第2章1節: 旅立ちの朝
旅立ちの朝は、穏やかに晴れ渡っていた。
木漏れ日の村ソーラに朝日が差し込み、鳥たちの声がいつもより賑やかに聞こえる。私は、借りていた小さな家の部屋で、最後の荷造りをしていた。といっても、持っていくものは驚くほど少ない。着替え数枚と、わずかな食料、そして何よりも大切な、書き溜めた言語ノート。それを丁寧に布で包み、リアンがどこからか見つけてきてくれた丈夫そうな革の鞄に収めた。
「コハル、準備できたかー?」
家の外から、リアンの元気な声が飛んできた。
「ええ、もう大丈夫ですわ」
私は鞄を肩にかけ、家の扉を開けた。そこには、背中に弓と矢筒をしっかりと括り付け、少し緊張した面持ちのリアンが立っていた。彼の腰には、狩りに使うナイフが見える。私を守る、という彼の意気込みが伝わってくるようだったが、正直なところ、彼の戦闘能力がどれほどのものかは未知数だ。まあ、無いよりはましだろう。
二人で村の広場へ向かうと、そこには既に、村長をはじめ、世話になった村人たちが何人か集まってくれていた。
「コハルちゃん、本当に行ってしまうのかね? 無理はするんじゃないよ」
世話焼きのパン屋のおばさんが、心配そうに声をかけてくれる。
「リアン、コハルちゃんをしっかり守るんだぞ! 危ないと思ったら、すぐに逃げるんだからな!」
リアンの父親らしき、体格の良い猟師が、息子の肩を強く叩いた。リアンは「わかってるって!」と少し照れくさそうに答える。
村長が、ゆっくりと私の前に進み出た。
「コハル殿。短い間であったが、貴殿が我々の村に来てくれたこと、感謝している。貴殿の知識は、我々にとっても刺激となった。外の世界は厳しいかもしれんが、その知恵と好奇心があれば、きっと道は開けよう」
私は、村長の温かい言葉に、胸がじんわりと熱くなるのを感じた。百八年の人生で、これほど純粋な善意と励ましを受けたことがあっただろうか。前世では、学会での賞賛や、弟子たちの畏敬の念はあったが、このような素朴で温かな繋がりは、経験したことのないものだった。
「村長の…お言葉、身に沁みますわ。皆様には、本当にお世話になりました。このご恩は、決して忘れません」
覚えたての共通語で、私はできる限り丁寧に、心を込めて感謝を述べた。まだ少しぎこちない発音だったかもしれないが、私の気持ちは伝わったようだった。村人たちは、うんうんと頷きながら、優しい笑顔を向けてくれた。
「これ、道中の足しにしなさい」
パン屋のおばさんが、焼きたてのパンと干し肉を包んだものを手渡してくれる。ありがたく受け取り、鞄に仕舞った。
名残は尽きないが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
「では、行ってまいります」
私が深く一礼すると、リアンも慌てて頭を下げた。
「みんな、元気でな! オレ、もっと強くなって帰ってくるから!」
村人たちの「元気でなー!」「気をつけるんだぞー!」という声に見送られ、私たちは村の出入り口へと歩き出した。木の柵で作られた簡素な門をくぐり抜けると、そこからはもう、私の知らない世界が広がっている。
リアンは、少しだけ寂しそうに村を振り返ったが、すぐにきりりと表情を引き締め、前を向いた。
私もまた、小さくなっていく木漏れ日の村ソーラに向かって、静かに一礼した。短い間だったけれど、私の異世界での最初の「家」だった場所。
村の外へと続く、踏み固められた土の道。街道、と呼ぶには少し頼りないが、人の往来があることは確かだ。道の両脇には、見慣れない草花が生い茂り、遠くには緩やかな丘陵が連なっている。空はどこまでも青く、白い雲がゆっくりと流れていく。
全てが新鮮で、私の知的好奇心をくすぐる。
「なあ、コハル。まずはどっちに行くんだ?」
隣を歩くリアンが、期待に満ちた声で尋ねてきた。
「ふむ…まずは東へ向かいましょうか。旅の商人が言っていましたわ。数日歩けば、そこそこ大きな町があるそうです。まずはそこで情報を集めたいのです」
「町か! 村よりでっかいんだろ? すげー! 何があるかな!」
リアンは目を輝かせている。その無邪気さが、少し眩しく感じられた。
「きっと、たくさんの人がいて、たくさんの言葉が飛び交っているでしょうね。ああ、考えるだけで…心が躍りますわ」
私は、そっと胸元の鞄に触れた。この中には、私の知の結晶であるノートと、そして村の人々の温かい心が詰まっている。
前世では考えられなかった、誰かと共にする旅。それは、新たな発見と共に、新たな感情をも私にもたらしてくれるのかもしれない。
異世界言語探求の旅は、今、確かな一歩を踏み出した。




