9
「・・・・・・どうしたんだよ、こんなところで」
大学の昼休み。
僕は秋貴に人気のない空き教室へ呼び出されていた。
春華さんが倒れた話は聞かされている。僕はすぐにでも会いに行きたかったけど、しばらくの間は家族以外の面会謝絶で僕は彼女に会うことを許されていなかった。
「さっき連絡があってさ。姉貴、容体が安定してきたから、今日から見舞いに来てもいいそうだ」
「そうなのか」
その言葉に安心する。倒れたって聞いたときはかなりショックだったから。
「でも」
秋貴は言葉を続けて、
「その、なんだ。・・・・・・次は覚悟してほしいってことだった」
「次、覚悟・・・・・・?」
その言葉の意味をすぐには理解できない。
でも、残酷なことに思考が追い付いてしまう。意味を分かってしまう。
「・・・・・・そんなによくないのか?」
そう聞く僕の声は震えていた。
「やっぱり絵のモデルが負担だったのか?」
「最初から無理はしていたのかもしれねえ。だけど、それは春馬が気負うことじゃない」
「だけど、だけどさ・・・・・・」
その先の言葉が出ない。
少し前までは体調も戻ってきたように見えたのに、あの時だって目に見えて顔色は悪くなかった。覚悟が必要な状態だなんてとても信じられなかった。
「姉貴ってさ、昔から我慢強いからな、俺もまったく分からなかった。むしろ調子良さそうだなとさえ思ってたよ。泣き言も言わないし、元気に見える方が多いのはいつものことなんだが・・・・・・」
僕も彼女から弱音を聞いたことは一度もない。
つらいのを、苦しいのを、ずっと我慢していたと言われても頷ける。だからこそ、ちゃんと見ていなきゃ駄目だったんだ。僕はあのデートの時と同じことを繰り返している。無理をさせていた。ちゃんと伝えていれば避けることができていたのか? と言われたら、その確証はないけれど。
「すまん。こんなこと伝えて」
「いや、何も言われない方がつらいから・・・・・・」
「あー、っと、さ」
秋貴は歯切れ悪く口を開く。
「どうしたの?」
「春馬は」
「うん」
「・・・・・・その。春馬は、どうする?」
「どうするって」
「いや、その、なんだ。姉貴に何かあったら、どうするつもりなのかと思ってさ」
「・・・・・・そんなの」
正直なところ、まったく考えられない。
「そう、だね」
考えたくもない。僕は今でも、心のどこかでずっと今までの日々が続くのではと思ってしまっている。そんなことはないって、いつかは受け入れなくてはならない問題なのかもしれないけど。
でも、そんなすぐには受け入れられるはずもない。
だって、つい最近までずっと今まで通りの、僕と春華さんの日々が続いていたんだ。
春華さんが倒れて、病状を知って、遺影を描いて――ようやく意識するようになった・・・・・・いや、本当はまだちゃんと分かっていない。それなのに、これからのことなんて考えようがなかった。
「・・・・・・きっと、何も変わらないさ」
でも、僕は強がった。
春華さんの弟である秋貴だってつらい思いをしているんだ。僕の弱音を聞かせたくなかった。
「大学生活をこのまま過ごしてさ、その先はきっと適当に就職して、休みの日とか暇なときは絵を描いて・・・・・・」
その横には春華さんがいてほしい。
ずっと隣で笑っていてほしい。
一緒に絵を描いていてほしい。
それだけじゃない。二人で色んな経験を積んでいきたい。
そう思うが、
そう願うが、
それはきっと叶わない。
それこそ奇跡が起こらない限り。
「だからさ、何も変わらないよ」
僕は今、普通でいられているだろうか。
「そうか、そうか・・・・・・」
「うん」
僕は自分の感情に蓋をして嘘を付く。
何も変わらない? そんなことあるはずがなかった。
泣き叫んで、苦しんで、この世界の何もかもを呪ってしまうかもしれない。
でも、それをきっと春華さんは望まない。
「春馬」
「なに?」
「・・・・・・ああ、いや、なんでもない。また何かあればすぐ連絡する」
「うん。お願い。頼むよ」
僕達はそうして別れて、教室に一人になった。
「くそ・・・・・・」
呟く。
「くそ・・・・・・くそ・・・・・・」
何かに当たっても仕方ない。
僕が何をどうしたところで春華さんの病状は良くならない。でも、自分の無力さと苛立ちが心を支配する。今にでも暴れ回りたい気分だった。
自分を落ち着けるように息を吐きだす。
冷静にならないと。まずは春華さんの元に行きたい。すぐにでも彼女の姿が見たかった。
ドアを開けようとしたところで、ガラリと開く。
「先輩?」
顔を出したのは冬木だった。
「あ、っと、冬木・・・・・・」
「はい」
「どうしてここに」
「あの、先輩と秋貴先輩がこの教室に入ってくとこ見えたんで、ごめんなさい、つけてきちゃいました。話もちょっと聞いちゃって」
「・・・・・・そうだったのか、いや、別に謝ることじゃないよ」
聞かれて困る話をしていたわけじゃない。
「それより、ごめん。僕はいかなきゃならない場所があるから・・・・・・」
申し訳ないけど冬木と話している場合じゃないのだ。用があるなら後で聞けばいい。
「病院ですか」
「え、うん」
「それなら、そんなに焦らなくても大丈夫ですよ。あの病院、平日の面会時間は二時からです」
「え?」
「先輩が足を折ったときに見舞いに行ったじゃないですか。そのときに確認したんですよ」
「そんなこと守ってられないよ」
「落ち着いてくださいって。入れなかったらどうするんです。その時間無駄にするだけですよ」
「それは」
「それに何か検査をした後で疲れてるかもしれないじゃないですか。そんな状態で先輩と会いたいと思うんですか。相手は女の子なんですよ」
たしかに冬木の言う通りだ。
僕の行動が春華さんの負担になってしまったら何の意味もない。
「駄目だな、僕は。・・・・・・ごめん、冷静じゃなかった」
「分かってくればいいんですよ」
それよりも、と冬木は言葉を続ける。
「先輩、大丈夫ですか――って、大丈夫じゃないですよね」
「え、なんで?」
「さっきの話、聞いちゃったって言ったじゃないですか」
「ああ・・・・・・」
曖昧に頷きながら、
「・・・・・・大丈夫だよ、大丈夫」
自分に言い聞かせるように言う。
「先輩」
そんな僕を見透かすような瞳を向けられて、
「無理しないでくださいよ」
「無理なんて――」
「してますよ」
冬木は僕の言葉を止めるように言い切った。
「つらいときはつらいってちゃんと言ってくださいよ。慰められないじゃないですか」
「ごめん」
でも、僕は慰めてほしいわけじゃない。
「本当に大丈夫なんだ」
「嘘ですよ、そんなの」
「嘘なんかじゃ・・・・・・」
「だって、前は泣きそうな顔してたじゃないですか。今更強がったって無駄ですよ。全部お見通しですから。今だって、今だって酷い顔してます」
痛いところを突かれて言葉に詰まる。
「ま、前はほら、突然のことだったから」
「今も突然の話だったんですよね」
「それは」
その通りだ。
「もう一度聞きますよ、先輩。本当に大丈夫ですか?」
「僕は・・・・・・」
本当は大丈夫じゃない。泣いて縋りついてしまいたい。
でも、それはできなかった。
「僕は大丈夫じゃないと、きっと、春華さんは悲しむから」
「そんなに、その人が大切ですか」
冬木の真剣な瞳に、僕は頷いた。
「もちろん」
「・・・・・・そうですか」
冬木は呟くように言うと、
「先輩」
「何?」
「私に乗り換えてくださいよ」
「・・・・・・え?」
どういうことだ?
「私なら先輩を苦しめませんよ。つらい思いをさせませんよ。ずっと一緒にいます」
「い、いやいや、何の話――」
言い終える前に冬木が胸に飛び込んでくる。
彼女の温かさを感じた。早い鼓動を感じた。
いきなりのことに脳がパニックを起こしてしまう。
「私でいいじゃないですか。自分からわざわざ茨の道を歩んでどうするんです。ずっと悲しむことになるだけじゃないですか」
「・・・・・・冬木?」
「私はその春華さんって人物を知りません。先輩の言う通りとっても素晴らしい人なのかもしれませんけど、ごめんなさい。私はどうしても好きになれません。先輩を苦しめる人は嫌いです」
「どうしたんだよ、ほんと」
「どうもしてません。これが私です」
顔を上げる。すぐ近くに冬木がいた。
その瞳は潤んでいて、今にも泣きだしてしまいそうだった。
「先輩のこと、ずっと好きだったんです」
「え――」
「私みたいなぼっちとずっと接してくれました。優しくしてくれました。懲りずに話しかけてくれました。私の世界に入ってきてくれて、そんなの惚れるに決まってるじゃないですか」
僕はそんなつもりなかった。ただ、当たり前のことをしているつもりで、
「先輩がそんなつもりないって分かってました。だから、だから、ずっと片思いでいいと思ってました。私達は友達で、それで横にいられればいいって思ってました」
「・・・・・・」
「でも、先輩が傷つくなら違います。いいんです。私のこと好きじゃないままで。絶対に好きにさせますから。ただ一緒にいてくれれば」
僕は口を開くことが出来ない。
衝撃的なことであったのもそうだけど、冬木になんて返せばいいのか分からなかった。
「慰めで言ってるわけじゃないです。先輩、あなたが好きです。ずっと好きです。私のものになってください。あなたのものにしてください」
「・・・・・・冬木」
こんなに好きだと言われたのは初めてのことだ。
こんなに想われているなんて知らなかった。
返事をしないといけない。彼女の気持ちに応えを言わないといけない。
「冬木」
「・・・・・・はい」
僕は。
僕は・・・・・・。
「ごめん」
彼女をゆっくりと僕から離した。
「僕は、それでも僕は春華さんが好きなんだ」
「・・・・・・駄目ですか?」
「駄目とか、そういう事じゃなくて。・・・・・・君の気持ちは嬉しいんだ。本当に、でも、僕は自分の気持ちを裏切れない。僕は春華さんが好きだ」
「そうですか、そうですか」
潤んだ瞳から一滴の涙。
冬木はそれを拭って、
「あーあ、一世一代の告白だったのに。フラれちゃったなー」
「ごめん」
「謝らないでくださいよ。惨めになっちゃいます」
「ご、ごめ――」
謝りそうになって口を閉じる。
「私と同じぼっちだった先輩がどんどん遠くへ行ってしまいますね」
「そう、だな」
「ごめんなさい、引き止めちゃって」
「・・・・・・いや、いいよ」
今の僕に何を言えるのだろうか。少し考えて、
「・・・・・・冬木」
「なんです?」
「その、ありがとう」
「何がですか?」
「その、僕のこと、僕なんかのことを好きになってくれて。嬉しかった。本当に嬉しかったんだ」
「・・・・・・残酷なこと言うなぁ」
困ったように笑って、
「さて、先輩。行ってください」
「え?」
「病院。春華さんに会いたいんでしょ?」
「それは、そうだけど」
面会時間まではまだ時間がある。
「鈍いなぁ。一人で泣かせてくださいよ。失恋したんですよ、私」
「あ、ごめん・・・・・・」
「そういうところ直してくださいね。春華さんも泣かせることになりますよ」
「・・・・・・うん」
「じゃ、さよなら。先輩」
「ああ、さようなら」
「はい」
頭を下げて、僕は教室を後にする。
ドア越しに小さな嗚咽が聞こえてきた。それを聞かなかったことにして廊下を歩く。
「・・・・・・行こう」
向かう先は病院。
授業を受けていられる気持ちじゃない。余裕もない。今から向かえば間違いなく面会開始時間より早く着いてしまうだろうが、見逃してくれることを祈る。
冬木の気持ちを考えないように、彼女を傷つけてしまったことを考えないように。僕は歩くしかない。僕が考えるべきは春華さんのことだ。
道中で意識して春華さんのことを想う。
彼女はいつも笑顔で、僕も笑顔でいられた。
彼女は僕より大人で、いろんなことを教えられた。
僕の知っている春華さんは元気なのに、本当はそうじゃなくて。
そんな彼女に早く会いたかった。
僕の知っている春華さんに。
いつもの春華さんに。
病院にはすんなり入ることが出来た。廊下を歩き、エレベーターに乗って、そして病室に着いた。けども、ノックすることを躊躇う。
僕はちゃんと春華さんのために笑えるだろうか。
どうしても冬木の姿を引きずってしまう。
いや、駄目だ。僕は春華さんを選んだんだ。悩んじゃいけない。
「・・・・・・よし」
決心してノックする。小さな返事が聞こえた。
「失礼します・・・・・・」
いつもなら優しい声が聞こえた。「よお、青年」と僕を呼ぶ声が聞こえた。
現実はこれだ。
「・・・・・・春馬?」
その代わりに弱々しい声がベッドから聞こえた。
「春華さん・・・・・・」
これが本当の春華さんなのだ。
「なんだよ、来ちゃったのか。青年」
「・・・・・・そりゃ、来ますよ」
来ないわけがないじゃないか。
「ごめんね、寝たままで。ちょっと疲れちゃってね」
「いいですよ、そんなの。無理しないでください」
言いながら近くのパイプ椅子に座って春華さんの手を取る。
彼女の手は冷たくて、自分の体温を送るようにぎゅっと握った。
「どうかしたの?」
「え?」
「なんか思い詰めた顔してるぞ」
「気のせいですよ」
「そう?」
「はい。・・・・・・もしそう見えたなら、きっと春華さんが倒れたからです」
「ちょっと疲れがでただけだよ。またすぐに良くなるから」
「・・・・・・はい」
頷きながらも直感でそれは叶わないと感じてしまった。
そう思うくらい春華さんは弱っている。
「ねえ、春馬」
「なんですか?」
「絵は順調?」
「絵・・・・・・春華さんの?」
「そう。私の遺影」
「順調ですよ」
着実に進んでいる。バイトのシフトも必要最低限に削って、外に絵を描きに行くこともしていない。だんだんと完成に近づいていた。
「それならよかった」
「よかったって」
「順調なら、なんとか完成した絵を見られそうだから」
「・・・・・・そんなこと言わないでくださいよ」
「ごめんね」
春華さんは謝りながらも、言葉を訂正することはなかった。
「ごめん」
ただ謝罪を重ねるだけ。
僕は何も言えなくなって、握る手にほんの少し力を加える。
「泣くなよ、青年」
「泣いてないですよ」
「ほんと?」
「ほんとです」
零れそうになる涙をぐっと堪えて、僕は微笑んでみせた。
「ほんとだ」
「でしょ?」
「うん。安心したら、少し眠たくなってきた」
「寝ますか?」
「うん、そうしようかな」
こうして起きているのにも相当な体力を使っているのだろう。僕は邪魔にならないように春華さんの手を放そうとすると、彼女は弱々しく握り返してきて。
「春華さん?」
「眠るまで一緒にいてよ。お話しよ?」
「はい、分かりました」
手を握り直すと、春華さんは微笑んで。
「春馬」
「なんですか」
「ちゃんと絵、完成させてよね」
「はい」
「約束だからね」
「はい」
「でも、手は抜いちゃダメだからね」
「はい」
「我儘ばかりでごめんね」
「いいんですよ」
そのくらいの我儘、どんどん聞かせてほしい。
もっと大きなものでもいい。いっそ宇宙に連れてってとか、それくらい大きなスケールの我儘を聞かせてくれ。ずっと一緒にいるから、叶えるように頑張るから。
「春馬」
「はい」
「ありがとね」
それだけ言って、ゆっくり目を瞑る。しばらくして規則正しい寝息が聞こえてきた。
僕は起こさないように手を放して、音を立てぬよう静かに病室から出る。
「あ・・・・・・」
「・・・・・・」
壮年の男性と鉢合わせする。
知っている人物だ。春華さんの父親。僕は驚きつつも頭を下げて会釈する。
「こ、こんにちは」
「ああ。こんにちは」
「えっと、あの、春華さん、今ちょうど眠ったところで・・・・・・」
「そうか」
もしかしたら寝顔を見たことを咎められるかもしれない。何か言われる前に退散しようと「それではこれで」と歩き出そうとしたところで、
「ちょっと待ってくれ」
そう呼び止められてしまった。
「君――たしか、春馬くんと言ったかな?」
「え、あ、はい。そうです」
「・・・・・・よければ君と話がしたい。どうかな」
「あ、は、はい。大丈夫、ですけど」
思わぬ誘いに困惑しながら僕は頷いた。
無言の中並んで歩く。
いったい何の話をするのだろうか。そうして連れていかれたのは病院の近くにある喫茶店だった。
席について二人分のホットコーヒーを注文し、
「この間はすまなかった」
春華さんのお父さんは深々と僕に頭を下げてきた。
「頭ごなしに怒鳴ってしまった。事情は娘と息子から聞いた。君は付き合わされただけだというのに申し訳ない」
「い、いえ、そんな。謝られるようなことじゃないです」
恐縮しながら僕も頭を下げる。
「僕の方こそ、本当にすみませんでした。何も知らなくて、春華さんを連れ回しちゃったんです。こんなことになるなんて思ってもいなくて・・・・・・」
前回の件だけじゃない。今回だって僕が原因かもしれないのだ。
「春馬くん」
「はい」
「私は君に感謝しなくてはいけない」
「感謝、ですか」
「ああ。春華は昔から体が弱くてね。人より自由の少ない子だった。それ故なのか我儘も少ない子でね・・・・・・。自分の意思で外出を望んだり、無理しようとしたり、こんなことは初めてなんだ」
「そう、だったんですか」
「意外だったかな」
「正直なことを言うと、その通りです」
僕の中の春華さんはいつも活発で、自由で、行動的で、その通りに伝えると春華さんのお父さんは「そうか」と一言呟いて笑みを浮かべると、
「それがあの子の本当の姿というのなら、それだけ君は信頼されているのだろうな」
「そうでしょうか・・・・・・」
秋貴にも言われた言葉だ。
「ああ。君は信頼されているよ。そうでなければ君に遺影を描いてほしいだなんて、春華も言わないだろう」
「あ、ご、ご存じだったんですね」
「先日聞かされたよ。娘から最期の写真はいらないからと言われてね、友人に絵を描いてもらっているんだって。君のことだろう?」
「は、はい」
「ありがとう、春馬くん。娘の我儘に付き合ってもらって」
もう一度深く頭を下げられてしまう。
「いえ、むしろ僕なんかの絵で申し訳ないくらいで」
「卑下しないでくれ。春華の望んだことなんだから」
「そう言っていただけると・・・・・・」
認めてもらえたみたいで心が少し軽くなる。
「・・・・・・そして、勝手なお願いで申し訳ないが娘を頼む。こんなことをお願いするのもとても残酷だとは思うのだが」
「そんな・・・・・・」
頼まれることもないことだ。
僕は僕の意思で春華さんと一緒を選んだのだ。
「あ、あの、僕からも一つお願いしてもいいでしょうか」
「ああ、いったい何だろう」
「えっと、その、春華さんのこと、子供の頃の彼女のことを教えてもらってもいいですか?」
「ふむ?」
「僕、何も知らないんです。春華さんのこと。本当は本人に聞くべきなんでしょうけど、話してくれる気もしませんし」
「そうだろうか?」
「と、思います」
「・・・・・・そうか。そうかもな」
神妙に頷いて、
「わかった。私の話せることなら話そう」
春華さんのお父さんは頷いて、
「とはいっても、さっき話した通りの子だ。あまり長く語れることはないんだが・・・・・・それでも構わないだろうか?」
「はい、是非お願いします」
「そうだな」
春華さんのお父さんはコーヒーを一口飲み、
「一番の印象というのは、やはり大人しい子というものだ」
「はい」
「さっきも話した通り、生まれたときから体も弱くてね、でも、それをつらい、苦しい、なんて弱音を吐かない強い子でもあった。秋貴が生まれてからも、親を困らせることのない弟想いの姉に育ってくれたと思う」
「仲良さそうですもんね」
「ああ。・・・・・・だが、こうして改めて話してみると、春華との思い出はやはり少ないな。どうしても病室で本を読んだり、ただ外を見ていたり、そんな姿ばかり思い出す」
「そう、ですか」
「すまないね、親の癖にこんな話しかできなくて」
「い、いえ、そんな」
この機会を経て、僕はようやく春華さんのことを少し知った。
春華さんのお父さんから話を聞いて、僕が自宅に帰ってきたのは日も沈みかけた時間だった。
自室に戻り、キャンバスを立てたイーゼルの前に座って、
「・・・・・・春華さん」
今日の話を思い出しつつ、筆を握る。
春華さんのご家族、秋貴も含めて、春華さんは大人しい性格の子だと考えていて。
我慢強くて、自己主張が少なくて、我儘も言わない子だと。
思い返してみればその通りだったと思う。
僕の話は聞いてくれるけど、自分の話なんてせいぜい病院での愚痴くらいのものだ。
そんな春華さんが、僕に言ってくれた我儘。
僕は何としてもこの絵を描き上げないといけない。
「これが、僕があなたにできること、なんですよね・・・・・・」
僕が春華さんにしてあげられる精一杯のこと。
それを心に刻み込んで、僕はキャンバスと向き合った。
*
それから。
僕は春華さんの絵にできる限りの時間を費やした。
遂には学校を休み、バイトも辞めた。自室に籠ってただ筆を動かしていく。
これでも、一応は真面目に過ごしていたつもりだ。
普段の僕ならサボることなんてしなかったから、両親も心配していたし、冬木や秋貴からの連絡もあったが、それでも僕は部屋から出なかった。そうしないと僕は立ち止まって進めなくなりそうだった。
唯一の外出は春華さんのお見舞いだけだ。
「こんにちは」
ノックして病室に入ると、今日の春華さんはベッドを起こして座っていた。
「春馬」
「どうも、今日は少し調子良さげですか」
「うん」
頷いてくれる。
でも、春華さんは日に日にやつれているような気がした。
「・・・・・・」
いや、気のせいだ。
「どうかしたの?」
「いえ、どうもしてないです」
悪いことばかり考えても仕方がない。
僕はベッドの近くにあるパイプ椅子に座ると、春華さんの手を握り、彼女もそっと握り返してくれる。気が付けば定着していた会話のスタイルだ。
「最近よく来てくれるね」
「そうですか?」
今の僕を春華さんに話したらきっと怒られる、だから僕は何も話さなかった。
「ここのところ毎日じゃん。学校とかバイトとか大丈夫?」
「そりゃもちろん」
「それならいいんだけど、ね、私のことばっかり優先しないでよ」
「はい」
頷きながらも、春華さん以外に優先することなんてあるわけないじゃないかと心の中で反論する。
「んー? 反抗的な目をしているな」
「い、いやいや、そんなことないですよ」
「本当かなー?」
「本当ですよ」
「それならよろしい」
春華さんは納得したように頷くと、
「でもさ、本当に自分を優先してよね。老い先短い私に構ってばっかじゃ損するよ」
「しませんよ」
「するって」
「絶対にしません」
「強情だなぁ」
「こればかりは譲りませんよ」
「しょうがない奴だ」
春華さんは呆れたように笑いながらも、少しだけ頬を赤らめてくれていて。
きっと満更でもないのだろうと、都合よく解釈しておく。
それから少し会話を続けていると、春華さんはまた眠たそうにして。彼女が眠りにつくまで病室で過ごす。それが最近の流れだった。
「それでは、おやすみなさい」
それだけ小声で残して、ゆっくりと手を離すと僕は病室を後にする。
帰ったらまた絵の続きを描く。
そんな日々を更に重ねて。
――やがて。
「・・・・・」
春華さんの絵が完成した。
僕が描いてきた中で、きっと、最高傑作だと言えるもの。
何度も描いては修正を重ねて、ようやく完成の時を迎えたのだ。
「・・・・・・」
けれども、だ。
僕には完成させた喜びよりも、完成させてしまった悲しみの方が勝っていた。
この絵は彼女の遺影に使われる――彼女の最期を象徴するものとなってしまうのだ。
最初からそんなの分かっていたことだ。そうするように頼まれたのだから。そう言い聞かせても僕の心から悲しみが抜けることはなくて。
「思い悩んでも仕方ない、よな」
そうだ。思い悩んでも仕方ない。
自分に言い聞かせて、部屋の壁にかかった時計を見る。
「・・・・・・一時半、か」
病院の面会開始まであと三十分くらい。
『ごめん、今いいかな?』
秋貴へとメッセージを送る。すると、すぐに既読がついて、
『おう。どうした?』
『絵が完成したんだ』
それですべてが伝わったようだ。『すぐ行く』とメッセージが来た。
僕はキャンバスの絵に傷がつかないようにしっかりと布を掛けて秋貴を待つ。彼はまた三十分くらいで来てくれて、
「よお」
「うん」
「なんか久しぶりだな」
「そうかな」
二週間くらいだったか。ずっと籠りきりだったし。ちゃんと顔を合わせるのはたしかに久しぶりかもしれない。
「ありがとう、わざわざ」
「いいんだ。お前こそお疲れさん」
「うん」
そして。
秋貴の運転で病院まで移動する。
「なあ」
「ん?」
僕はとくに何かを考えることもなく、ぼけーっと窓から景色を眺めていると、秋貴から声をかけられた。
「その、なんだ、えっとさ」
「どうしたんだよ」
秋貴にしてはらしくない歯切れの悪さだ。
「いや、すまん。なんでもない」
「そう?」
「ああ」
それから僕達は病院に着いて、秋貴は前と同じように病室までキャンバスとイーゼルを運ぶのを手伝ってくれると、「帰るときに連絡をくれ」と一言残して病室から出ていった。
「さて、こんにちは、春華さん」
「うん、こんにちは」
顔色は最近の中でずっとよかった。調子が良いのかもしれない――なんて、油断できるわけじゃないけど。
「この大荷物ってことは」
「はい。・・・・・・春華さん、お待たせしました」
「うん」
春華さんはベッドを起こして僕と向き合う。
「今日は快調でね。こんな日に持ってきてくれてよかったよ」
「そうでしたか」
「それが完成した絵?」
布を掛けたままのキャンバスを指差す。
「そうです」
「よしよし、見せてくれよ。実は結構楽しみにしてたんだから」
「はい」
僕は頷いて、布を取った。
「わあ・・・・・・」
描いたのは微笑む春華さんの姿。
いつも浮かべている優しい姿。
背景を青くしたのは海での景色が忘れられなかったからだ。
「これが、私の」
「はい」
「不思議な気持ち。・・・・・・何ていうか、鏡を見てる感じ?」
「それならよかった。全然似てないなんて言われたら急いで描き直さないといけないところでした」
「あ、でも」
「え、なんか問題ありました?」
「なんか私より絵の方が奇麗かも」
「そんなことないですよ」
僕ははっきりと言い切る。口にするのは照れるが、これは譲れない。
「本人の方が断然上です」
「それ、恥ずかしいんだけど」
「でも事実ですからね」
「あーはいはい。わかりました。――もう体温上がっちゃうよ、この後検温あるのに」
パタパタと自分の手で顔を仰ぎながら言葉を続ける。
「でも、本当によかったよ。完成した絵が見られて」
「はい」
「何かお礼をしないといけないなー」
「お礼なんて、そんなのいいですよ」
「労力の安売りはよくないぞ、青年。私が依頼して、君はそれを成し遂げたんだから。そういうところはちゃんとしないとね」
「いやでも、ほら、今まで色々と相談に乗ってもらいましたし」
「それくらいでトントンになることはないでしょ」
「僕はそれでいいんですけど」
「ダメだよ、こういうのはしっかりしないとね」
そう言って春華さんは考え始める。
「現実的なのはお金かな」
「僕達、友達同士でしょう? お金のやり取りなんて必要ないですよ」
「うーん、バイト料ってことで」
「嫌です」
「結構難しいこと言うな」
「春華さんが素直にただで受け取ってくれればいいんですよ」
「それはダメ」
お互い主張が平行線だ。
どうしたものかと悩みだしたところで、春華さんは何かいい案を思いついたのか「そうだ!」と声に出して、
「何か妙案でも思いつきましたか」
「うん。私も一つ、春馬の頼みを聞いてあげようと思って」
「頼みですか」
「そう。なんでもいいよ。もちろん私の叶えられることなら。・・・・・・あ、でも、できること少ないし割に合わないか」
「そんなことないですよ。でも、そうだな・・・・・・いきなり言われてもパッとすぐには出てこないんですよね」
「そんなもん?」
「そんなもんです」
嘘だ。
本当はすぐにでも口に出しそうなことがあった。
でも、それを・・・・・・「生きてください」なんて春華さんに言うのはあまりにも残酷だ。
絵から離れて、いつものように春華さんのベッドの傍へパイプ椅子を開いて座る。すると、「ん」と春華さんが手を差し出してきて、優しく握る。
「春馬」
「はい、なんですか」
「何か悩み事かね」
触れ合って何か感じるものがあったのだろうか。
「そんなことは・・・・・・」
「・・・・・・私に頼み事ってやっぱり難しいかな」
「違いますよ」
少しだけ手に力を込める。
「本当に、ただ思いつかないだけで」
「そうかなー」
「そうですよ」
「あ、春馬にだったらちょっとエッチなのでもいいぞ」
「なっ、と、いや、そういう誘惑しないでください!」
「あはは、じょーくじょーく!」
まったく春華さんは。そうやって僕を笑わせてくれるんだから。
「・・・・・・頼み事考えておきますよ。近いうちに必ず言います」
「わかった」
春華さんは頷いて、
「でも、あんまり待たせないでね。私いなくなっちゃうから」
「またそんなこと。縁起でもないこと言わないでくださいよ」
「ごめん」
困ったように笑う。
僕はその笑顔を見ているのがつらくて顔を伏せた。
「春馬」
「なんですか」
「ううん、なんでもない」
そう言って僕の頭を撫でる。
「なんで撫でるんですか」
「何となく」
「そうですか」
「嫌だった?」
「いえ、そんなことはないですけど。あ、でも子供っぽく思われているなら嫌だな」
「そんなことないよ。春馬は立派」
「その言い方は逆に疑ってしまうんですけど」
「まあまあ、大人しく撫でられてなさい」
それからはお互い無言のままで、僕は大人しく撫でられた。
心地のいい時間が過ぎていく。
こんな時間が長く続けばいいのに。そう思わずにはいられなくて。
「春馬」
「なんです?」
「ありがとね」
「どういたしまして」
もっと続くように祈る。僕達がずっと一緒にいられるように祈る。
でも、現実というのは非情で、何よりも残酷だった。




