第7章1節:泉のほとりにて
森の奥深く、陽光を受けて輝く小さな泉。そのほとりに、私たちはしばし言葉もなく佇んでいた。
空気を満たすのは、清らかで、甘く、そしてどこか懐かしいような不思議な香り。それは、嗅覚だけでなく、魂に直接語りかけてくるような、深く、穏やかな感覚をもたらした。響き石の近くで感じた不快な感覚は完全に消え、代わりに心が洗われるような静謐さが満ちている。
(これが…『始まりの香り』…)
私は、その香りに全身を委ねながらも、言語学者としての本能を働かせていた。この感覚を、どうにか言葉で捉え、記録したい。ノートを開き、ペン代わりの炭の棒を握る。
『香り:清らか。微かに甘い。森の土と苔、新鮮な水、そして…陽光のような温かさを連想させる。感情:安心感、懐かしさ、生命の根源に触れるような畏敬の念…。既存のどの香料、どの植物の香りとも異なる。分類不能…』
言葉を尽くそうとしても、この香りの本質を表すには不十分に感じられた。これは、単なる化学物質の組み合わせによる匂いではない。もっと根源的な、情報や感情を含んだ「何か」なのだ。
ふと隣を見ると、リアンもまた、うっとりとした表情で泉の水面を見つめていた。彼の表情は、響き石の近くで見せた苦悶とは対照的に、とても穏やかだ。
「なあ、コハル。ここの匂い、すごく落ち着く…。それに、なんだか、いろんな匂いがいつもよりはっきりわかる気がするんだ」
彼は、自分の鼻をくんくんさせながら言った。やはり、彼の感受性は音だけでなく、匂いにも及び始めているのかもしれない。この聖なる泉が、彼の眠っていた感覚を呼び覚ましたのだろうか?
一方、エルウィンは感傷に浸る様子もなく、既に泉の調査を開始していた。彼は泉の縁に膝をつき、水面に顔を近づけて水質を確かめたり、周囲に生えている特殊な苔や、泉の底に見える奇妙な模様が刻まれた石などを注意深く観察している。その目は、学者の探求心というよりも、獲物を見つけた狩人のように鋭く、何か具体的な「証拠」や「力」の痕跡を探し求めているのが明らかだった。
そのエルウィンの行動を、ガルムは厳しい視線で監視していた。彼は泉から少し離れた場所に立ち、腕を組んで微動だにしない。しかし、その全身からは、泉の神聖さを汚す者は決して許さないという、強い意志が放たれていた。エルウィンが泉の水に手を浸そうとした瞬間、ガルムは低い唸り声を発し、鋭い眼光で牽制した。エルウィンは、仕方なく手を引っ込める。この森狼族の番人がいる限り、彼が泉から何かを採取したり、不用意に干渉したりすることはできないだろう。
私は、三者三様の反応を観察しながら、長老の謎掛けについて思考を巡らせていた。
『森が囁き、石が歌う時、見えぬ道が現れる。その道の先に眠るは、始まりの香り。…始まりの香りとは、何か?』
「森の囁き」はおそらく森のざわめきや特定の条件、「石の歌」は響き石の音、「見えぬ道」はリアンの感覚が示した道筋。そして、その道の先にあったのが、この泉と、この香り。
ならば、答えは明白だ。
(始まりの香りとは…この泉から発せられる、この香りそのもの。それは、言葉や理屈を超えて、生命の根源や、森の記憶、あるいは調和といったものを、私たちの心に直接感じさせる『何か』…)
そう結論付けた瞬間、すとん、と胸の裡に何かが落ちるような、納得感があった。これは、論理的な推論というより、この場の空気と香りがもたらした、直感的な理解だった。
しかし、謎掛けの答えが見えたとしても、それで終わりではない。むしろ、新たな疑問が次々と湧き上がってくる。
なぜ、この香りが「始まり」なのか? この泉は、いつ、どのようにして生まれたのか? 森狼族にとって、この泉はどのような意味を持つ聖域なのだろうか? 彼らは、この香りをどのように理解し、利用してきたのか? そして、エルウィンの言う「世界と調和する力」と、この泉は、どう関係しているのか?
謎は、解けたと同時に、さらに大きな謎へと姿を変えた。
私は、目の前に広がる神秘的な泉と、それを守る森狼族、そしてそれぞれの思惑を抱える仲間たちを見渡した。
この泉の秘密を探ること。それが、私の次なる探求のテーマとなるだろう。そのためには、まず長老に謎掛けの答えを報告し、彼らの信頼をさらに得る必要がある。そして、願わくば、この泉と香りについて、もっと詳しく話を聞かせてもらいたい。
私の決意は、泉の清らかな香りのように、静かに、しかし確かなものになっていた。




