第5章4節:匂いと言葉の片鱗
森狼族の集落での滞在が許されてから、数日が経過した。
私たちは、集落のはずれにある、客人用の小さな小屋を与えられた。質素だが、清潔で、最低限の生活は送れる。ただし、常に監視の目が光っていた。案内してくれた青年――名をガルムというらしい――をはじめ、数人の若い森狼族が、交代で私たちの行動を見張っているのだ。集落内を自由に歩き回ることは許されず、行動範囲は厳しく制限されていた。
それでも、私にとっては全てが新鮮で、興味深い観察対象だった。
森狼族の人々(彼らを「人」と呼ぶのが適切かは分からないが)の日常の仕草、互いの距離感、視線の交わし方、そして何よりも、彼らが発する微かな匂いの変化。
長老の言う通り、彼らのコミュニケーションは、共通語や彼ら自身の音声言語だけでは成り立っていないようだった。
例えば、ガルムが他の若者と話している時。言葉の内容は穏やかでも、彼の耳がぴくりと動き、尻尾が僅かに硬直する瞬間がある。そして、その時、風に乗って、微かに、焦げたような、あるいは金属的な匂いが漂ってくるのを感じるのだ。それは、おそらく怒りや警戒心を表すサインなのだろう。
逆に、子供たちが無邪気にじゃれ合っている時には、甘く、温かいような匂いが周囲に満ちている。喜びや親愛の情を示す匂いなのかもしれない。
もちろん、私にはこれらの匂いを正確に嗅ぎ分けたり、その意味を完全に理解したりすることはできない。私の鼻は、彼らに比べれば、ほとんど機能していないに等しいだろう。しかし、前世で培った観察力と分析力で、状況と言動、そして微かな匂いの変化を関連付け、パターンを見つけ出そうと試みた。
「リアン、今のガルムさんの匂い、何か感じましたか?」
私は、リアンにこっそり尋ねてみた。彼なら、私よりも鋭敏に何かを感じ取っているかもしれない。
「え? 匂い? うーん、なんか、ちょっとツンとするような感じはしたけど…よくわかんねえや」
リアンは鼻をひくつかせたが、明確には分からないようだった。彼の特殊な感受性は、今のところ「音」に限定されているのかもしれない。あるいは、匂いに関しても、まだその能力が覚醒していないだけか。
エルウィンは、私とは違うアプローチで情報を得ようとしていた。彼は、長老や、ガルムをはじめとする比較的外部に理解のある(ように見える)者たちと、積極的に対話を試みていた。彼らの歴史や伝承、特に古代に関する知識を引き出そうとしているのだ。しかし、森狼族の警戒心は強く、なかなか核心に触れるような話は聞けていないようだった。
そんな中、私にとって一つの転機が訪れた。
ある日、私が小屋の前で言語ノートを整理していると、一人の小さな森狼族の子供が、おずおずと近づいてきたのだ。年の頃は五、六歳だろうか。好奇心に満ちた大きな瞳で、私のノートを覗き込んでいる。
周りを見ても、監視役のガルムたちの姿は少し離れた場所にあった。
私は、子供を驚かせないように、ゆっくりと微笑みかけ、ノートに描いた花の絵を指差した。
「これは、お花ですわ。綺麗でしょう?」
子供は、こくりと頷いた。そして、おもむろに、自分の胸のあたりをくんくんと嗅ぎ、それから私に向かって、ふわりと、陽だまりのような温かい匂いを放った。それは、以前子供たちがじゃれ合っていた時に感じた匂いと同じ種類のものだ。おそらく、「好き」とか「嬉しい」といった肯定的な感情を示しているのだろう。
私は、その純粋なコミュニケーションに、胸を打たれた。言葉(音声)ではなく、匂いで感情を伝える。なんと直接的で、嘘のない表現だろうか。
「ありがとう。私も、嬉しいですわ」
私は、言葉と、そして精一杯の笑顔で返した。匂いで応えることはできないけれど、私の気持ちが少しでも伝わればいい、と思った。
子供は、私の反応に満足したのか、きゃっきゃっと嬉しそうに笑い声を上げ、母親らしき女性に呼ばれて駆けていった。
短い交流だったが、私にとっては大きな一歩だった。森狼族の言語…その豊かな世界の一端に、ほんの少しだけ触れることができたのだ。
この匂いによるコミュニケーションを、どうすればもっと深く理解し、記録できるだろうか? 何か、匂いを客観的に捉える方法はないものか…?
私の頭の中では、新たな課題と探求への意欲が、ふつふつと湧き上がっていた。警戒の目は解けなくとも、私のフィールドワークは、確実に前進している。




