第1章第4節:言語学者の血
大陸共通語を習得し、村での生活にも慣れてくると、私の言語学者としての本能は、さらに深く、広く、この世界の「言葉」へと向けられるようになった。
木漏れ日の村ソーラは、その名の通り穏やかで過ごしやすい場所だったが、言語学的な観点から見ると、実に刺激的な環境だった。
村で話されているのは、大陸共通語だけではない。エルフの住民が家族同士で話す、流れるような響きの「森語」。獣人の猟師たちが使う、喉の奥で唸るような音や、微かな匂いが混じる「咆哮語」の一部。そして、もちろん人間たちが使う、地域特有の訛りを持つ共通語。
「リアン、あのエルフの方々が話している言葉、もう少し近くで聞いてみてもよろしいかしら?」
「え? ああ、いいけど失礼のないようにね……しかしコハルは本当に言葉が好きだなあ」
私はリアンを質問攻めにし、村の様々な場所を観察して回った。誰がどんな言葉を、どんな状況で使うのか。言葉遣いに身分の差は現れるのか。子供たちの言葉遊びに、言語の変化の兆しはないか。記録媒体は? 文字は? 疑問は尽きることがなかった。
前世で培った音声学、意味論、社会言語学の知識を総動員し、私は自分だけの「異世界言語ノート」を作り始めた。最初は記憶に頼るしかなかったが、村の子供に簡単な文字(共通語を表記するためのものらしい)を教えてもらい、見よう見まねで記録を取るようになった。それは、忘れかけていた研究の興奮を、鮮やかに蘇らせてくれた。
ある日、村の広場で、旅の商人たちが持ち込んだ珍しい品物を見ていると、彼らの会話の中に、これまで聞いたことのないアクセントと語彙が混じっていることに気づいた。
(……おや? これは、共通語の方言かしら? それとも、別の言語の影響を受けたピジン(※2ヶ国語が混合することにより生み出された通用語を指す名称)かしら? 面白いわ……)
私は思わず商人に話しかけ、その言葉について尋ねてみた。商人は驚きながらも、彼らの故郷の言葉や、交易で使う独特の言い回しについて、いくつか教えてくれた。
知れば知るほど、この世界の言語の多様性と、その奥深さに魅了される。木漏れ日の村ソーラは素晴らしい場所だが、私の探求心を満たすには、あまりにも狭すぎるのかもしれない。もっと多くの言語に触れたい。もっと多くの文化を知りたい。そして、この世界の言葉が、どのように生まれ、変化してきたのか、その根源に迫りたい。
そんな思いを抱き始めた頃、リアンが興味深い噂を教えてくれた。
「なあ、コハル。時々、この村にも変わった旅の学者が来るんだぜ。なんか、古い石版とか、難しい文字のことばっかり調べてる、エルフみたいな綺麗な男の人なんだけど……」
エルウィン、という名前らしいその学者は、古代の文字や失われた言語を研究しているという。
古代言語。失われた文字。その響きは、私の心を強く捉えた。
是枝春子としての百八年の人生で、私が最後に追い求めていたもの。それは、言語の起源、人類が最初に「言葉」を発した瞬間の謎だった。この異世界でなら、その答えに、あるいはその手がかりに、辿り着けるのかもしれない。
私の胸に、新たな目標が灯った。
この村を出て、もっと広い世界へ。未知の言葉と、その源流を求めて。
私の異世界での本当の冒険は、ここから始まるのだ。私は、自分の言語ノートの新しいページを開き、決意を新たにした。