。
それでも足りない部分があったのだが、天の気紛れか、それとも女神の慈悲なのか。
欲しかったデータがこんな直近で手に入るのだから、本当に未来というのはわからないものだった。
おまけまでついてきており、あまりの大盤振る舞いに健輔も微妙に背筋が痒い。
「……私の顔に何か付いてますか?」
「いいや、別に何も」
「でしたら、少々、視線が不躾すぎますよ」
「そうか、気を付けるよ」
食えない態度の女神に腹を立てるでもなくやり取りを行う。
健輔の周囲には中々いないタイプに少し楽しくなってきていた。
相手を女性と思うから、微妙に対応に苦慮したが、好敵手とでも思えば余裕で相対できる。
この微妙な緊張感は戦いとも違って、それはそれで楽しいものである。
「……むっ」
「うん? どうした?」
「あっ、いえ……その、続きをお願いします。対抗方法とは?」
「あ、ああ、そうだな」
右側に少しだけ服を引っ張られたため、振り向くとジト目でこちらを見つめる優香と目が合う。
悪いことをした訳でもないのに、微妙に狼狽えながら疑問に答えた。
その醜態を見て、フィーネが溜息を吐いているのが見える。
「ま、まあ、あれだよ。結局、あれが魔力であるのは変わらないからな。空間展開をなんとかすれば、対抗は可能だ」
「彼の万能性はあの中でのみ、です。覆すのは不可能ですが、穴くらいは開けられます。……まあ、そういった対策を全部踏み潰した強さは本物ですけどね」
「無敵ではないが、最強なのは間違いないだろうな。あれに掛かれば、こっちの能力はほとんど持っていかれるし」
フィーネの魔力パターンによる偽装とは違い、皇帝の空間展開は本当に能力を写し取る。
無限に増殖する真由美など、健輔からすればまさに悪夢の具現であった。
可能ならば、出会いたくない代物である。
「あなたなりに対抗手段はあるのなら、まあ、心配はいらないですが」
「問題は周りもだろうな。あの近衛兵どもが鬱陶しい感じだ」
「ガーディアン、ですよ。チームメイトたちも己を殺す最強の軍団の1部です。アマテラスとはちょっと事情が違いますね」
「だろうな」
パーマネンスはまだまだ秘めている力がある。
健輔たちが知っているのは、あくまでも昨年までの皇帝だ。
さらに上がないとは言い切れない怖さが皇帝にはあった。
まだ成長するかもしれない。
上に昇り続ける頂点の底など、健輔にも見抜くことは出来なかった。
「……これが、最強か」
「ええ、その目に焼き付けてください。欧州の風も、その程度はやってくれるでしょう」
フィーネの言葉に問い返すこともなく、健輔は見つめる。
人形に追い立てられる風が、その牙を皇帝に立てようとしていた。
嵐の前触れは、既に感じられる領域まで来ている。
『疾風』――その名の意味を健輔たちは知ることになるのだった。




