第6章1節:長老の問い
森狼族の集落での朝は早い。
夜明けと共に、人々は活動を開始する。狩りの準備をする者、家畜の世話をする者、子供たちの騒がしい声。私たちの滞在する客人用の小屋にも、朝の光と共に、集落の生活音が遠慮なく響いてきた。
「ふむ…今日も賑やかですわね」
私は、リアンが分けてくれた木の実(少し酸っぱいが、栄養はありそうだ)を齧りながら、小屋の小さな窓から外の様子を窺った。相変わらず、小屋の周囲にはガルムともう一人の若い森狼族が、腕を組んで立っている。彼らの鋭い視線は、私たちの行動を常に捉えていた。
昨日の子供との交流で、匂い言語への手掛かりを掴んだような気がしていたが、この厳重な監視下では、さらなる観察や聞き取りは難しい。ノートを開き、昨日の記録を整理しようとしたが、どうにも落ち着かなかった。視線を感じながらの作業は、前世の書斎での研究とは勝手が違いすぎる。
「なあ、コハル。今日もずっと見張られてるのかな?」
リアンが、少し不満そうな声で呟いた。彼も、この窮屈な状況に飽き飽きしているのだろう。
「仕方ありませんわ。私たちは部外者なのですから。信頼を得るまでは、辛抱が必要です」
私はリアンを宥めつつ、何か状況を打開する手立てはないかと考えた。そうだ、ガルムさんに、もう少し話を聞いてみよう。昨日の子供のこともあったのだから、少しは態度が軟化しているかもしれない。
意を決して小屋を出て、ガルムに近づいた。エルウィンも興味深そうに、小屋の戸口から様子を見ている。
「ガルムさん、おはようございます」
私が声をかけると、ガルムは無言で私を一瞥しただけだった。やはり、警戒心は解けていないようだ。
「あの、昨日、里の子供さんと少しだけお話しできたのですが…その時、とても温かい匂いがしたように感じました。あれは、どういった意味を持つ匂いなのでしょうか?」
私は、できるだけ穏やかに、純粋な学術的興味を装って尋ねてみた。
しかし、ガルムの返答は冷ややかだった。
「…部外者に話すことではない。長老の許可なく、我らの『香り』を嗅ぎ回ることは許されん。弁えろ、人間の子」
彼の声には、明確な拒絶と警告が含まれていた。「香り」という言葉を使ったことから、彼らにとって匂いが単なる生理現象ではなく、意識的なコミュニケーション手段であることを裏付けているようだが、これ以上の情報を得ることはできそうにない。
「……失礼いたしました」
私はすごすごと引き下がるしかなかった。やはり、一筋縄ではいかない。里の掟は厳しく、彼らの心の壁は厚い。
リアンが、私の隣に来て、心配そうに顔を覗き込んできた。
「大丈夫か、コハル? あいつ、言い方ってもんがあるよな!」
「いいえ、リアン。彼らは自分たちの文化を守ろうとしているだけですわ。私たちが、それを尊重しなければ」
内心の落胆を隠し、私は努めて冷静に答えた。
諦めて小屋に戻ろうとした、その時だった。
ガルムが、私たちを呼び止めた。
「待て。長老がお呼びだ。…お前たち三人を、だ」
その言葉に、私たちは顔を見合わせた。長老の呼び出し。一体、何の話だろうか。許可を取り消されるのか、それとも何か別の展開があるのか。緊張が走る。
私たちは、ガルムに案内され、集落の中央にある長老の家へと向かった。周囲の森狼族たちの視線が、いつも以上に鋭く感じられる。
長老の家は、外観も集落で一番大きかったが、中に入ると、その広さと独特の雰囲気に改めて息を呑んだ。壁には、見事な獣の毛皮や、狩りの道具、そして意味不明な模様が描かれたタペストリーのようなものが掛けられている。中央には石で組まれた囲炉裏があり、部屋全体には、燻された木の匂いと、獣の匂い、そして何か薬草のような香りが混じり合った、濃厚な匂いが満ちていた。
部屋の奥、柔らかな毛皮が敷かれた座に、長老が静かに座っていた。昨日と同じ、厳しくも賢者の風格を漂わせる姿だ。彼は、私たちが部屋に入るのを見届けると、ゆっくりと顔を上げ、その射抜くような瞳で、まず私を捉えた。
「…コハル、と申したか」
長老の声が、静かな部屋に響く。
「はい、長老様」
私は、背筋を伸ばして答えた。
「お前は、我らの言葉を学びたいと申したな。…なぜだ? なぜ、そこまでして、異種族の、しかも音声だけではない言葉を知りたがる? お前のその知識は、一体、何の役に立つというのだ?」
長老の問いは、シンプルだが、核心を突いていた。私の知識欲の根源、その目的を問うているのだ。下手な言い訳は通用しないだろう。私は、自分の心を正直に伝えるしかない、と覚悟を決めた。




