第5章3節:森狼族の警戒
森狼族の青年に案内され、私たちはさらに森の奥深くへと進んでいった。道は、もはや獣道ですらなく、彼のような森の住人でなければ判別できないような、微かな痕跡を辿っていく。時折、青年は立ち止まっては周囲の匂いを嗅ぐような仕草を見せたり、鋭い耳を特定の方向へ向けたりしていた。これが、彼らの持つ鋭敏な感覚なのだろう。
一時間ほど歩いただろうか。不意に視界が開け、私たちは小さな谷間の集落にたどり着いた。
集落は、自然の地形を巧みに利用して作られていた。木々をそのまま柱や壁として利用した家々が十数軒、谷底に寄り添うように建っている。中央には広場があり、火が焚かれ、数人の獣人たちが何かの作業をしていた。狼の耳と尻尾を持つ者が多いが、中には犬のような垂れた耳を持つ者や、より大型の者もいる。おそらく、同じ森狼族の中でも、いくつかの系統があるのだろう。
私たちが現れると、広場にいた獣人たちは一斉に作業の手を止め、警戒に満ちた視線を向けてきた。特に、私とリアンという「人間の子」の姿は、彼らにとって異質で、脅威に映っているのかもしれない。空気が、ぴんと張り詰めるのを感じる。
案内してくれた青年が、集落の中央にある一番大きな家――おそらく長老の家だろう――へ向かって声をかけた。彼らの言葉…おそらく森狼族の言語なのだろう、低い唸り声や、喉を鳴らすような音が含まれており、共通語とは全く異なる響きを持っていた。
しばらくすると、家の中から、ゆっくりとした足取りで、一人の老人が現れた。
その老人は、案内してくれた青年よりもさらに体格が大きく、全身が白い毛で覆われている。顔には深い皺が刻まれ、鋭いながらも、どこか射抜くような賢者の風格を漂わせる瞳をしていた。彼が、この森狼族の長老なのだろう。
長老は、案内役の青年から何事か報告を受けると、静かに私たちの方へ視線を向けた。その視線は厳しく、私たちの存在を値踏みしているかのようだ。
エルウィンが一歩前に進み出て、丁寧な口調で挨拶を述べた。
「森狼族の長老殿におかれましては、ご健勝のこととお慶び申し上げます。我々は旅の者。知識を求め、この地を訪れました。どうか、我々の訪問をお許しいただきたい」
エルウィンの言葉遣いは完璧だったが、長老の表情は変わらなかった。
長老は、エルウィンではなく、私の方をじっと見つめた。そして、ゆっくりと口を開いた。その声は、古木が軋むような、深く、威厳のある響きを持っていた。
「……人間の子よ。お前が、我らの言葉を学びたいと申したそうだな」
彼の言葉は、共通語だった。外部の者との接触が全くないわけではないらしい。
「はい、長老様。私はコハルと申します。言葉を知ることは、その方々を知ること。私は、森狼族の皆様が紡いでこられた文化と知恵を、言葉を通じて学ばせていただきたいのです」
私は、臆することなく、まっすぐに長老の目を見て答えた。
長老は、しばらくの間、黙って私を見つめていた。広場には、他の獣人たちの厳しい視線も突き刺さっている。リアンは、私の隣で固唾を飲んで成り行きを見守っている。
やがて、長老は重々しく口を開いた。
「我らの言葉は、単なる音ではない。風の囁き、土の匂い、獣の気配…森の全てが、我らの言葉なのだ。お前のような、森を知らぬ人間の子に、それが理解できるとは思えぬ」
その言葉は、拒絶にも似た響きを持っていた。
だが、私は諦めなかった。
「お言葉ですが、長老様。私は、森を知りません。だからこそ、知りたいのです。音声だけではない、豊かな言葉の世界があるのなら、尚更です。どうか、私に学ぶ機会をいただけませんか? 決して、ご迷惑はおかけしません。ただ、観察し、記録させていただくだけでも構いません」
私は、深く頭を下げた。
長老は、私の必死の訴えに、わずかに目を見開いたように見えた。そして、隣に立つリアンと、その後ろに控えるエルウィンに視線を移した。
「……。その熱意、偽りではないようだな」
長老は、長い沈黙の後、そう呟いた。
「良いだろう。ただし、条件がある。お前たちが、我らにとって害意なき者であると示すこと。そして、我らの掟を絶対に破らぬこと。それができぬと判断した時は、即刻、この森から立ち去ってもらう」
厳しい条件だが、拒絶されなかっただけでも幸運だ。
「ありがとうございます、長老様! 必ず、お約束は守ります!」
私は、顔を上げて、力強く答えた。
エルウィンも、安堵したように息をついた。リアンは、よくわからないながらも、状況が良い方向へ進んだことを察して、少し表情を和らげた。
こうして、私たちは、森狼族の厳しい監視の下ではあるが、彼らの集落に滞在する許可を得ることができた。
これから、どのような発見が待っているのだろうか。そして、私たちは、彼らの信頼を得て、真の「言葉」に触れることができるのだろうか。
私の新たなフィールドワークが、今、始まろうとしていた。




