第1章第2節:最初の出会いと言葉
私が自身の状況把握に努めていると、不意に、茂みの向こうから人の気配が近づいてきた。
がさがさ、と葉を踏む音。そして、何事かを呟く声。
その声は、私の知るどの言語とも異なっていた。
日本語でも、英語でも、ドイツ語でも、ラテン語でもない。全く未知の響き。
しかし、そこには確かに、何らかの規則性、言語としての構造が感じられる。
(……ほう。これが、この世界の言葉か)
知的好奇心が疼くのを感じながら、私はゆっくりと身を起こした。寝かされていたのは、どうやら柔らかい草と落ち葉を敷き詰めた簡易的な寝床のようだ。森の中なのだろうか。
茂みから現れたのは、年の頃は十二、三歳といったところだろうか、快活そうな顔立ちの少年だった。獣の皮で作ったような簡素な服を着て、背中には小さな弓を背負っている。彼は私に気づくと、ぱちくりと目を瞬かせ、驚いたように声を上げた。
「△※□×? ◇○△、※△◎!」
やはり、理解できない。だが、その声色や表情から察するに、驚きと、安堵のようなものが混じっているように感じられた。彼が私を発見し、介抱してくれたのだろうか?
私は、できるだけ穏やかな表情を作り、ゆっくりと口を開いた。
「……あの、」
声を出して、また驚いた。自分の声が、澄んだ、鈴を転がすようなソプラノになっている。百八歳の老婆の声ではない。これもまた、慣れるのに時間がかかりそうだ。
少年は私の声を聞いて、さらに目を丸くし、何か早口で問いかけてくる。
「◎◇? □○△※、※×?!」
駄目だ。全く分からない。言語学者として、未知の言語に触れるのはこの上ない喜びであるはずなのに、今は自分の意思を伝えられないもどかしさが勝る。
私は、首を横に振り、困ったように微笑んでみせた。そして、自分自身を指差し、次に「言葉が分からない」という意図で、口元で手を左右に振ってみる。古典的なジェスチャーだが、伝わるだろうか。
少年は、しばらく私の顔と手振りを交互に見ていたが、やがて何かを察したように、こくりと頷いた。そして、今度はゆっくりとした口調で、身振りを交えながら話しかけてくる。
「ソーラ。□○、ソーラ」
彼は自分の胸を軽く叩き、次に特定の方向を指差した。ソーラ? それが地名だろうか。あるいは、彼の名前か? いや、方向を指しているから、おそらくは地名、彼がこれから向かう場所を示しているのかもしれない。
彼は私に立ち上がるよう促す仕草をし、手を差し伸べてきた。その目には、警戒心よりも、純粋な心配の色が浮かんでいるように見える。
私は差し出された手を取り、ゆっくりと立ち上がった。少しふらついたが、少年がしっかりと支えてくれる。
(ふむ。まずは、この少年に付いていくしかなさそうだな)
言葉は通じなくとも、彼の親切は伝わってくる。私は彼に頷き返し、感謝の意を込めて微笑んだ。
少年はにっと笑うと、私を促して歩き出した。森の中を抜ける道は、私の新しい、小さな足には少し歩きにくかったが、自由に動けることの喜びが、疲労感を上回っていた。
是枝春子の、百八歳からの再出発。それは、言葉の通じない少年との、奇妙な二人歩きから始まった。