第7章3節:心の香り、言葉の扉
長老の言葉は、衝撃的だった。
「心の泉…そして、心を伝え合う香り…」
私が呆然と繰り返すと、長老は頷いた。
「そうだ。我ら森狼族は、言葉(音声)や仕草だけでは伝えきれぬ、あるいは偽ることのできる『心』の機微を、あの泉から汲み取った特別な香りを纏い、交換することで、互いの真意を確かめ合い、深い絆を築いてきたのだ」
それは、まるでテレパシーのような、しかしもっと身体的で、原始的なコミュニケーションの方法だ。匂いという媒体を通して、感情や意思を直接的に交換する。なんと、豊かで、そしてある意味では恐ろしいほどの誠実さを要求される言語だろうか。
「では、あの泉の香りは、人工的に作られたものなのですか?」
エルウィンが、鋭く質問を差し込んだ。
「人工、というのとは少し違う」長老は首を横に振った。「泉そのものは、遥か古からこの森に存在する、聖なる源泉だ。我らは、その泉の恵みをいただき、特別な儀式を経て、心を映し出す『心の香り』として身に纏う術を、代々受け継いできたのだ。それは、我ら森狼族にのみ伝わる秘儀であり、掟でもある」
森狼族だけの秘儀。エルウィンは少し残念そうな顔をしたが、それ以上は追求しなかった。
私は、長老の話を聞きながら、一つの疑問が浮かんでいた。
「長老様。では、私たちが泉で感じた、あの清らかで懐かしいような香りは…?」
「それは、泉そのものが持つ、原初の『生命の香り』とでも言うべきものだろう。まだ何色にも染まっていない、純粋な存在の香りだ。心の泉は、訪れる者の心の状態を映し出す鏡でもある。お前たちが清らかな心で泉に向き合ったからこそ、そのような香りを感じることができたのかもしれんな」
心の状態を映し出す鏡。だから、リアンは心地よさを感じ、エルウィンは何かを探し、ガルムは警戒心を抱いていたのか。そして私は、純粋な好奇心と畏敬の念で、あの香りを受け止めていた。
「では、森狼族の方々が日常的に発していると感じた、怒りや喜びを示すような匂いは…?」
「それは、『心の香り』とはまた別物だ。感情に伴って自然に発せられる、身体の匂いだな。もちろん、それも我らにとっては重要なコミュニケーションの一部だが、『心の香り』ほど深く、確かなものではない。感情の匂いは、時に偽ることも、誤解されることもあるからな」
なるほど。彼らの匂い言語には、少なくとも二つの階層があるということか。感情に紐づく生理的な匂いと、儀式を経て纏う、より意図的で深い意味を持つ「心の香り」。これは、非常に重要な発見だ。
長老は、私たちの理解が追いつくのを待つように、少し間を置いてから、再び口を開いた。
「コハルよ。お前が真に我らの言葉…『心の香り』をも含めた真の言葉を学びたいと願うならば、ただ観察するだけでは足りぬ。お前自身の『心』で、我らと向き合う覚悟が必要となるだろう」
「私自身の心で…」
「そうだ。言葉の表面だけをなぞるのではなく、その奥にある心を感じ取り、そして、お前自身の心をも、偽りなく示すこと。それができなければ、本当の意味で我らの言葉を理解することはできぬ」
それは、単なる言語学習を超えた、人間(あるいは異種族)としての在り方を問うような、深い問いかけだった。前世の私は、客観的な分析と知識の蓄積に重きを置き、自身の内面や他者との感情的な繋がりには、どこか距離を置いていたかもしれない。この異世界で、この森狼族との出会いは、私に新たな学び…言語学者としてだけでなく、一人の存在としての成長を促そうとしているのかもしれない。
「…はい、長老様。覚悟は、できております。どうか、私にご指導ください」
私は、決意を込めて、再び深く頭を下げた。
長老は、私の返答に満足したように、ゆっくりと頷いた。
「うむ。良い覚悟だ。…ガルムよ」
長老が呼びかけると、背後に控えていたガルムが一歩前に出た。
「はっ」
「この娘、コハルに、我らの『香り』の基本を教えよ。ただし、秘儀に関わることは一切漏らすな。あくまで、外部の者が理解できる範囲で、だ。そして、引き続き、この者たちの監視を怠るな」
「…御意」
ガルムは、少し複雑な表情を浮かべたが、長老の命令に逆らうことはなく、力強く答えた。
こうして、私は、森狼族の言語…特に、彼らの文化の核心とも言える「心の香り」について、限定的ながらも直接学ぶ機会を得ることになった。それは、私の言語探求における、新たな扉が開かれた瞬間だった。




