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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

作者: 埴輪庭

 ◆


 引っ越しのトラックが真新しいアスファルトの上で停まった。


「パークサイド青葉台」──竣工から三ヶ月の新築マンション。七階建て、全四十二戸。最寄り駅から徒歩八分。周囲には大型スーパーと総合病院。申し分のない立地だった。


 相場の六割。


 不動産屋の提示した家賃に、由美の眉がピクリと動いた。健司は電卓を二度叩き直した。八歳の息子は南向きのリビングで走り回っていた。


「何か、あるんですか」


 由美の問いに、不動産屋の男は首を横に振った。事故物件ではない。構造上の欠陥もない。ただ──


「キッチンの、あれですね」


 男は苦笑いを浮かべた。内見の時、家族は台所で足を止めた。シンクの上に蛇口が二つ並んでいた。右側は通常のシングルレバー混合栓。左側は古めかしい回転式のハンドルがついた蛇口。その全体が白いビニールテープでぐるぐる巻きにされていた。赤いマジックで「使用禁止」の文字。


「建築時のミスでして。配管の関係で、撤去もできないんです。水は出ますが、飲用には適しません。右の蛇口をお使いください」


 健司は左の蛇口に触れようとして、手を引っ込めた。


「危険、なんですか」


「いえ、そういうわけでは。ただ、使わない方がよろしいかと」


 曖昧な説明だった。だが家賃の安さがすべての疑問を押し流した。


 引っ越しから一週間。段ボールの山が消え、生活のリズムが整い始めた。朝七時、健司は出社する。由美は息子を小学校へ送り出す。夕方六時、家族は食卓を囲む。平凡で穏やかな日常。


 左の蛇口は白いテープに覆われたまま沈黙していた。


 ◆


 六月の湿度の高い午後だった。


 母親の由美は買い物に出かけていた。八歳の翔太は一人でゲームをしていた。画面の中で勇者が魔王の城へ向かっていく。セーブポイントまであと少し。


 喉が渇いた。


 冷蔵庫を開ける。麦茶のポットが空だった。仕方なく台所へ向かう。右の蛇口をひねり、コップに水を注ぐ。ぬるい。氷を入れようと冷凍庫を開けたが、製氷皿も空っぽだった。


 コップを持ったまま、翔太はシンクの前に立っていた。


 左の蛇口が目に入った。


 白いテープ。赤い文字。「使用禁止」。


 なぜ使ってはいけないのか。父の健司も母の由美もはっきりとは教えてくれなかった。「決まりだから」「大家さんが言うから」。大人はいつもそんな風にごまかす。


 翔太の指がテープの端に触れた。


 少しだけ剥がれかけている部分があった。ひっぱるとペリペリと音を立てて剥がれていく。思ったより簡単だった。一枚、また一枚。白い蛇の脱皮のようにテープが床に落ちていく。


 古い真鍮製の蛇口が姿を現した。


 ハンドルに手をかける。錆びついているかと思ったが、スムーズに回った。


 キュッ──


 透明な水が細い線を描いて流れ出した。


 見た目は普通の水だった。臭いもない。翔太は掌で受けてみた。冷たい。右の蛇口よりずっと冷たい。


 コップを差し出す。水が満ちていく。透明度が妙に高い気がした。まるでガラスのような。


 一口飲んでみた。


「──っ」


 言葉が出なかった。


 甘いというのとは違う。爽やかというのとも違う。ただ、ものすごく──


 美味しい。


 今まで飲んだどんな水よりも、ジュースよりも美味しかった。喉を通り過ぎていく感触が全身に染み渡っていく。細胞の一つ一つが歓喜しているような。


 ゴクゴクと飲み干す。もう一杯。また一杯。三杯目を飲み終えた時、玄関のドアが開く音がした。


「ただいま」


 由美の声。翔太は慌てて蛇口を締めた。が、テープを巻き直す時間はない。


「あら、どうしたの」


 買い物袋を提げた由美が台所に入ってきた。剥がされたテープ。むき出しの蛇口。息子の手にあるコップ。


「翔太」


 由美の顔が青ざめた。


「飲んじゃったの」


 翔太は頷いた。


「でも、すごく美味しかったよ」


 由美は息子を睨みつけた。が、次の瞬間、その視線が蛇口へと移った。ハンドルに残る水滴。流し台に落ちる最後の一滴。


 キラリと光るその雫を見つめていた。


 ◆


 夕食の席で翔太は父の健司に叱られた。


「約束を破ったんだぞ」


「ごめんなさい」


「二度と触るな。いいな」


「はい」


 だが両親の叱責は長くは続かなかった。健司も由美も何度も左の蛇口に視線を送っていた。


 その夜、翔太が寝た後。


 健司と由美はリビングで顔を見合わせていた。テレビは消えている。エアコンの音だけが低く響いていた。


「どんな味だったんだろうね」


 由美が呟いた。


「さあ」


「翔太、すごく美味しいって」


「子供の味覚は当てにならない」


 そう言いながら健司は立ち上がった。台所へ向かう。由美も後に続いた。


 左の蛇口の前に二人は並んで立った。


「試すだけなら」


 健司がハンドルに手をかけた。キュッ。透明な水が流れ出す。健司はコップを差し出した。水が注がれていく。


 グラスを鼻に近づける。無臭。いや──


 微かに何かの香りがした。表現のしようがない、えも言われぬ香気。花のような、果実のような、でもそのどれでもない。


 健司は一口口に含んだ。


 目を見開いた。


「──美味い」


 由美が奪うようにグラスを取り、残りを飲み干した。


「本当だ」


 二人は顔を見合わせた。今まで飲んでいた水はいったい何だったのか。まるで泥水のように思えた。この水に比べれば。


「でも」


 由美が我に返った。


「使用禁止って」


「一杯くらい、いいだろう」


 健司はもう一度蛇口をひねった。


 ◆


 それから少しずつ変化が始まった。


 最初は寝る前の一杯だけだった。「今日も一日お疲れ様」と健司と由美は左の蛇口から水を汲んだ。グラスを合わせ、ゆっくりと飲む。疲れが溶けていくようだった。


 翌朝、目覚めがよかった。体が軽い。頭がすっきりしている。


「調子いいね」


「うん、なんだか」


 朝食の時も左の蛇口から水を汲んだ。味噌汁を作る時もその水を使った。ご飯を炊く時も。


 食事が劇的に美味しくなった。同じ食材、同じ調味料なのに。まるで高級レストランの料理のような深みが出た。


「お母さん、料理上手になったね」


 翔太が言った。


 三人は顔を見合わせ、笑った。


 右の蛇口は使われなくなった。


 二週間が過ぎた。


 由美は肌の調子がいいことに気づいた。化粧のノリが違う。小じわが目立たなくなった気がする。健司は仕事の効率が上がった。企画書がすらすらと書ける。会議でのプレゼンも好評だった。


「あの水のおかげかな」


「まさか。ただの水でしょう」


 でも、と健司と由美は思っていた。ただの水ではない。あれは何か特別な──


 三週間目。


 左の蛇口は朝から晩まで使われるようになっていた。飲み水として。料理用として。歯磨きの時もその水で口をすすいだ。洗顔にも使いたくなったが、それはさすがに躊躇われた。もったいない気がして。


 右の蛇口から出る水はもはや飲めなかった。


 口に含むと金属臭い。ぬるい。まずい。吐き出したくなる。これが普通の水道水だったなんて信じられなかった。


 ◆


 七月に入った。


 梅雨明けの暑い日が続いた。


 最初に異変を感じたのは由美だった。朝、起き上がるのが辛い。体が重い。鉛を背負っているような。


「夏バテかしら」


 だが左の蛇口の水を飲むと嘘のように体が軽くなった。シャキッとする。元気が湧いてくる。


 健司も同じだった。午後になると極端に疲れる。集中力が続かない。目がかすむ。だが水筒に入れてきた「あの水」を飲めばたちまち回復した。


 翔太は学校から帰るなり真っ先に台所へ向かうようになった。


「ただいま」


 蛇口をひねり、直接口をつけて飲む。ゴクゴクと音を立てて。まるで砂漠から帰ってきたように。


「コップを使いなさい」


 由美が注意しても聞かなかった。一刻も早くあの水が飲みたかった。


 夜。


 家族は食卓を囲んでいたが会話は少なかった。皆ぼんやりとしていた。箸を動かすのも億劫そうだった。


「おかわり」


 翔太が水の入ったピッチャーを指さした。由美が注ぐ。健司も差し出す。三人は水ばかり飲んでいた。


 食事が進まなかった。


 ◆


 八月。


 猛暑日が続いた。


 家族はほとんど外出しなくなっていた。


 買い物はネットスーパーで済ませた。玄関先に置かれた荷物を取りに行くのも一苦労だった。数メートルの距離がひどく遠く感じられた。


 健司は会社を休みがちになった。


「夏風邪で」


 電話口での声はかすれていた。


 本当は会社へ行く体力がなかった。朝、ベッドから起き上がることすら困難だった。全身の力が抜けていく。骨が溶けていくような感覚。


 だがあの水を飲めば──


 一時的に元気になった。三十分か一時間。その間だけ普通に動ける。だからその隙にまた水を汲んでおく。ペットボトルに、ピッチャーに、鍋に。できるだけたくさん。


 由美は鏡を見なくなった。


 頬がこけていた。目の下にくまができていた。髪に艶がなくなっていた。でもそんなことはどうでもよかった。あの水さえ飲めれば。


 翔太は学校を休み始めた。


「お腹が痛い」


 嘘ではなかった。本当に痛かった。でももっと辛いのは学校にあの水がないことだった。水筒に入れて持っていってもすぐに飲み干してしまう。午後の授業中、喉の渇きに耐えられなくなる。手が震える。冷や汗が出る。


 家に帰り蛇口に口をつけた瞬間、生き返る心地がした。


 ◆


 九月。


 残暑が厳しかった。


 家族はリビングで横になっていた。


 ソファに健司。床に由美と翔太。誰も動かない。テレビはついているが誰も見ていない。ただ音だけが空虚に響いていた。


「水」


 翔太が呟いた。


 由美が起き上がろうとする。が、すぐに倒れ込んだ。立ち上がる力がない。四つん這いになり、ゆっくりと台所へ向かう。


 蛇口をひねる。


 チョロ……チョロ……


 水の出が悪くなっていた。以前のような勢いはない。細い糸のような流れ。それでも必死でコップに受ける。


 三人で分ける。一口ずつ。


 それでまた三十分は動ける。


 健司は会社を解雇されていた。無断欠勤が続いたため。でもそんなことはどうでもよかった。あの水さえあれば。


 貯金が底をつき始めた。


 家賃の支払いが滞った。


 ◆


 十月のある日。


 不動産管理会社の男がマンションを訪れた。


 田中と名乗るその男はエレベーターで四階へ上がった。家賃の滞納が二ヶ月続いている。電話にも出ない。これはよくないパターンだった。


 四〇三号室。


 インターホンを押す。


 反応がない。


 もう一度押す。


 返事がない。


 田中はドアノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。


「失礼します」


 ドアを開けた瞬間──


 異臭が鼻を突いた。


 すえたような、腐ったような。いや、それとも違う。もっと乾いた埃っぽい臭い。


 玄関は真っ暗だった。電気をつけようとしたがスイッチが見つからない。スマートフォンのライトを点けた。


 廊下を進む。リビングのドアが開いていた。


 そこに──


 三つの何かがあった。


 人の形をしていたが人ではなかった。ミイラという言葉が浮かんだがそれとも違う。もっとひどい。皮膚が紙のように薄くなり骨に張り付いていた。眼球は窪み唇は捲れ上がっていた。


 大人が二つ。子供が一つ。


 田中は溜め息をついた。


 こういうことはたまにある。このマンションでは。


 台所から水の音がした。


 行ってみると左の蛇口から水が流れていた。チョロ……チョロ……と。今にも止まりそうな勢いで。


「飲むだけじゃなく、料理や洗い物にも使ったんだろうな」


 田中は独り言を言った。


「もしかしたら顔を洗ったりもしたかもしれない」


 蛇口をひねって水を止めた。完全に締まるまで何度も回した。


「出たものをそのまま余さず取り込んでいれば、こうはならなかったと思うが……」


 田中は首を振った。


 リビングに戻り三つの亡骸に手を合わせた。


 それからスマートフォンを取り出した。


「ええ、四〇三号室です。……ええ、はい。いえ、少しは流れていたので、誰かしらはまだ生きてはいるかもしれませんが。まあそうですね、もう駄目だと思います」


 淡々とした口調だ。


 田中は警察ではなく別の番号にかけていた。


「例の蛇口は止めました。ええ、そうですね。次はもっとしっかりテープを巻いておきます」


 窓の外では秋の日差しが優しく降り注いでいた。


 公園で子供たちが遊ぶ声がかすかに聞こえている。


(了)

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― 新着の感想 ―
決して使ってはならない蛇口を子どもが無邪気に開けてしまったことによる悲劇ですね。 大人も使ってしまったから同じ道をたどったことになるのですが、この子どもがずっと一人で飲み続けていたら、と考えても恐ろし…
うまいなぁ
すごく怖かったです。 手を出してはいけないモノに手を出してしまうまでの流れが非常に丁寧でリアルでした。その後の、少しずつ何かが狂っていっているのに、本人達はまったく気付いていない様子も自然で、読んで…
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