第6章2節:知識の価値
長老の問いは、静かな部屋の中で重く響いた。エルウィンは後ろで黙って成り行きを見守り、リアンは私の隣で固くなっている。全ての視線が、私の答えを待っていた。
なぜ、言葉を知りたいのか。その知識は何の役に立つのか。
前世であれば、学術的な意義や、人類の知の発展への貢献といった、もっともらしい理由を述べただろう。だが、この異世界で、この森狼族の長老の前で、そのような建前が通用するとは思えない。
私は、ゆっくりと言葉を選びながら、話し始めた。
「長老様。私が言葉を知りたいのは…それが、面白いからですわ。世界には、私の知らない、たくさんの『考え方』や『感じ方』がある。言葉は、それを知るための最も良い手がかりなのです。音声だけでなく、匂いや仕草で伝えられる言葉があるのなら、それは、私がこれまで知っていた世界よりも、もっと豊かで、奥深い世界があるということ。それを知らずにいるのは、私には耐えられないのです」
私は、一度言葉を切り、長老の目を見つめて続けた。
「そして、私の知識が何の役に立つか、というお尋ねですが…正直に申し上げて、今の私にはわかりません。前世では、私の研究が学術界で評価されることはありました。しかし、それが直接、誰かの生活を豊かにしたかと問われれば、自信を持って『はい』とは答えられません。ただ…」
私は、木漏れ日の村ソーラでの日々を思い出した。言葉が通じなかった時のもどかしさ、そして、言葉が通じた時の喜び。異なる種族が、互いを理解しようと努力する姿。
「ただ、言葉を知り、相手を知ろうとすることが、無用な争いを避け、異なる者同士が共に生きていくための、ささやかな助けにはなるかもしれない、と信じています。誤解は、多くの場合、無知から生まれますから。もし、私の知識が、ほんの少しでも、その『理解』の助けになるのなら、それ以上に嬉しいことはありません」
私の言葉に、長老は黙って耳を傾けていた。その表情は厳格なまま変わらないが、瞳の奥に、微かな揺らぎが見えたような気がした。
後ろに控えていたエルウィンが、ここで助け舟を出すかのように口を開いた。
「長老殿。コハルの知識は、単なる好奇心だけではありません。彼女の持つ体系的な言語分析能力は、あるいは、貴種族に伝わる古い伝承や、失われた言葉の意味を解き明かす一助となるやもしれません。それは、貴種族にとっても、価値あることではないでしょうか?」
エルウィンは、巧みに自分の目的と結びつけて、私の知識の有用性をアピールする。抜け目のない男だ。
長老は、エルウィンを一瞥したが、すぐに再び私に視線を戻した。
「ふん…失われた言葉、か。我らの伝承は、文字ではなく、心と、そしてこの森そのものに刻まれておる。よそ者の知識で解き明かせるほど、浅くはない」
長老はエルウィンの言葉を退けたが、その口調には、先ほどの拒絶とは少し違う響きがあった。まるで、何かを試しているような…?
「コハルよ」
長老は再び私に呼びかけた。
「お前の言う『理解』が真であるならば、一つ、試させてもらおうか」
「試す、と仰いますと?」
「うむ。我らの里には、古くから解かれぬままの『謎掛け』がある。それは、言葉遊びのようであり、同時に、我らの祖先の知恵が込められたものだ。もし、お前がその謎掛けの意味を解き明かすことができるならば…お前の知識の価値を、少しは認めてやらんでもない」
謎掛け。
それは、言語学者にとって挑戦しがいのある課題だ。
「…お受けいたします、長老様。どのような謎掛けでしょうか?」
私は、迷わず答えた。
長老は、満足したように微かに頷くと、ゆっくりとその謎掛けを語り始めた。
「『森が囁き、石が歌う時、見えぬ道が現れる。その道の先に眠るは、始まりの香り。…始まりの香りとは、何か?』」
森が囁き、石が歌う…? 見えぬ道…始まりの香り…。
それは、単語の意味を問うているだけではない。比喩や象徴が多用された、詩的で、深い意味を含んだ問いだ。そして、「石が歌う」という表現は、明らかにあの響き石を連想させた。
これは、単なる謎掛けではない。この里の秘密や、あるいは古代の知識に繋がる、重要な問いなのかもしれない。
私の胸は、再び知的な興奮で高鳴り始めていた。




