第3章2節: 石に刻まれた謎
「おお……これが、遺跡…」
リアンが、思わずといった感じで声を漏らした。彼にとっても、この場所の持つ独特の雰囲気は感じ取れたらしい。
エルウィンは、感慨深げに遺跡全体を見渡し、それからゆっくりと石柱の一つに近づいた。
「やはり、間違いない。これは原初の言葉文明、その中でもかなり古い時代の様式だ。見てみろ、この柱の渦巻き模様。彼らが自然界の力を象徴として捉えていた証左の一つと考えられている」
私もエルウィンの隣に行き、石柱の表面を食い入るように見つめた。確かに、渦巻きや波のような曲線的な模様が多用されている。だが、それ以上に私の目を引いたのは、模様の間に刻まれた、文字らしき記号だった。
「この記号は…文字ですわね? 見たことのない体系ですが…」
それは、私が知るどの文字体系とも異なっていた。
象形文字のようにも、表音文字のようにも見えるが、そのどちらとも断定できない、複雑で有機的な形をしている。いくつかの記号は、まるで生き物のようにも見えた。
「ああ。これが、我々が『古のルーン』と呼んでいるものの一部だ。完全には解読されていないが、いくつかの記号の意味や発音は推測されている。例えば、この波のような記号は『水』あるいは『流れ』を、こちらの鳥のような記号は『風』あるいは『声』を表すと考えられている」
エルウィンは、指で記号をなぞりながら説明する。彼の知識の深さには改めて感嘆するが、それでも「推測」の域を出ないという。完全な解読には、まだ多くの手がかりが必要なのだろう。
私は鞄から言語ノートと、炭の棒(村で分けてもらったものだ)を取り出し、石柱に刻まれた文字をスケッチし始めた。
写真機でもあれば便利なのだが、無い物ねだりをしても仕方ない。
自分の目で見て、手で書き写す。これこそが、フィールドワークの基本だ。
集中して文字を写していると、エルウィンが隣で呟いた。
「この遺跡は、おそらく何らかの儀式に使われた場所だろう。この中央の祭壇と、周囲の石柱の配置…音響効果を考慮している可能性がある」
「音響効果、ですか?」
私は顔を上げてエルウィンを見た。彼の視線は、中央の崩れた祭壇に向けられている。
「ああ。原初の言葉文明は、音…特定の周波数や響きが持つ力を重視していたという説がある。この場所で特定の言葉を発したり、楽器を奏でたりすることで、何らかの現象を引き起こしていたのかもしれない」
音の力。
エルウィンの言葉は、先ほどリアンが聞いたという「変な鳥の声」と、私の頭の中で微かに結びついた。まさか、この遺跡自体が、何か特殊な音を発している、あるいは増幅しているというのだろうか?
私は周囲の気配に、より注意深く意識を向けた。
風の音、葉擦れの音、遠くの水の音…。
やはり、私には特別なものは感じられない。
一方、リアンは遺跡そのものよりも、周囲の森の様子が気になるようだった。彼は石柱の周りをうろうろしながら、時折、森の奥を窺ったり、地面の痕跡を調べたりしている。
「なあ、エルウィンの旦那。この辺り、なんか静かすぎないか? さっきまで聞こえてた鳥の声も、あんまりしなくなった気がするんだけど」
「…確かに、そうかもしれんな。この遺跡の周辺は、動物が寄り付きにくいという話もある。理由は定かではないが」
エルウィンはこともなげに答えたが、リアンは何か腑に落ちない、という表情をしていた。
私は再び石柱の文字に集中した。
一つ一つの記号を観察し、その形状の特徴、他の記号との組み合わせのパターンなどを記録していく。
これは、骨の折れる作業だが、同時に無上の喜びでもある。
未知の言語の断片に触れ、その構造を解き明かそうとする試み。
これこそが、私の生きがいなのだ。
いくつか書き写したところで、一つの記号が特に私の注意を引いた。
それは、他の記号よりも複雑な形状をしており、まるで耳を澄ませている人の横顔のようにも見える記号だった。
(これは…『聞く』、あるいは『理解する』といった意味だろうか? それとも…)
その記号を見つめていると、不意に、ごく微かな、高周波のような音が耳の奥で響いたような気がした。
キーン、というような、耳鳴りに似た音。しかし、それはほんの一瞬で、すぐに消えてしまった。
気のせいだろうか? 私は首を振ると、再びノートに意識を戻した。だが、あの奇妙な記号と、一瞬の耳鳴りの感覚は、私の記憶に深く刻み込まれた。
私が石柱の文字のスケッチに没頭している間も、リアンは落ち着かない様子で遺跡の周辺を探索していた。彼は、私やエルウィンのような学術的な興味ではなく、もっと本能的な感覚で、この場所の異変を感じ取っているようだった。
「やっぱり変だ。なんか、空気がピリピリする感じがする」
リアンが、祭壇の近くで地面を調べていたエルウィンに話しかけた。
「ほう? 君は、感覚が鋭いようだな」
エルウィンは、意外そうにリアンを見た。彼の関心は、これまで主に私に向けられていたからだ。
「そりゃあ、オレは村じゃ猟師の見習いだからな! 森のことなら、エルウィンの旦那より詳しいぜ!」
リアンは少し得意げに胸を張る。
「ふむ。ならば、何か気づいたことはあるか? 例えば、動物の気配とか」
エルウィンは、興味深そうに問いかけた。
リアンは、真剣な表情になり、再び周囲に注意深く耳を澄ませた。そして、森の一角を指差した。
「あっちの方角…さっきから、時々、変な音がするんだ。鳥の声じゃない。もっと、こう…キーン、みたいな、高い音が混じってるような…」
キーン、という音。それは、先ほど私が一瞬だけ感じた耳鳴りに似ている。まさか、リアンにも聞こえているというのか? しかも、断続的に。
「高い音、だと? 私には聞こえんが…」
エルウィンも耳を澄ませたが、やはり何も聞こえないようだった。
「私もですわ、リアン。本当に聞こえるのですか?」
私もスケッチの手を止め、リアンに尋ねた。
「ああ! 今もだ! 聞こえないのか? コハルも、エルウィンの旦那も」
リアンは不思議そうに、私たちと森の奥を交互に見ている。彼にははっきりと聞こえているらしい。
これは、どういうことだろう?
考えられる可能性はいくつかある。
一つは、リアンが、私やエルウィンには聞こえない高い周波数の音を聞き取る能力を持っていること。若い人間の可聴域は、高齢者よりも広いのが一般的だが、それにしてもエルウィン(エルフの血を引いているなら、聴覚は鋭いはずだ)に聞こえないというのは奇妙だ。リアンには、何か特別な聴覚があるのかもしれない。
もう一つは、その音が、物理的な音ではなく、別の何か…例えば、精神的な干渉や、この土地に宿る特殊なエネルギーのようなものである可能性。あるいは、特定の種族、特定の感受性を持つ者にしか知覚できない現象か。
(リアンの耳…あるいは、彼自身の持つ何らかの特性が、この遺跡、あるいはこの森の特殊な『声』を捉えている…?)
私の言語学者としての興味は、石柱の文字から、リアンが聞いているという未知の「音」へと移り始めていた。それは、音声言語の枠を超えた、新たなコミュニケーションの可能性を示唆しているのかもしれない。
「リアン、その音がする方向へ、少しだけ近づいてみてもよろしいかしら? 無理はしませんから」
私は、知的好奇心を抑えきれずに提案した。
「え? でも、なんか不気味だぞ…」
リアンは少し怖気づいているようだったが、私の真剣な眼差しに気づくと、意を決したように頷いた。
「…わかった。でも、絶対無理すんなよ! 危なくなったら、すぐに引き返すからな!」
「心得ていますわ」
エルウィンも、反対はしないようだった。彼もまた、この現象に興味を引かれているのかもしれない。あるいは、リアンの言う「音」の正体に、何か心当たりがあるのか。
私たちは、リアンを先頭に、彼が指し示した森の奥へと、慎重に足を踏み入れた。
石柱の遺跡から離れるにつれて、リアンが言う「音」は、次第に大きくなっているようだった。少なくとも、リアンにとっては。私には、依然として森の静寂しか感じられない。
リアンの表情が、徐々に険しくなっていく。
「う…なんか、頭に響くような感じだ…」
彼は、こめかみを押さえながら呟いた。
これは、単なる音ではないのかもしれない。
私たちは、未知の領域へと、一歩ずつ近づいていた。




