推し活のすすめ
お読みいただきありがとうございます。
またじめっとした話を書いてしまいました。
ぜひ、嫌な気持ちになってください。
「それって、ただの依存じゃない?」
コーヒーを置いた瞬間、俺はそう言った。向かいに座る美咲は、スマホの画面をこちらに向けたまま固まる。そこには、整った顔の男が笑っていた。いわゆる推しというやつだ。
「ライブ、また当たったんだ。来月、地方も行く予定でさ」
声が少し弾んでいる。わかりやすい。
「金、いくら使ってる?」
「……別にいいじゃん、それくらい」
「よくないだろ。時間も金も感情も、全部つぎ込んでる。見返りは?そいつ、お前のこと知らないぞ」
自分でも嫌になるくらい、言葉は滑らかだった。事実だけを並べている。反論の余地がない形で。美咲は少しだけ目を伏せて、それから苦笑した。
「そうだね、知らないよ。でも、別にそれでいいんだよ」
間を置かずに返ってきた言葉に、少しだけ引っかかった。
「いや、よくないだろ。現実見ろよ。有限のリソースを、存在しない関係に投資してるんだぞ」
「存在してるよ。少なくとも、私の中では」
その言い方が、妙に確信に満ちていて、少しだけ腹が立った。
「それ、ただの自己完結だろ」
「うん、そうだよ」とあっさり認める。
「でもさ、自己完結で満たされるなら、それってダメ?」
言葉が、一瞬詰まる。論理的には、いくらでも返せる。現実逃避だとか、持続性がないとか、依存の構造だとか。でも、美咲の顔はやけに、穏やかだった。
「仕事でさ、毎日ちょっとずつ削られてるのわかる?」
彼女はコーヒーを一口飲んだ。
「理不尽とか、評価とか、人間関係とか。頑張っても別に誰も見てないし、報われる保証もない」
「それは……まあ、普通だろ」
「でしょ?この人は、笑ってくれるの」
スマホの画面を、もう一度見せてくる。
「私に、じゃないけどでも、そのじゃないけどで、救われてる人間がいるってこと」
テーブルの上に、静かに沈黙が落ちる。
俺は、言い返すための言葉を探す。
いくらでもあるはずだった。
非対称性、偶像化、搾取構造、ドーパミン依存、全部正しい。全部、説明できる。
「それってさ、一時的なもんだろ。ずっとは続かない」
「うん、そうだと思う」
また、あっさり認める。彼女は、少しだけ首を傾げた。
「でもさずっと続くものって、そんなにある?」
その問いは、妙に静かで、重かった。俺は答えられない。仕事も、人間関係も、健康も、全部いつかは崩れる。それを前提に、合理的に選択しているつもりだった。無駄を省いて、損を避けて、現実的に。
「だからさ」美咲は、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「どうせ崩れるなら、楽しいほうがよくない?」
「……」
「私、今、楽しいよ」
その言葉は、驚くほど軽くて、そして決定的だった。俺の持っている理屈は、どれもそれを否定できなかった。否定する理由はある。でも、否定する意味がなかった。
店を出たあと、夜の風が少し冷たかった。スマホを取り出して、無意識にニュースアプリを開く。どうでもいい情報が、無限に流れてくる。俺はそれをスクロールしながら、ふと考える。これに、何の意味がある?指は止まらない。意味がないとわかっていても、やめる理由もない。それって、ただの依存じゃない?さっき自分が言った言葉が、そのまま返ってくる。画面を閉じ、ポケットにしまう。何も残らない。何も満たされていない。ふと、さっきの美咲の顔が浮かぶ。あの、穏やかな表情。あれが錯覚だとしても、 俺のこの空っぽよりは、よほどましなんじゃないか。そう思った瞬間、少しだけ腹が立った。正しいのは、こっちのはずだろ。誰に言うでもなく、そう呟く。けれど、その言葉はやけに弱くて、夜の中に溶けていった。
次の日の朝。目が覚めて、何となくスマホを開く。通知は特にない。昨日と同じ一日が始まるだけだ。そのはずなのに。なぜか少しだけ、思ってしまう。何かに、期待している自分がいる。理由は、わからない。
変化は、ゆっくりだった。自覚できるような瞬間はなかった。ただ、気づいたときには、習慣が一つ増えていた。人の話に、引っかかるようになった。会社の昼休み。隣の席のやつが、旅行の話をしている。
「マジで最高だったんですよ。景色も良くて、料理も」
「それ、コスパ悪くない?」
気づいたら口に出ていた。
相手が少しだけ固まる。
「あ、いや……まあ、値段はそれなりにしましたけど」
「それで満足度どれくらい?同じ金額で他にできること、いくらでもあるだろ」
自分でも、言い過ぎだと思うが、止まらない。
「思い出とか言うかもしれないけどさ、それって後から美化されてるだけで、実際の体験価値と乖離してる可能性あるよ」
言い終えたあと、周りが静かになっていることに気づく。誰も何も言わない。ただ、会話が終わったことだけがわかる。まあ、いいか。別に間違ったことは言っていない。
それから、少しずつ。俺は指摘する側になっていった。同僚の恋愛話。友人の趣味。家族の価値観。どれも、少し掘れば非合理で、非効率で、曖昧だった。そして俺は、それを言語化できた。
「それってさ、結局こういう構造でしょ、合理的に考えるとさ...」
最初は反論もあった。でも、だんだん減っていった。代わりに増えたのは、曖昧な笑いと、短い相槌。
「へえ、まあ、そうかもね」
会話は続かない。でも、不思議と満足感があった。なぜなら理解した気になれ優位に立った気になれる。曖昧なものを、切り分けて、名前をつけて、位置づける。それだけで、世界が少しだけクリアになる気がした。
夜。ベッドの上でスマホを見ている。SNSのタイムライン。誰かの成功報告。誰かの幸せそうな写真。誰かの感情的な投稿。指が止まり考える。これも、構造で説明できるな。承認欲求。比較優位。ドーパミン報酬。頭の中で、綺麗に整理されていく。すると、不思議なことに少しだけ、気持ちが軽くなる。ああ、なるほど、そういう仕組みか。じゃあ、別に羨ましがる必要はない。全部、説明できる。全部、特別じゃない。スクロールを続ける。分析して、切り分けて、名前をつける。それを繰り返すと少し安心する。
ある日、美咲からメッセージが来た。
『久しぶりに会わない?』
少し考えてから、『いいよ』とだけ返した。
待ち合わせのカフェ。先に来ていたのは、美咲の方だった。以前より少しだけ、雰囲気が落ち着いている気がする。
「久しぶり」
「うん」
短い会話。少しだけ間が空く。
「最近、どう?」
美咲が聞く。
「まあ、普通」
嘘ではない。
「そっちは?」
「うん、まあ……それなりに」
どこか曖昧な答え。以前なら、ここで踏み込んでいた。それなりって何?具体的には?でも、今回は違った。なぜか、言わなかった。代わりに、視線が彼女のスマホに向く。机の上に置かれており画面は伏せられている。
「あれ、最近ライブとかは?」
聞くと、美咲は少しだけ笑った。
「ちょっと減らした」
「なんで?」
「……なんとなく」
それ以上は言わないがなんとなくわかってしまう。自分の言葉が、少しは影響したのだろう。正しかったから。説得力があったから。そのはずなのに。
「楽しくない?」
気づいたら、そう聞いていた。美咲は少しだけ考えてから、言った。
「前よりはね。前の方が、バカだったけど、楽しかったかも」
その言葉は、軽くて、でも妙に残った。
帰り道。駅のホームで電車を待つ。ふと、周りを見渡すと誰もがスマホを見ている。笑っている人もいるし、無表情の人もいる。その一人一人に、理由があって、構造があって、説明がつく。俺は、それを理解できるし分類できるし言語化できる。それで?不意に、思考が止まる。それで、何が残る?頭の中は、やけに整理されている。無駄も曖昧さもない。でも何も、引っかからない。何も、残らない。
家に帰る。部屋は静かでいつも通りだ。いつも通り、何もない。スマホを開きSNSを開く。流れてくる情報を、また整理する。分析して名前をつけて分類する。繰り返し、繰り返し。
それって、ただの依存じゃない?また、あの言葉が浮かぶ。でも、今回は少し違う。否定のための言葉じゃなくただの、確認だ。やめようと思えば、やめられる。そう思って、画面を閉じる。数秒後、また開く。特に理由はない。
数日後の昼休み、誰かが笑っている。何が面白いのかはわからないが楽しそうだ。しかしその輪に入る気にはならない。入る理由もない。分析すれば、全部説明できるから。わざわざ参加する必要はない。そのはずなのに。ほんの少しだけ、思ってしまう。あっち側の方が、良かったかもしれない。その考えを、すぐに否定する。非合理で感情的だ。意味がない。俺こそ、正しい。無駄に流されていないし、ちゃんと理解している。ちゃんと見えている。だから...だから、その続きを、考えることはなかった。
美咲と会う回数は、少しだけ増えた。理由は特にない。ただ、なんとなく以前みたいに、頻繁に連絡を取り合うわけじゃない。でも、月に一度か二度、気が向いたときに会う。会話は、穏やかだった。仕事の話。天気の話。最近見たニュース。どれも、無難で、引っかかりがない。俺は、もう踏み込まなかった。
それってさ、結局さ。そういう言葉を、意識して飲み込むようになっていた。
ある日。いつものカフェで、コーヒーを飲んでいるとき。ふと、聞いた。
「最近、何してるの」
美咲は少しだけ考えてから、答えた。
「特に何も」
「趣味とか」
「うーん……別に」
返事は、軽かった。前なら、何かしら話していたはずだ。ライブの話。グッズの話。遠征の話。少なくとも、何かはあった。でも今は、ない。
「……推しは?」
口に出してから、少しだけ後悔した。美咲は、一瞬だけ目を伏せて、それから言った。
「見なくなった」
「完全に?」
「うん」
短い返答。それ以上は、何も続かない。
その帰り道。駅までの道を、並んで歩く。会話は途切れがちで、沈黙が増えていた。でも、それを埋めようとする気にもならなかった。ふと、横を見ると美咲は、ただ前を見て歩いている。表情は穏やかだがあのときみたいな、軽さがない。気が付くと「楽しい?」と聞いていた。
美咲は、少しだけ立ち止まる。考えるように、視線を落とす。
「わかんない」そう言った。
その言葉は、やけに残った。わかんない。楽しいかどうかも、わからない。それは、少なくとも。「楽しいよ」と言っていたあの頃より、良い状態とは思えなかった。
それから、少しずつ確実に何かが、減っていった。美咲は、笑わなくなった。正確には、笑うことはある。でもそれは、反射的なものだった。場に合わせた、薄い笑い。前みたいに、ふっとこぼれるような笑い方は、しなくなった。
ある日、別れ際に、美咲が言った。
「ねえ前さ」
少しだけ言い淀む。
「いろいろ言ってくれたじゃん?正しかったと思うよ」
その言葉は、静かだった。責める感じも、皮肉もない。ただ、事実を確認するみたいに。
「だから、やめたし無駄だなって、思ったから」
それは、俺が言ってきたことだった。そのままの形で、返ってきている。
「そっか」とそれしか言えなかった。
美咲は、少しだけ笑った。でも、その笑いはどこにも、引っかからなかった。
別れてから、一人で歩く。頭の中で、整理しようとする。これは、正しい結果だ。非合理な消費をやめて、現実に戻った。健全だ。持続可能だ。問題はないはずだ。じゃあ、なんで。理由は、わかっている。わかっているのに、言葉にしたくなかった。
前の方が、よかった。
その考えを、無理やり押し込める。感情的で非合理だで根拠がない。そういうものに価値はない。そうやってずっとやってきた、でも。
あのときの美咲は、確かに笑っていた。意味なんてなかったかもしれない。無駄だったかもしれない。勘違いだったかもしれない。それでも楽しいよって、言っていた。
今は、言わない。
家に帰る。部屋は静かでいつも通りだ。何も変わらない。変わっていないはずなのに。妙に、違って見える。スマホを開く。SNSを開く。誰かが笑っている。誰かが楽しそうにしている。その理由は、説明できる。全部、説明できる。でもそれを見ている自分は、どうなんだ。画面に映る、自分の顔が、ふと目に入る。無表情だった。その瞬間どうしようもなく、理解してしまう。正しかった結果が、これだ。
美咲から、無駄を取り除いた。その結果、残ったのは。何もない、という状態だった。
そして、それは自分も同じだった。画面を閉じる。部屋の静けさが、やけに重い。これで、よかったのか。問いは浮かぶが答えは、出さない。出してしまったらきっと、今までの全部が、崩れる気がしたから。
壊したのは、無駄じゃない。
余白だったのかもしれない。
~END~
お読みいただきありがとうございました。
久々に後味が悪いものを書けて、最高です。
実際、僕には推し活をするほど推せる対象がいないわけですが、推せるくらい何かに熱中できのってうらやましく思います。楽しそうですし。
僕も今年は何かで推しが作れるくらい、いろいろなジャンルに触れてみようと思います。




