第5章2節:森の住人との遭遇
森の中を進む旅は、三日目に入っていた。
リアンの案内は的確で、私たちは迷うことなく南西へと進んでいたが、人の手がほとんど入っていない原生林は、想像以上に体力を消耗させた。木々の根が張り出した地面は歩きにくく、時には行く手を阻む密生した藪を切り開きながら進まねばならなかった。
そんな中、私の楽しみは、道中で見かける珍しい動植物を観察することだった。特に、鳥たちの鳴き声には注意を払っていた。木漏れ日の村ソーラ周辺とは異なる種類の鳥が多く、その鳴き声のパターンや音色の違いを分析するのは、言語学者としての良い訓練になった。
「今の鳴き声…非常に複雑な音節構造を持っていますわね。単純な警戒音や求愛の歌ではなさそうですが…」
私が足を止め、梢を見上げながら呟くと、リアンが呆れたように言った。
「コハル、また鳥と話してるのか?」
「話してはいませんわ。分析しているのです。鳥の鳴き声も、立派なコミュニケーションシステムですから」
「ふーん…」
エルウィンは、そんな私たちのやり取りには関心を示さず、黙々と周囲の気配を探っているようだった。彼は、単なる森の景色ではなく、もっと別の何か…古代の遺物の痕跡や、あるいは我々以外の存在の気配を感じ取ろうとしているのかもしれない。
その時だった。
不意に、進行方向の少し先の茂みが、がさがさと大きく揺れた。
「!」
リアンが素早く弓を構え、エルウィンも腰の短剣に手をかける。私も咄嗟に身構えたが、この非力な身体では、何かの役には立ちそうもない。
茂みから現れたのは、大型の鹿に似た動物…いや、よく見ると、その角は枝分かれした木の枝のようで、体毛は苔むしたような深い緑色をしている。この森の固有種なのだろう。その動物は、私たちに気づくと、一瞬動きを止め、警戒するように鼻をひくつかせた。
だが、私たちに敵意がないと判断したのか、あるいは興味を失ったのか、すぐに身を翻し、森の奥へと走り去っていった。
「…『苔むし鹿』か。珍しいな、昼間に姿を見せるとは」
エルウィンが、緊張を解いて呟いた。
「なんだ、鹿かよ。びっくりさせやがって…」
リアンも弓を下ろす。
ほっと一息ついた、その瞬間。
背後から、静かだが鋭い声がかけられた。
「そこで何をしている?」
私たちは、弾かれたように振り返った。
そこには、いつの間にか、一人の人物が立っていた。
年の頃は二十代後半だろうか。すらりとした体躯に、獣の皮と丈夫な布を組み合わせた、動きやすそうな衣服を纏っている。腰には鉈のような刃物。そして何より目を引くのは、彼の頭部から生えた、ピンと立った狼のような耳と、背後で揺れるふさふさとした尻尾だった。
森狼族。エルウィンが言っていた獣人の一種だ。
彼の瞳は、鋭い警戒心と、野生動物のような獰猛さを宿して、私たちを射抜くように見つめていた。手は、腰の鉈にかけられている。
「我々は旅の者だ。この森を抜け、南西へ向かっている」
エルウィンが、冷静に、しかし油断なく答えた。
「南西…? 何の目的で」
獣人の青年は、低い声で問い詰める。彼の言葉は大陸共通語だったが、少し硬いというか、独特の抑揚があった。
「我々は、知識を求める者。この森に住むという獣人の方々の文化や言葉について、学ばせていただきたいと考えている」
エルウィンの返答は、半分は本当で、半分は方便だろう。彼の真の目的を、初対面の相手に明かすはずがない。
獣人の青年は、私たち一人一人をじろりと見回した。特に、私とリアン…子供にしか見えない私たちの存在が、彼の警戒心をさらに強めているようだった。
「外部の者が、我々の里に近づくことは許されていない。引き返せ」
彼の声には、有無を言わせぬ響きがあった。
「お待ちください」
私は、一歩前に出た。リアンが、私の腕を掴んで止めようとしたが、私はそれを制した。
「私たちは、決して敵意を持って来たわけではありません。ただ、純粋に、あなた方のことを知りたいのです。あなた方が使うという、匂いや仕草を含めた豊かな言葉について、ぜひ学ばせていただけませんか?」
私は、できるだけ誠意を込めて、まっすぐに彼の目を見て訴えた。私の武器は、この知的好奇心と、それを伝える言葉だけだ。
獣人の青年は、私の言葉に少し驚いたような表情を見せた。彼らの言語に興味を持つ、しかもこんな幼い(ように見える)少女が?
彼は、しばらくの間、黙って私を見つめていた。その鋭い瞳が、私の言葉の真偽を探っているように感じられた。
やがて、彼はふっと息を吐き、腰の鉈から手を離した。
「……長老に、お前たちのことを報告する。判断は、長老が下されるだろう。それまで、勝手な行動はするな。ついてこい」
彼はそう言うと、私たちに背を向け、森の奥へと歩き出した。
拒絶ではなかった。ひとまず、対話の機会は得られたようだ。
私たちは、顔を見合わせ、黙って彼の後を追った。森の住人との、予期せぬ遭遇。これが、獣人の里への扉を開くきっかけとなるのだろうか。




