冷酷公爵様は、私にだけ甘すぎる
「エレナ。ヴァレンシュタイン公爵家から、正式に婚約の申し込みが届いた」
父の言葉に、エレナ・フォルティスは手にしていた紅茶のカップを静かに置いた。
「……公爵家から、ですか?」
「ああ」
ヴァレンシュタイン公爵家。
王国でも有数の名門であり、莫大な財産と広大な領地を持つ家だ。
そして、その当主であるカイル・ヴァレンシュタイン公爵は――。
「氷の公爵」
社交界では、そう呼ばれている。
無駄なことを話さず、笑わず、誰にも心を許さない。
そんな噂を、エレナも何度か耳にしていた。
「どうして私に……?」
「両家にとって悪くない縁談だ。ヴァレンシュタイン公爵家が、我が家との繋がりを望んでいる」
「そう……ですか」
エレナは俯いた。
父の表情を見れば、断れる状況ではないことくらい分かる。
フォルティス伯爵家は、決して裕福ではなかった。
領地の運営にも苦労している。
公爵家との縁談を断れば、今後さらに家が苦しくなる可能性もある。
「……お受けします」
エレナは、静かに答えた。
「本当にいいのか?」
「はい。私一人の気持ちで、家族を困らせるわけにはいきませんから」
そう微笑んだものの、胸の奥には小さな不安が残った。
会ったこともない男性の妻になる。
しかも相手は、冷酷だと噂される公爵。
きっと、愛されることなどない。
けれど。
家のためなら、それでいい。
そう思っていた。
そして、婚約が決まってから二週間後。
エレナはヴァレンシュタイン公爵邸を訪れていた。
巨大な屋敷。
黒い門をくぐった瞬間、エレナは緊張で背筋を伸ばした。
「お待ちしておりました、エレナ様」
使用人たちが一斉に頭を下げる。
案内された応接室で待つこと数分。
扉が開いた。
「……初めまして」
低く落ち着いた声。
エレナは立ち上がった。
「初めまして。エレナ・フォルティスと申します」
目の前に立っていたのは、噂通りの美しい男性だった。
黒髪。
鋭い灰色の瞳。
整った顔立ちに、隙のない佇まい。
これが、カイル・ヴァレンシュタイン公爵。
「カイル・ヴァレンシュタインだ」
短い挨拶。
やはり、噂通り無口な方なのだろう。
エレナは少し緊張しながら席についた。
「この度は、私との婚約をお受けいただきありがとうございます」
「……こちらこそ」
「私は、政略結婚であることを理解しております」
カイルの眉が、わずかに動いた。
「ですから、公爵様に無理に私を好きになっていただこうとは思っておりません」
「……」
「妻として、公爵家に恥じないよう努めます」
カイルは、じっとエレナを見つめていた。
その視線に耐えきれず、エレナは少しだけ目を伏せる。
「何か、おかしなことを申し上げましたか?」
「いや」
カイルは静かに答えた。
「君は……私が怖くないのか?」
「え?」
「私について、色々と聞いているだろう」
エレナは少し迷ってから、正直に答えた。
「……冷酷な方だと伺っています」
「そうか」
「ですが」
エレナは顔を上げた。
「実際にお会いしてみないと分からないと思っています」
カイルが黙り込む。
やがて、ほんのわずかに目を細めた。
「そういうところか」
「……?」
「いや、何でもない」
それから二人は、婚約後の生活について話し合った。
エレナが公爵邸へ移る日。
社交界への対応。
領地のこと。
必要な話だけを淡々と進めていく。
そして最後に、カイルが言った。
「何か希望はあるか?」
「希望……ですか?」
「ああ。屋敷で暮らすにあたって、不便なことがあれば言ってくれ」
エレナは少し考えた。
「では、一つだけ」
「何だ?」
「庭に、小さな花壇を作ってもよろしいでしょうか?」
カイルは、意外そうな顔をした。
「花壇?」
「はい。花を見るのが好きなので」
「……分かった」
あっさり許可され、エレナは微笑んだ。
「ありがとうございます」
その笑顔を見た瞬間。
カイルの視線が、ほんの一瞬だけ彼女の顔に留まった。
けれどエレナは気づかなかった。
帰りの馬車に乗り込む前。
エレナが振り返る。
「本日はありがとうございました」
「ああ」
「婚約者として、これからよろしくお願いいたします」
そう言って頭を下げる。
カイルは何も言わなかった。
ただ、エレナが馬車に乗り込むまで、ずっとその姿を見つめていた。
馬車が見えなくなったあと。
「旦那様」
側に控えていた執事が声をかける。
「よろしいのですか?」
「何がだ」
「エレナ様に、あれほど何もお話しされなくて」
カイルは答えなかった。
代わりに、エレナが先ほどまで座っていた椅子へ視線を向ける。
「……思っていたより、ずっと可愛らしいな」
「はい?」
「何でもない」
そう言って、カイルは屋敷の中へ戻っていく。
その日の夜。
公爵邸では、さっそく使用人たちに指示が出された。
「庭の南側を整えておけ」
「南側、でございますか?」
「ああ。花壇を作る」
「何を植えましょう?」
カイルは少し考えた。
「エレナが好きな花を調べておけ」
「……承知しました」
さらに、彼は続ける。
「それから、彼女の部屋は日当たりのいい場所へ変更する」
「かしこまりました」
「家具も新しく揃える。今あるものでは足りない」
「はい」
「それと――」
次々と指示を出すカイルに、執事は少し驚いた。
今まで屋敷のことなど最低限しか気にしていなかった主人が、婚約者のためにこれほど細かく指示を出している。
「旦那様」
「何だ」
「エレナ様のことを、随分と気にかけておられるのですね」
カイルは、一瞬だけ黙った。
「……当然だろう」
「当然、ですか?」
「あの女性は、これから私の妻になる」
それだけ言って、カイルは自室へ戻っていった。
けれど。
机の上には、今日エレナが残していった一枚の書類が置かれていた。
彼はそれを手に取る。
そこには、エレナの美しい字で名前が書かれていた。
エレナ・フォルティス。
カイルは、その名前を指先でなぞる。
「……ようやく、私のものになる」
誰にも聞こえないほど小さな声。
その表情は、普段の冷酷な公爵とはまるで違っていた。
そして翌朝。
エレナのもとには、公爵家から大量の贈り物が届くことになる。
花。
菓子。
宝石。
そして――。
彼女のためだけに用意された、屋敷の庭園の設計図。
エレナは、まだ知らない。
自分が思っている以上に。
あの「氷の公爵」が、自分に夢中になっていることを。
婚約が決まってから一ヶ月。
エレナは、ヴァレンシュタイン公爵家へ嫁ぐ日を迎えていた。
屋敷へ到着すると、使用人たちが整列して出迎えてくれる。
「お帰りなさいませ、エレナ様」
「……お帰り、ですか?」
思わず聞き返すと、執事が微笑んだ。
「これからはこちらが、エレナ様のお屋敷でございますから」
その言葉に、エレナの胸が少しだけ温かくなる。
案内された自室の扉を開けた瞬間、エレナは目を見開いた。
「わぁ……」
窓からは庭園が一望できる。
部屋には淡い色の家具が揃えられ、窓際には小さな花瓶まで置かれていた。
「こちらは、旦那様がご用意されたものです」
「公爵様が?」
「はい」
エレナは驚いた。
婚約者とはいえ、まだ結婚前だ。
ここまでしてもらう理由が分からない。
「それから、こちらを」
侍女が一枚の紙を差し出した。
庭園の設計図だった。
南側に作られる予定の、小さな花壇。
そこにはエレナが好きだと話した花の名前まで書かれている。
「私のために……?」
「旦那様が『彼女が好きな花を植えておけ』と」
エレナの頬が、少しだけ緩んだ。
冷たい方だと思っていた。
けれど、意外と優しい人なのかもしれない。
そう思った。
その日の夕食。
エレナが食堂へ向かうと、カイルはすでに席についていた。
「遅かったな」
「申し訳ありません」
「謝る必要はない」
カイルは立ち上がると、エレナの椅子を引いた。
「座って」
「……ありがとうございます」
エレナが座ると、彼も向かいの席へ腰を下ろす。
食事が始まる。
しばらくは静かな時間が続いた。
やはり噂通り、あまり話さない方なのだろう。
エレナがそう思っていると。
「料理は口に合うか?」
「はい。とても美味しいです」
「そうか」
それだけ言って、カイルは自分の食事へ戻った。
けれど数分後。
「この魚は苦手ではないか?」
「え?」
「以前、魚料理はあまり好きではないと聞いた」
エレナは驚いた。
「よく覚えていらっしゃいますね」
「君のことだからな」
「……?」
意味が分からず、エレナは首を傾げた。
するとカイルは、魚料理の皿を自分の前へ移動させ、代わりに別の料理を彼女の前へ置いた。
「こちらを食べるといい」
「でも……」
「無理に食べる必要はない」
あまりにも自然な動作だった。
エレナは小さく笑う。
「公爵様は、思っていたより優しい方なのですね」
カイルの手が止まった。
「……そうか?」
「はい」
「他の人にも同じようにすると思うか?」
「え?」
カイルは、少しだけ眉を寄せた。
「私は、君だからしている」
エレナの心臓が跳ねた。
「……そう、ですか」
「ああ」
カイルは何事もなかったかのように食事を続ける。
けれど、エレナはその後しばらく顔を上げられなかった。
数日後。
エレナは、公爵夫人として初めて王都の夜会へ出席することになった。
準備を終えて玄関へ向かうと、カイルが待っていた。
「綺麗だ」
「……え?」
突然の言葉に、エレナは固まった。
「そのドレスがよく似合っている」
「ありがとうございます」
カイルは、彼女の姿を上から下まで確認するように見つめた。
「だが、少し寒そうだ」
「大丈夫です」
「そう言うと思った」
彼は自分の外套を脱ぎ、エレナの肩へかけた。
「これを使え」
「公爵様が寒くなってしまいます」
「私は平気だ」
そう言って、カイルはエレナの肩から外套が落ちないよう整える。
「行こう」
二人で馬車に乗り込む。
夜会の会場に到着すると、たくさんの貴族が二人を取り囲んだ。
「まあ、エレナ様。とてもお綺麗ですわ」
「公爵様がこんなに美しい方を妻に迎えられるとは」
次々に声をかけられ、エレナは笑顔で応じる。
その隣で、カイルは静かに彼女を見守っていた。
しばらくすると、一人の青年がエレナへ近づいてきた。
「エレナ嬢、お久しぶりです」
「まあ、ルーカス様」
以前、社交界で何度か顔を合わせた侯爵令息だった。
「もしよろしければ、一曲お相手願えませんか?」
「申し訳ありません。私は――」
「彼女は踊らない」
カイルが遮った。
ルーカスが驚いたように彼を見る。
「公爵様?」
「今夜は私と来ている」
カイルはエレナの腰へ手を回した。
「彼女を借りるつもりはない」
「もちろん、失礼いたしました」
ルーカスが去っていく。
エレナは小声で尋ねた。
「公爵様。どうしてお断りに?」
「嫌だったからだ」
「……何がですか?」
「君が他の男と踊るのが」
あまりにも真っ直ぐな言葉に、エレナは目を丸くした。
「嫉妬……ですか?」
「そうだ」
「公爵様も嫉妬するのですね」
「君のことになると、する」
カイルは平然としている。
エレナだけが、顔を赤くしていた。
「では、一曲だけ私と踊るか?」
「え?」
「他の男と踊らせるくらいなら、私が踊る」
差し出された手。
エレナは少し迷ってから、その手を取った。
音楽が流れる。
カイルの手が、そっとエレナの腰を支えた。
「緊張しているか?」
「少しだけ」
「なら、私だけ見ていればいい」
「……はい」
二人は静かに踊った。
カイルの動きは完璧だった。
けれど、エレナが少しでも足を滑らせると、すぐに支えてくれる。
「大丈夫か?」
「はい」
「本当に?」
「本当です」
カイルは安心したように微笑んだ。
その表情を見て、エレナは思った。
社交界では「氷の公爵」と呼ばれているのに。
自分に向けられる彼の表情は、驚くほど優しい。
夜会が終わり、屋敷へ戻ったあと。
エレナは自室の窓から庭を眺めていた。
まだ完成していない花壇。
そこには、明日植える予定の花が並べられている。
「……素敵な人なのかもしれない」
小さく呟く。
そのとき。
コンコン。
扉が叩かれた。
「はい?」
「私だ」
カイルだった。
「どうぞ」
扉が開く。
「まだ起きていたのか」
「はい。庭を見ていました」
カイルは窓の外へ目を向ける。
「花壇は、もうすぐ完成する」
「楽しみです」
「君が喜ぶなら、いくらでも作ればいい」
「そんなにたくさんは必要ありませんよ」
エレナが笑うと、カイルもわずかに口元を緩めた。
「……そうか」
そして、彼はしばらく彼女を見つめた。
「エレナ」
「はい?」
「この屋敷で、何か困ったことはないか?」
「ありません。皆さん親切ですし、公爵様も……」
「私も?」
エレナは少し恥ずかしそうに頷いた。
「はい。とても優しくしていただいています」
カイルは、満足そうに目を細めた。
「それならよかった」
彼が部屋を出ようとしたとき。
「公爵様」
「何だ?」
「今日は、ありがとうございました」
「……ああ」
扉が閉じる。
廊下へ出たカイルは、しばらくその場から動かなかった。
「旦那様?」
通りかかった執事が声をかける。
「……彼女に笑顔で礼を言われた」
「はい?」
「今日は良い日だ」
執事は、思わず目を瞬いた。
普段ほとんど感情を見せない主人が、明らかに嬉しそうにしている。
しかし、その翌朝。
エレナが庭へ出ると、花壇には予定より遥かに多くの花が植えられていた。
「こんなに……?」
驚いていると、侍女が答える。
「旦那様が、昨日の夜に追加されたのです」
「どうして?」
「『彼女が喜ぶなら、もっと増やせ』と」
エレナは思わず笑ってしまった。
冷酷公爵。
そんな噂は、どこへ行ったのだろう。
けれど、エレナはまだ知らない。
カイルが優しいのは、彼女にだけ。
そして、その優しさの奥には――。
彼女を誰にも渡したくないという、強い独占欲が隠されていることを。
結婚して三ヶ月。
エレナは、ヴァレンシュタイン公爵家での生活にもすっかり慣れていた。
朝になれば庭を散歩し、昼は公爵家の仕事を手伝う。
夕食はカイルと二人で食べることが多く、夜にはそれぞれの部屋へ戻る。
穏やかで、何の不満もない生活だった。
ただ一つだけ。
エレナには、どうしても分からないことがあった。
「……旦那様は、私のことをどう思っているのでしょう」
自室の窓辺で、エレナは小さく呟いた。
カイルは優しい。
それは間違いない。
寒ければすぐに暖炉をつけてくれる。
体調を崩せば仕事を放り出してでも様子を見に来る。
好きな花も、食べ物も、苦手なものも覚えている。
けれど。
カイルから「愛している」と言われたことは、一度もなかった。
政略結婚なのだから仕方がない。
そう思っていた。
けれど最近、少しだけ不安になっていた。
――自分は、本当にこの人の妻でいいのだろうか。
そんなときだった。
社交界で、一つの噂を耳にしたのは。
『ヴァレンシュタイン公爵家には、後継者が必要でしょう?』
『まだお若い公爵ですもの。いずれは別の令嬢を――』
もちろん、ただの噂だ。
カイル本人から何かを言われたわけではない。
それでも。
エレナの胸には、その言葉が引っかかった。
その日の夜。
いつものように二人で夕食を取っていると、カイルがエレナの顔を見た。
「今日は、何かあったか?」
「え?」
「いつもより静かだ」
まただ。
どうして、この人はこんなに些細な変化に気づくのだろう。
エレナは少し迷ってから、口を開いた。
「……旦那様」
「なんだ?」
「一つ、お願いがあります」
カイルの手が止まった。
「言ってみろ」
「もし……私が、この家を出たいと言ったら」
「…………」
空気が変わった。
カイルは何も言わない。
ただ、エレナをじっと見つめている。
「どうなさいますか?」
「理由は?」
「それは……」
エレナは俯いた。
「旦那様には、もっと相応しい方がいるのではないかと思って」
「誰がそんなことを言った」
「誰というわけではありません。ただ、私は――」
「エレナ」
低い声だった。
いつもの穏やかな声とは違う。
「顔を上げろ」
エレナがゆっくり顔を上げる。
カイルの表情から、いつもの余裕が消えていた。
「君は、私の妻だ」
「はい」
「それが嫌なのか?」
「嫌ではありません」
「では、なぜ出ていく?」
「……旦那様が、私を必要としていないように感じるからです」
言った瞬間。
カイルが目を見開いた。
「必要としていない?」
「はい」
「私が?」
その声には、驚きと困惑が混ざっていた。
「私は……旦那様に愛されているのか分からなくて」
しばらく沈黙が続いた。
やがてカイルは、深く息を吐いた。
「……そうか」
その声が、ひどく寂しそうに聞こえた。
「私は、伝えているつもりだった」
「え?」
「君が寒そうにしていれば暖炉をつける。君が好きだと言った花を庭いっぱいに植える。食事だって、君の好みに合わせる」
「はい……」
「君が他の男と話していれば嫉妬する」
「……それは、分かっています」
「それでも、伝わっていなかったのか」
カイルは苦笑した。
初めて見る顔だった。
冷静で何事にも動じない公爵が、どうしていいのか分からないという顔をしている。
「……申し訳ありません」
「謝るな」
カイルは立ち上がった。
そしてエレナの前まで歩いてくる。
「君に伝わっていなかった私が悪い」
「旦那様……」
「エレナ」
カイルは彼女の手を取った。
その手は、わずかに震えていた。
「私は君に出ていかれることだけは、耐えられない」
エレナの胸が大きく鳴った。
「離縁を望んでいるのか?」
「……はい」
「本当に?」
「……」
「私と別れたい?」
問いかける声が、少しずつ弱くなっていく。
エレナは答えられなかった。
カイルはそんな彼女を見つめたまま、苦しそうに眉を寄せる。
「……嫌だ」
「え?」
「私は嫌だ」
いつもの公爵らしい冷静さは、もうどこにもなかった。
「君と離婚するつもりはない」
「でも……」
「君が望むなら、私は変わる」
「旦那様?」
「もっと言葉にする。もっと君に伝える」
カイルはエレナの手を両手で包み込んだ。
「だから、出ていくなんて言わないでくれ」
「……」
「私は君が思っている以上に、君に執着している」
エレナは息を呑んだ。
「君が笑えば嬉しい」
「……はい」
「君が悲しめば苦しい」
「……はい」
「他の男が君を見るだけで腹が立つ」
「それは少し怖いです」
「……努力する」
思わず、エレナの口元が緩んだ。
カイルはその表情を見て、ほんの少し安心したようだった。
「君がこの家に来てくれてから、私は毎日幸せだった」
「旦那様……」
「だから、君を失う未来だけは考えたくない」
その言葉が胸に染み込んでいく。
エレナはずっと勘違いしていた。
カイルの優しさは、ただの義務なのだと思っていた。
妻だから。
公爵夫人だから。
だから大切にしてくれているのだと。
けれど。
「……旦那様」
「なんだ?」
「私、もう一度だけ聞いてもいいですか?」
「ああ」
「私のことを……本当に必要としてくださっていますか?」
カイルは一瞬だけ目を伏せた。
そして。
今までで一番優しい顔で笑った。
「必要なんて言葉では足りない」
「……え?」
「私は、君が欲しい」
その言葉に、エレナの頬が熱くなる。
「妻としてではなく、一人の女性として」
カイルはまっすぐ彼女を見つめた。
「君を愛している」
エレナの心臓が、強く跳ねた。
初めて聞いたその言葉は。
思っていたよりずっと、甘かった。
そして同時に。
この人が自分をどれほど深く想っていたのかを、エレナは初めて知った。
けれど。
まだ、エレナには一つだけ聞きたいことがあった。
「……では、どうして今まで言ってくださらなかったのですか?」
カイルの顔が固まった。
「……」
「旦那様?」
「……君なら、分かっていると思っていた」
「分かりませんよ」
「…………」
カイルはしばらく黙り込んだあと、ぽつりと言った。
「……私は、恋愛に関しては得意ではないらしい」
エレナは思わず笑ってしまった。
するとカイルは少し不満そうに眉を寄せる。
「笑うな」
「すみません」
「……だが、君が笑ってくれるなら、それでもいい」
そう言って。
カイルはもう一度、エレナの手を握り直した。
その手は、今度は震えていなかった。
ただ、決して離すつもりがないことだけは。
エレナにも、はっきりと伝わっていた。
翌朝。
エレナが目を覚ますと、窓の外から小鳥の声が聞こえてきた。
カーテンを開けると、庭には朝露に濡れた花々が咲いている。
結婚したばかりの頃よりも、ずっと花が増えていた。
「……綺麗」
思わず呟く。
「気に入ったか?」
「えっ?」
振り返ると、扉の前にカイルが立っていた。
「旦那様?」
「おはよう、エレナ」
「おはようございます」
カイルは庭を眺めるエレナの隣まで歩いてくる。
「昨日の話だが」
「はい」
「君に、まだ伝えていないことがある」
エレナは首を傾げた。
「何でしょう?」
カイルは少しだけ迷ったあと、静かに口を開いた。
「私は、君と結婚する前から君を知っていた」
「……?」
「正確には、君を見ていた」
エレナは目を瞬かせる。
「いつからですか?」
「君がまだ十六歳の頃だ」
「そんな前から……?」
「ああ」
カイルは懐かしそうに目を細めた。
「王宮で開かれた茶会に、君が来ていた」
「あ……」
エレナも少しずつ思い出していく。
確か、昔。
父に連れられて王宮の庭園で開かれた茶会に参加したことがあった。
そこで迷子になった少女を見つけて、母親のところまで連れて行った。
「もしかして……あの時?」
「ああ」
カイルは頷いた。
「君は、自分が楽しむことよりも、困っている子供を助けることを選んだ」
「そんなこと……」
「私は、その姿を見ていた」
エレナは驚いた。
「それから、何度か君を見かけるようになった」
「……」
「花を見て笑っている君も、使用人に礼を言う君も、誰かのために怒っている君も」
カイルの声は穏やかだった。
「気づけば、君のことばかり目で追っていた」
「旦那様……」
「だから、父から君との縁談を持ちかけられた時」
カイルは少しだけ笑った。
「断る理由など、どこにもなかった」
エレナは胸がいっぱいになった。
政略結婚だと思っていた。
家同士の都合で決められた結婚だと思っていた。
けれど。
少なくともカイルにとっては、違ったのだ。
「では……私との結婚を望んでくださったのは」
「私だ」
「最初から?」
「最初からだ」
迷いのない答えだった。
「君が他の誰かの妻になる未来など、考えたくなかった」
カイルはそう言ってから、少し困ったように笑う。
「だから、君の父上から了承を得た時は、内心かなり喜んでいた」
「……意外です」
「何が?」
「旦那様は、いつも冷静なので」
「君の前では、そうでもないだろう?」
「……確かに」
二人で顔を見合わせる。
自然と笑みがこぼれた。
しばらくして、エレナは小さく息を吐いた。
「私も……昨日まで、勘違いしていました」
「何を?」
「旦那様は、私を妻だから大切にしてくださっているのだと思っていました」
「違う」
カイルは即答した。
「私は、エレナだから大切にしている」
その言葉に、エレナの頬が赤くなる。
「……ずるいです」
「何が?」
「そんなことを言われたら……」
「離縁できなくなる?」
からかうような声。
エレナは俯いた。
「……はい」
カイルが目を見開く。
「本当か?」
「はい」
「昨日とは答えが違うな」
「昨日は、旦那様のお気持ちを知らなかったので」
「では、今は?」
エレナは少しだけ迷った。
けれど。
今度は、きちんと自分の気持ちを伝えようと思った。
「私も、旦那様と一緒にいたいです」
「……」
「これからも、ずっと」
カイルは何も言わなかった。
ただ、エレナをじっと見つめている。
「旦那様?」
「……困ったな」
「何がですか?」
「嬉しすぎて、どういう顔をすればいいのか分からない」
エレナは笑った。
「いつもの冷たい公爵様はどこへ行ったんでしょう?」
「君の前では必要ない」
カイルはそう言って、そっとエレナを抱き寄せた。
「エレナ」
「はい」
「もう二度と、離縁したいなんて言わないでくれ」
「……努力します」
「努力では困る」
「ふふっ」
「笑い事ではない」
そう言いながらも、カイルは嬉しそうだった。
エレナは彼の胸元に顔を寄せる。
「でも……一つお願いがあります」
「なんだ?」
「これからは、もっと言葉にしてください」
「分かった」
「好きだとか、大切だとか」
「分かった」
「私が不安にならないように」
「……何度でも言う」
カイルはエレナの髪を優しく撫でた。
「君が望むなら、毎日でも」
「毎日は少し多いです」
「私は毎日言いたい」
「旦那様……」
また頬が熱くなる。
するとカイルは、満足そうに笑った。
「やっと、私の気持ちが伝わったな」
「はい」
「なら安心した」
カイルは庭に咲く花を見つめた。
「そういえば、この庭」
「はい?」
「最初は君が好きだと言った花だけ植えるつもりだった」
「……今は?」
「君が好きそうな花を見つけるたびに増やしている」
「だから、こんなに増えたんですね」
「ああ」
エレナは庭を見渡した。
色とりどりの花。
柔らかな朝の光。
そして、自分を大切そうに抱きしめてくれる人。
ここに来る前は、政略結婚なのだから幸せになれるはずがないと思っていた。
けれど。
人生は、思っていたよりずっと優しいものなのかもしれない。
「カイル様」
「なんだ?」
エレナは初めて、彼を名前で呼んだ。
「……これからも、よろしくお願いします」
カイルは一瞬、固まった。
「……もう一度」
「え?」
「今の呼び方を、もう一度」
「カイル様?」
「……駄目だな」
「何がですか?」
「嬉しすぎる」
そう言って、カイルはエレナをさらに強く抱きしめた。
「これからもよろしく、エレナ」
そして耳元で、静かに囁く。
「最初から、君を手放すつもりなどなかった」
その言葉は、少しだけ重くて。
けれど。
エレナにとっては、何よりも嬉しい愛の言葉だった。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
『冷酷公爵様は、私にだけ甘すぎる』は、冷酷と噂される公爵様が、実はヒロインのことが大好きで仕方がない……という王道の溺愛ストーリーでした。
政略結婚だと思っていたエレナと、ずっと彼女を想い続けていたカイル。
言葉が足りなかったせいですれ違ってしまいましたが、最後にはお互いの気持ちを伝え合うことができました。
普段は冷静で完璧なカイルが、エレナのことになると余裕をなくしてしまうところも、楽しんでいただけたら嬉しいです。
これから二人は、今まで以上に甘く、そして少しだけカイルの愛が重たい夫婦になっていくことでしょう。
エレナが幸せになるたびに、カイルもきっと幸せになる。
そんな二人の未来を想像しながら、物語を閉じたいと思います。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




