第一話 転移、そして彷徨う
風が吹いた。乾いていて、少し冷たい。夏の終わりの高原を思わせるような空気だった。だが、どこか違う。足元の土が、妙に赤い。
私は、ゆっくりと視線を上げた。
空は青い。だが、太陽が――二つある。ひとつは鋭い光を放ち、もう一つは小さく淡い。
意識、視界ははっきりしている。感覚は、夢ではなく、確かに現実だった。恐怖よりも困惑が勝っていた。
風の音、土の匂い、空の色。五感が受け取るすべてが、異質でありながら、生々しい。
私は、冷静さを取り戻すために所持品の確認をした。
工具ベルトには、電工ペンチ、ニッパー、ドライバー、メジャー。ボールペンとメモ帳もある。
そして、作業着の胸ポケットにスマートフォン。取り出して画面を点けると、電源は入った。だが、通信は「圏外」。地図アプリを開いても、現在地は灰色のままだ。
私は静かに電源を切り、しまい直す。
ペットボトルの水が尻ポケットに入っていた。中身はほぼ満タン。これも、現場の自販機で買ったものだ。ラベルは緑茶。冷たさは、もう残っていない。
――装備品はすべて、転移前のまま。
あの白い光の直前、構内にいた記憶ははっきりしている。
ここがどこかはわからない。だが、少なくとも日本ではない。地球ですら、ないかもしれない。
もう一度辺りを見渡しても、人工物はない。道路も、鉄塔も、建物もない。
どこまでも続く、赤茶けた丘陵と、奇妙な低木だけ。聞こえるのは、風が砂をさらう音だけだ。
私はひとつ息を吐いた。
立ち止まっていても仕方がない。日が傾けば寒くなるかもしれないし、ここにじっとしていれば、いつまでも“何も起こらない”ままだ。
まずは、安全な場所と水の確保。工程管理でも何でも同じだ。優先順位の高い作業から始めること。
私は、ゆっくりと歩き出した。
靴底が、ザリッと赤土を踏みしめる。
大地は乾いていた。小石の混じる丘陵地帯で、視界は広い。時折、背丈ほどの低木がまばらに並んでいるが、日陰をつくれるほどではない。
私は、風を避けられる地形を探しながら、周囲を観察した。
小一時間ほど歩いただろうか。
太陽の角度が、わずかに変わっていた。
二つの太陽のうち、赤みを帯びた小さな方が、少し傾いている。
足を止め、丘の上から周囲を見渡す。
遠く、岩のような構造物がぽつぽつと点在していた。人工的な形ではない。
だが、風化した石柱のようなものもある。風で削れた岩か、あるいは古代の遺跡のようにも見える。
足元の砂を拾ってみると、粒は細かく、サラサラとしていた。水を含んだ気配はない。
草の根が見えた場所を掘ってみても、指先は乾いたままだった。
この土地に、水は乏しい。
そう判断し、水の流れる地形――谷筋を探すことにする。
低い方へ、低い方へ。等高線をイメージしながら歩く。
途中、妙な痕跡を見つけた。
小さな足跡。四つ足。体長は猫ほどか。爪の痕は深く、しっかりと地面を引っ掻いていた。
藤野(……野生動物? いや、それともこの世界の“何か”か)
周囲を見渡す。風の音しか聞こえない。だが、確かに生き物がいる。
地球の動物ではない、何かがこの土地に棲んでいる。
まともな武器はナイフしかない。あとはドライバーが使えるかどうか。
私は、工具ベルトの端に差してあった電工ナイフを引き抜き、太めの枯れ枝を削った。
突くことしかできない即席の槍。それでも、ナイフ一本しかないよりはましだ。
谷筋をたどりながら、やがて岩陰に腰を下ろし、大きなため息をつく。
風は幾分弱まり、体力を回復させるにはちょうどいい。
作業着の尻ポケットからペットボトルを取り出し、キャップをひねる。
常温の緑茶は、喉を落ちて胃に染み渡った。
二口だけに留め、残りは慎重にしまう。
藤野(……水の確保は急務だな)
空腹感はまだない。だが、長くはもたない。水は一本、食料はゼロ。
私は、視線を遠くの地平に向けた。
赤茶けた空と大地の境界線が、じんわりと揺れて見える。気温が上がってきている証拠だ。
いずれ、食料を確保する必要がある。
それが動植物からになるのか、あるいは、この先に人の営みがあるのかは、まだわからない。
ここが地球でないならば、人間がいるとは限らない。
藤野(それでも……誰か、居てくれ…)
この先の孤独や恐怖を感じながらも私は立ち上がり、太陽を背に受けながら、再び歩き出した。