第195話
その日、教室には緊張感が満ちていた。
ピリピリとした空気は大気に怒りを振りまいており、吊り上った目が中心たる人物の怒りを示していると言えるだろう。
腰に手を当てて仁王立ちする女生徒は美しい瞳で素早く離脱しようとしていたある男を捕獲していた。
「……ねえ、この間、私の話を、聞いてくれるって言ったよね?」
「……ぜ、善処はしたいが、忙しいんだよ。べ、別に避けてるわけじゃない」
美人は怒ると怖い。
その言葉を証明するような光景だった。
戦闘になれば恐ろしい熱量を持つ魔導砲撃に正面から立ち向かう男の腰が完全に引けている。
有体に言って、気圧されていた。
「じゃあ、今日辺りは時間を作ってくれないかしら。――ああ、今日はフリーって知ってるわよ。あんまりこういう使い方はしたくはないんけど。私ね、友達が多いの」
「お、おおう。い、いいぜ」
怒れる女性――滝川瑞穂の言葉の裏に潜む意味を健輔は正確に察知した。
ここで下手な事を言えば、今度こそ確実に爆発する。
そして、その後に戦いよりも怖い目にあうことがよくわかった。
ここまで無視、正確には構うことが出来なかったとはいえ、女性に関する用事を後回しにし過ぎた健輔が悪いのも事実である。
当然、了承した程度では怒りが鎮火してくれないらしく、瞳が怒ったままだった。
この雰囲気のままでは話し合いも何もあったものではない。
「ここまで後回しにしたのは悪かった。だから、機嫌直してくれ。さっきも言ったけど、試合も終わり間近だったんだ」
「じゃあ、今日そそくさと出て行こうとしたのは?」
「具体的な日付とは約束してないだろ? そっちがそんなに怒ってるとは思わなかったんだよ。こっちだって忙しいんだ。大体、察しは付くだろう?」
「それは……」
瑞穂としても理不尽な怒りだという自覚はあったのだろう。
一旦、事実を突きつけると大人しくなっていく。
健輔も別に彼女が憎くて後回しにしたわけではない。
基本的にズボラであるし、魔導に関する事以外はポンコツなのも疑いようがないがそういった陰湿さとは無縁の男である。
健輔的には冬休み中に対処すれば良いと思っていた。
確かに国内戦は終わったが、まだ本番――世界戦はあるのだ。
戦力強化のための貴重な時間を1秒でも無駄にしたくないと思うのは当然のことだった。
「ちゃんと日程を決めなかった俺が悪いのは間違いない。だから、機嫌を直してくれよ」
「……わかった。こちらもちょっと言い過ぎだった。ごめんなさい」
「とりあえず、物凄く目立ってるから場所を変えようぜ。商業エリアの方でいいよな?」
「え……う、うん」
「じゃあ、行くぞ」
「あっ、ちょ、ちょっと待ってよ!」
出入り口の1つを占拠して行われていた瑞穂と健輔のやり取りは当たり前のように多くの目に留まっている。
健輔の鋼の心臓はこの程度では狼狽えることすらもなかったが、視線を自覚した瑞穂はそうもいかなかった。
見る見るうちに顔が赤くなっていく。
先ほどのまでの自分の行動を思い出して、さらに赤くなるという無限ループに突入していた。
「……こっちの方がいいんならそうしますが、どうしますか?」
似合わない丁寧語で語りかける健輔を強い瞳で睨みつける。
元々の原因は瑞穂に言ったことを完璧に忘れていた健輔が悪いのにこの態度だ。
彼女が怒りを抱くのも無理のないことだった。
「あ、後で、キッチリと問い詰めるからね」
「お、おう」
地獄の底から響いてきそうな声にビビるもなんとか返事をした。
瑞穂は言いたいことを言うだけ言うと、そそくさと準備のために席へと戻る。
健輔は後姿を見送り踵を返した。
「『陽炎』、伝言頼むわ」
『了解。優香への言い訳も準備しておきます』
「おう。って……うん? 優香への言い訳? 何故に……?」
『マスターはそれでよろしいかと。上だけを見ている姿はすごくらしいです』
「……褒めてるよな? それって」
『勿論です。我がマスターとして、誇らしく思います』
陽炎と微妙なやり取りを行い、健輔はひとまず学園を後にした。
健輔はこの時、優秀な魔導機が用意した言い訳のおかげで優香が不機嫌になることを避けられることをまだ知らない。
呑気に鼻歌を歌いながら待ち合わせ場所に向かう姿は自分の状況をきちんと理解出来ているのか、とても怪しいものであった。
商業エリアにあるごく普通の喫茶店。
テーブルには一応頼んだと言わんばかりのドリンクが2つ乗っている。
対峙する両名、健輔と瑞穂は無言まま睨み合っていた。
「あのさ。用事があるのは俺じゃないんだから、早めに頼むぞ」
「……佐藤くんって結構冷たい性格してるのね。以外だったわ」
「うん? そうか?」
「ええ。今、すごくめんどくさいって思ってるでしょう? 顔に出てるわよ」
「隠す気もないしな」
健輔の直球すぎる発言に瑞穂の口元がひくつく。
美貌と社交性に富んだ彼女はクラスでも人気者であり、大輔が言っていたようにクラスでも上位にいる女子だ。
別格過ぎる優香やクラウを除けば、1年生内でも可愛いと十分に上位陣として名前も知られている。
付き合っている男性などはいないが、姉から伝授された心得などから簡単な扱いは熟知していた。
元々、容貌が整った美少女なのだ、普通の感性をしているのならば辛く当たることはほとんどない。
そんな彼女をここまでぞんざいに扱う男は生涯で初めてのことである。
試合で感じた感動なども全て吹き飛んでいきそうな無礼な態度だった。
「な、何か、ご迷惑でも掛けたかしら?」
「いや、ただ単によくわからんだけだ。というか、俺は前から断ってるだろうが」
「それは……そうだけども」
「これ以上、こっちから何かをすることも心変わりする可能性もない。ぶっちゃけ女に教えるなんぞやり方がわからんし、めんどい」
健輔の本音はそんなものだった。
瑞穂との約束、とまではいくのか微妙な手助けも完璧に忘却していたのはこれが理由である。
最初の頃から断っているのにしつこいのは瑞穂の方であった。
理由と説明を健輔が求めるのは当然のことであろう。
「だ、だって……」
「だって?」
「どうせなら、その……強い人の方がいいじゃない」
「……ま、まさか……それだけか?」
「何よ、悪い?」
拗ねたように少し顔を伏せて睨みつけてくる。
瑞穂に懸想する男子が見れば一発で落ちる光景だったが、目の前にいるのは優香の照れた姿でようやく防壁が抜ける魔導バカだった。
残念な事に破壊力が些か足りない。
「悪くはないが……。じゃあ、優香かクラウでも紹介しようか? 同性の方がいいだろう?」
「いやよ」
「はぁ?」
瑞穂が即答で否定する。
健輔の考えは単純だった。
強いのが良い、でも知り合いにはいない、ならば紹介しよう。
左程珍しい思考方法ではないし、断るのだから次善の方法としては最良だろう。
健輔たちと同学年で最高クラスの女性魔導師から指導を受けられるのならば問題ないと思ったのだが、瑞穂はお気に召さないようだった。
「理由は?」
「……あなたに言ってもわからないわよ。いろいろとあるの! 女には」
「……じゃあ、この話は終わり、ってことでいいのか?」
「……ど、どうしてそんなに嫌がるの? 私と話すのは嫌?」
「そういうことではないんだが」
瑞穂の口調が変わる。
自信に溢れた堂々とした態度から弱々しい感じになったのだ。
語尾が震えているのは、微妙に光る涙が原因だろうか。
この時点で健輔の第6感が全力で警報を発し出す。
相手が最大にして最強の武器『女の涙』を使用し始めたことを直感したのだ。
隆志から悟った目で強く言われた経験が役に立った。
女は不利になったら、泣いて勝負を取りに来るものがいる、気をつけろ。
先輩の教えはしっかりと胸に宿っている。
「……ちなみに、だ。泣き落としは効かんぞ」
「え……、ちょ、ちがっ」
「違ってもだ。まだ、理由を隠してるだろう? 師匠に隠し事するような奴はダメだね」
「……」
涙がドンドン溜まっている。
わざとだろうが、自然なものだろうが、泣き落としに屈するわけにはいかないのだ。
身内の女性たちにジョーカーをくれてやるような暴挙である。
しかし、流石にこの状況は健輔でも分が悪かった。
相手は一般的に見て、美人な女の子である。
万が一でも大泣きされたら、悪人は確実に健輔だった。
「うっ……だ、ダメかな?」
「ダメというか理由を言えって。後、どんな練習を想像してるのかはしらんけど、普通にその場には優香の奴もいるぞ」
「え……ど、どうして?」
「あのな、俺はこれから世界大会だぞ。空き時間は魔導の練習に決まってるだろうが。そこの時間をちょっと割くとかなら出来るが、お前の個人練習用に時間を作れるわけないだろう」
「あ、そ、それは……」
瑞穂は思いもしなかった健輔の言葉に顔を伏せる。
実際、健輔のスケジュールはみっちりと詰まっていて余裕など皆無だった。
世界戦の領域は健輔も未知のレベルの話なのだ。
非力な万能系としては準備を万端にして戦いに挑みたいというのは当然の欲求である。
貴重な時間を割くだけの理由を寄越せ、そう健輔は言ってるのだ。
強い人に指導されたいというだけならば、他にいくらでも当てが存在していた。
「本気で言わないと断るぞ。泣いてもいいけど、放送部には伝手があるからな。噂ぐらいはなんとかなるだろうさ」
「そ、そんなつもりはないわよ……。わ、わかったわ。お、怒らないで聞いて欲しいんだけど」
「うん?」
瑞穂がようやく本当の理由を口に出す。
先ほどまでとは別の意味で顔を赤くしているのは、羞恥の証だろうか。
「き、綺麗だなって……。ああいう風に飛べたらなって……。そ、それだけで……」
「なっ……」
健輔もいくつか理由を予測していたが、予想の斜め上の内容だった。
その理由はかつての健輔とよく似ている。
まさか、魔導にあまり興味の無さそうなクラスメイトからそんな純な内容が飛び出してくるとは思わなかった。
「た、大した理由じゃなくて……その……」
「ふーん、なるほどね……」
瑞穂がやけに理由を述べるのを嫌がったのが何故かわかった。
率直にこのような理由を述べるのが嫌だったのだろう。
健輔にはわからない感覚だが同世代の人間がこういう率直な物言いを嫌うのは何となくだが理解していた。
一生モノの告白でもしたかのように瑞穂は顔を伏せている。
「ぷっ、ぷははっはははっ!」
「え……え……!? ちょ、ちょっと笑わないでよ!」
「いやいや、まさかそんな純な理由だとは思わなくてさ」
「じゅ、純って。な、何がよ!」
深刻な怒りではなく照れ隠しのような怒りを見せる。
健輔からはもはや一生懸命、虚勢を張っているようにしか見えなかった。
基本的に健輔は強い魔導師を好む。
この学園に来たのだから、そういうものであるべきだと思っているし、何よりもわざわざ魔導の学園に来て、普通に生活するなど意味がないと考えているからだ。
これだけ聞けば強さ至上主義になってしまうが、真摯に物事へ取り組んでいる人物が上達すると考えているだけであり、別に強さは指針の1つでしかない。
そんな美学を持つ健輔からすれば、
「いいぞ。ただし、条件はさっきの奴と変わらないけどな」
「へっ? ほ、本当に?」
「ここで嘘です、とか言ったら今度こそ泣くだろう?」
「うん」
素直に返事をする瑞穂へ苦笑する。
なんとなくだが性格を掴めてきた。
女性らしさは当然あるし、健輔が苦手なタイプなのは間違いない。
しかし、真面目さもきちんと備えている。
それならば練習には付き合って構わないだろう。
何より、似たような理由で魔導に憧れた1人として助力したい気持ちもあった。
「うんじゃあ、明日からよろしくな」
「明日!? あ、あんなに嫌がってたのに……急に話が進むのね」
「そりゃ、練習時間が潰れるのが嫌だったからな。まあ、そんな理由で俺に頼みこんだんだ。今更、嫌なんて言わないよな?」
「も、勿論! そっちこそ、ちゃんと指導してよね!」
「へいへい。急に元気になったことで。現金だな、おい」
健輔が同意を示してから急に調子を取り戻したことを揶揄する。
瑞穂も自覚があったのか、僅かにバツが悪そうな表情を見せた。
これ以上苛めるつもりもない健輔はそこで話を切り上げる。
涙には屈しないが、真摯な思いには応えたいと思ったのだ。
やるからには中途半端なことはしない。
「ああ、そうだ。明日からの練習で伝えておくことがある」
「ん? 何かしら」
「何回撃墜するかわからないから、きちんと覚悟だけはしておくこと。後、見届け人を用意しておいた方がいいぞ」
「え」
健輔の言葉に瑞穂は完全にフリーズする。
彼女が相手が魔導バカで脳筋だったことを真の意味で認識するまで、後僅かな時を必要としていた。